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N-蝿の王

金広と桃瀬との激闘は苦しく、気を抜けばいつやられてもおかしくなかった。だが僕は一番大事なことを忘れていない。久世さんの居場所を知ると、成瀬にそこを破壊させた。これで、一步、彼女に近付くことができた。だがそれを阻む最後の敵――“月”の菱木要次郎が、現れた。

「【A-ドラッグ】……だって……?」

 成瀬が、焦燥とも絶望を織り交ぜたような声を絞り出した。

 薄暗い地下の部屋は、その瞬間時が止まったように思えた。

 彼らの間に緊迫したなにかが張り詰める。

 どんなドラッグなのか知らないし、どんな意味があるのかも知らない。

 ただわかるのは、僕らは遅かったということだ。

「へえ、そこの君は【A】を知っているのか。もしかして「裏」の出身なのかい? ま、今出回ってるのはβ版とでも呼ぶべきモノだけどね」

「……あなたが、あれの製作者……?」

「利のいい副業だよ。ついでにデータも採れるからね。しかし、難儀な特注だったから、ホルダーを見つけるのに苦労したよ」

 薬品と、焦げた臭いと、渦巻く悪意が地下室を満たしていた。

 成瀬が額から汗を流している。

 二人が何の話をしているのかわからない。けれど。

 こいつだけは許してはいけない。

 身体の内側から底知れない怒りが吹き出す。

 その時、菱木が、今初めて僕の存在に気付いたような表情でこちらを見た。

「ええと、ウジ、だったかな? 恋する奴隷くん。……アハハハ! おやおや相当お冠じゃないか! どうしたんだい? なにか、気に障ったかな?」

「……なんで」

「うん?」

「なんで……久世さんの……彼女の身体を傷付けた」

 僕の怒りの籠もった言葉に、菱木はさも困ったようにぽりぽりと頭を掻いた。

「うーん。だから言っただろう? 人体で一番余分なところを選んであげたんだから、この慈悲に感謝こそすれ、その言葉は失礼じゃないのかな」

 そしてこいつは、嬉しそうに笑って。

「……ククク、まあ、君がそんなに騒ぐんだった、返してあげてもいいよ」

 そして、ぽっかりと空いた壁の穴を指さして。

「切った乳房はあそこに置いてあるから持って帰りな。家でしゃぶりたいんだろう?」


 もうなにも考えられなかった。

 激情で頭がおかしくなりそうで、真っ白になって。

 気が付けば僕は菱木に向かって何か叫びながら走って行っていて。

 子供みたいに拳を振り回し滅茶苦茶に虫を出し突進して。


 最小の動作で躱された。

 空を切り、バランスが崩れたところを後ろから蹴られ、つんのめりそうになるのを髪を強く掴まれ戻される。

 菱木の左手が僕の喉を絞める。

 なんとか外そうとしてとにかく藻掻くが、彼の手は万力のように強力でびくともしない。

 その剛腕で宙に吊り上げられる。息ができない苦しみに、僕を支配していた憤怒が一旦退いた。

 そして彼を見下ろすと。

 広げられた、彼の右手が。

 黒く、染まっていて。


「【月さえ蝕む魔障の毒(グランギニョル)】」


 菱木要次郎の右掌が僕の口を塞いだ。

 そこからどろりとした漆黒の霧が流れ込み。

 喉の粘液を静かに凶暴に焼いて殺して蛇のように全身に侵入はいろうと身をくねらして。

 声にならない悲鳴を上げた。

「アーッハッハッハッハッハッハ! イヒヒヒヒヒヒヒヒ!」

 痛い焼ける身体が壊れる侵されるどろどろと全部が胃が内臓がぐちゃぐちゃに崩れて壊されて掻き回されて熱い血が噴水みたいに噴き出そうとしていて痛い痛い痛い痛い痛い痛いいたい。

 あまりの痛みと苦しみに僕は涙と汗といろんな体液を流した。

 汚いと言わんばかりに、菱木は僕を床に打ち捨てる。

 鈍い音を立てて僕は、無様に転がった。

「こんな愚物だとは思わなかったよ……! 実に安い挑発に乗ったものだ! アハハハ! もう手遅れだろうね、なにせ【月さえ蝕む魔障の毒(グランギニョル)】は最強の“毒”だァ」

 身体が言うことを聞かない。

 立とう、あいつをぶちのめそう、久世さんの悲しみを返してやろう。

 どれだけ心が熱く熱されていても。

 指は痙攣しているばかりで、役に立たなくて。

「則明!」

 哄笑する菱木の懐に成瀬が飛び込んだ。

 手を触手に変え、獣のような眼光を嗤う男へ飛ばし、横に薙ぐ。

 その素早い攻撃に容易く反応し、嗤う男は左手で襲いかかる触手を掴んだ。

 常人ならば耐えられない衝撃を――菱木はけろりとした様子で受け止めていて。

 左の手がじわりと染み出すように黒くなった。

 霧が吹き出す。辺りの空間がその“毒”で満たされる。

 そして、それが侵蝕するのは空気だけでなく、成瀬の触手も同様であり。

 彼の肉はドス黒く変色していった。

 驚愕に目を見開く成瀬――だがすぐに我に返り、もう片方の手をかざし、毒に染まった肉塊に雷撃を放った。

 ぼろぼろと、病根となった触手が崩れる。

 そして飛び退るように距離を取り、手を、菱木にかざして。

「食らえ!」

 再度轟音を響かせる青い雷。

 強烈な雷光が溢れ返る。

 避け得るはずもない、光速の神撃は。

 だが、埋め尽くしていた光が引くと。

 菱木の手の前に聳え立つ、薄く白く濁った不可視の壁に遮られていたという現実を、ありありと見せつけていた。

「……【キネシス】 おや? なんだいその顔は……。まさか「凝圧」を知らないなんて言わないだろうね? まあどうでもいいが」

「……これが、“毒”」

 赤月が言っていた、この男の力。

 菱木は【バイオス】と【キネシス】の二つ持ちセカンズだ。

【バイオス】で作り出した毒を【キネシス】の流れで操り、殺す。

 致死率百%の猛毒。だが、真に恐ろしいのはそれだけでなく――

「ミハエル様!」

 菱木の両手から垂れ流されている毒の霧は広り。

 彼の傍にいる金広と桃瀬にまで迫っていた。

 金広は、自身の【キネシス】で壁を作って防ごうとしているが。

 獰猛な毒は、そんな超能力の壁を、じわりじわりと蝕んでいた。


 ――【月さえ蝕む魔障の毒(グランギニョル)】の真の力。

 菱木要次郎の毒は、【キネシス】を侵蝕する。


 毒は広がり、彼らを呑み込もうとしている。

 桃瀬が、どこまでも暗い霧に向かって手をかざすが、それ以上なにもできない。

【ウェイズ】で散らせるかもしれないが、そのまま拡散させてしまって、自らの首を絞めることになるかもしれない。

 死が形を伴ってそこにいるようなものだった。血の気を失った真っ白な表情で立ち尽くすしか無い。

「こ、このままでは共々死んでしまいます……! どうか、どうかこの毒を……!」

 いつも自信に満ち、天才と持て囃されていた二つ持ちセカンズの言葉に、菱木は、面倒くさそうに振り返り。

「自分でなんとかしてくれ。出したらもう戻せないんだよ」

 そう言い捨てた。

 金広の目から涙が零れていた。

 必死に【キネシス】の壁を厚くするが、ただの死を先延ばししているに過ぎない。

 逃げ場を断つようにして金広を囲む【月さえ蝕む魔障の毒(グランギニョル)】。

 憐れな男は、何かを叫びながら透明な壁のなかで喘いでいた。

「さて」

 金髪を揺らし、男は成瀬に向き直る。

「君が誰だか知らないが、ウジくんが死に体になった以上、僕と争う義理も無くなったわけだ。違うかい? いらないリスクは取らない主義でね。今なら大人しく帰らせてあげよう」

 にやにやと笑い、両手から黒い霧を噴出させながら、一步近付く“月のノスフェラトゥ

 呑まれれば死。生物の身体を蝕み、逃げようのない地獄を味あわせられる月の毒。

 そんな強大な悪意に向かって、成瀬は――ただ真っ直ぐに。

「どうして、彼女に、あんなことを?」

 そう、問うた。

 菱木は、当然と言ったように答える。

「仕方無いだろう? 【A-ドラッグ】を作る為には晴佳の血と肉が――」

「ドラッグを作るのに、人間がいるのか?」

 糾すような、成瀬の声色に、男は平然と答えた。

「そうだよ。【A-ドラッグ】は六法の能力者ホルダーの肉体を成分にして作られる。シンバスタチンやらリゼルグ酸ジエチルアミドやらを混ぜ精神と肉体の境界を曖昧にすれば一丁上がりだ」

「……あの赤いのは、人の血……」

「よく知っているねえ、アハハハ! まあ、雰囲気を出すためにも多少着色しているが」

 暗黒の霧を従わせ、また一步、近付く。

 興が乗ったようで、彼はよく喋った。

「恐らく君が見たものは純度の低い流通品さ。業突く張りの売人がいらないものを混ぜたんだろう。それで得られる能力は限られているが……能力者の血肉が濃厚に混ぜ込んであるものは、違う」

 菱木は、高らかに歌い上げるように、頭上を見上げて。

「力がそのまま手に入る。即席の二つ持ち、三つ持ちが出来上がるのさ! ハハハ! 出鱈目だろう! ま、僕はあんなもの使わなくてもだが、欲しいと頼む者がいてね。最近上客を失ったばかりでもあったしね。晴佳は、その穴を埋めるピースだったのさ」

「……理由になっていないよ、菱木」

 男は、ぴたりと止まり、酷く醒めた表情になった。

「どこまでも自分勝手だ。そんなことじゃ、許されない」

「おいおい、そんな陳腐な英雄論を語らないでくれよ。大体僕は晴佳と「約束」してるんだよ? 一体誰に許されないと言うんだ……」

 そう尋ねられ、成瀬はゆっくりと、手を伸ばして。

「則明だよ」

 僕を指さした。

 つられて、その先を見る菱木。

 そこには、必殺の猛毒を直に食らって、尚。

 ふらつく足を踏みしめ、立ち上がる僕の姿があっただろう。

「……どうして」

 何人たりとも、食らって死ななかった者はいない、絶対の誇りである“毒”が。

 こんなちっぽけな男に耐えられる――屈辱に、震えるがいい。

 菱木は、床を見やった。

 僕の足元には、唾液で濡れた、大量の団子虫の死骸があった。

「……気道にそれを詰めて、防いだ……? なんだいその生命力、蜚蠊ゴキブリか、君は」

「菱木……お前は……許さない……ぞ……」

 何かがせり上がり、口から吐き出す。

 赤黒い血が、僕の唇を濡らした。

 ほんの少量の毒が体内に回っていて、立っていられるのがやっとだ。

 だけど、こいつだけは、このまま、許すわけには、いかない。

「おいおいおいおい。逆恨みもいいところだよ。そもそも原因は君にあるじゃないか。約束を忘れたのかい?」

 薄ら笑いを浮かべ、そう詰め寄る菱木。

 僕は、奴を睨みながら。

「……ぃると」

「はい?」

「お前がいると……久世さんが……笑えないんだ……」

 理由はそれだけで、十分だった。

「そうか」

 僕の眼光なんて、軽く受け流し、菱木はそう呟いたあと。

「二度目の命は約定に入っていない。籠の鳥が笑わないのだったら笑わせればいいのさ。無理矢理にでもね」

 例えば、と。

 悪魔は笑い。

「君を無惨に殺せば、彼女も泣きながら笑ってくれるだろうさ」

 両手が吹く霧の量が増えた。

 全てを死滅させんと猛る毒の影。

 菱木要次郎が地を蹴り一気に距離を詰めた。

 手を振るう。

 そうするだけで目の前は真っ黒な毒に浸されて。

 頭から足まで【月さえ蝕む魔障の毒(グランギニョル)】に満たされた。

「アハハハハハハハハハハハハハハ!」

 相手の死を確信し、哄笑する男。

 そのまま勢いを止めようともせず、指を鉤爪のように曲げ、僕の喉を引き裂かんと伸ばすが――。

 そこには、口と鼻を虫で詰め。

 まだ立っている僕がいた。

 しぶとい、といった冷酷な表情で、彼は真っ直ぐに手を振るうが。

 その時初めて。

 僕の脇腹から伸びる触手に気付き、瞠目する。

 背後に「跳んでいた」成瀬の触手は、僕を貫いたまま。

 金髪の男の身体を絡めとった。

「このッ――」

 直に毒を食らわし朽ち滅ぼそうとするが。

 間に合うはずもない。

 触手は大きく菱木を持ち上げ、放り投げた。

 毒霧を突き抜け、肉体が壁にぶつかる鈍い衝撃音が聞こえる。

 そして巻き取られる触手と共に、霧の圏外へと引き戻される。

「無茶をする……!」

 僕の考えを【テレパス】で汲み取り、実行してくれた成瀬は、呆れを通り越した目で僕を見ていた。

 彼は、版図を広げんとする黒い染みを、逆の手の触手で切り取り、僕に呼びかける。

 横腹に空いた穴を塞ぎ、全身に染み渡る【月さえ蝕む魔障の毒(グランギニョル)】を、必死に体表を虫に変化させてこそぎ落とすが。

 震えが止まらない。

 体温がどんどん下がっていく。

 指先が小刻みに震動していて、目の前の風景が現実なのか夢なのかすらわからないほど脳みそがやられている。

「――ァアッ! ぐァッ……アアアアアアア!」

 大量の虫を吐き出した。

 毒を吸った団子虫や蝿が、血液に身体を浸しながら出てくる。

 寒い。

 痛い。

 怖い。

 僕は今「星付き」と、命のやり取りをしている――。

 やっと、そう実感することができた。

 まだかろうじて生きているのはただの幸運。

 身を犠牲にすることで不意の一打を与えられたが。

 勿論そんなもので斃れる存在ではなく。

 撒き散らされた真っ黒なもやが、拡散していき、その奥の様子が見えるようになると。

 当然のように菱木はゆらりと立っていて。

 感情の見えない瞳で、僕らを見下ろしていた。

「……むかつくね」

 ぽつりと彼はそんな言葉を漏らした。

「歯向かうのもいい。暴言を投げるのもいい。不遜に暴れるのもいいだろう。だけどね、【月さえ蝕む魔障の毒(グランギニョル)】の名を穢すことだけは我慢できない」

 雰囲気が、変わった。

 菱木は、ゆっくりと、今も泣き叫ぶ金広の方へと歩く。

「絶死の毒を、二度食らってまだ死なないなんて……僕にとっては悪夢でしかない。いよいよ生かして帰すわけにはいかない」

 彼はおもむろに、手を首筋にかけた。

「それじゃあご覧じろ。そこの凡才が振り回す量産器クラフトなんかとはわけが違う……これを出すからには遍く全てを皆殺す」

 がちり、と。

 機巧が動く音がして。

 菱木の口元が、突如跳ね上がった鉄の仮面に覆われた。

 ぎざぎざの、牙のような意匠が凝らしてある、くろがねのマスク。

 首元からは、液体の入った注射器のようなものが伸びていて。

 ばしゅんと、挿入された。

「あ……あああァ……」

 うっとりと、蕩けるような表情になる菱木。

 直後。

 吹き出していた毒の霧の、粘度が一気に濃くなり。

 何もかもを喰らう漆黒の溶岩の如く密度を増し、立ち込める死の香りを強烈にさせる。


「専用器――オーパーツ【毒怪鳥の嘴(コカトリス)】」


 なんだあれは。

 まだ宙を飛来していた僕の虫が、その汚泥に触れると。

 脆い身体がどろどろに溶け、瞬きする間に、生物以下のなにかに成り果てた。

 その様子だけで、僕はもう動けなくなる。

 血が全て蒸発したんじゃないかというくらい、酷く寒くなった。

「……その仮面で、自分の毒を、強化したっていうのか……?」

 成瀬だけが、言葉を発することができた。

 虫で防いでさえ、こんなにも苦しんでいるというのに。

 その毒を強化だなんて、そんな、馬鹿な。

 だが、菱木はにたりと笑って。

「いいやァ。まださ」

 金広が必死に堅守する【キネシス】の壁にまで近付き。

「何故この僕が「吸血鬼ノスフェラトゥ」の名を戴くこととなったのか、教えて上げよう」

 手を伸ばした。

 零れ落ちる泥のような毒は、いとも容易く、まるでそこに最初からなにも無かったとでも言うように【キネシス】をどろりと溶かした。

「アア……アアアアアアアアアアアアアア!」

 雪崩れ込む毒に絶叫する金広。

「邪魔だ」

 そんな彼を軽く蹴飛ばし、菱木は。

 桃瀬へと近付いた。

 怯える表情で、主を見上げる桃瀬悠々子。

 そんな彼女に、にっこりと微笑み。

 毒に塗れた手で桃瀬の肩を掴み。

 かしゃんと、仮面の牙が開いて。

 その柔らかな首筋に噛み付いた。

「いやああああああああああああ!」

 血を流し、突然の痛みに悶える桃瀬。

 菱木はまるで気にもとめず――その血を啜り。


 首から伸びる注射器に、赤い液体が混じった。


「さて」

 全てが終わると、菱木は、鮮血に染まった仮面を、こちらに向けた。

 表情は見えないはずなのに、その下の口は笑っているような気がして。

 僕らに向かって歩きながら――手をかざす。

「【ウェイズ】」

 その場に留まっていた漆黒の闇が、突如爆発し、拡散した。


 ……その、力は……。

 ……嘘、だろう……?


「研究の成果さ。【毒怪鳥の嘴(コカトリス)】で啜った血の力を奪い取れる。故に“月の毒(ノスフェラトゥ)”ハハハ! どうやら相性がいいらしい! どこまでも毒を広げられるよ……!」

 そう笑った、瞬間。

 菱木はたった一步で、信じられない速度で飛び。

 気付けば成瀬の目の前にいて。

 にたりと目尻を下げた。


 成瀬は伸びた触手をあらゆる角度から猛烈に叩きつける。

 だが全て捌かれ、両手で掴まれると、毒が肉を脆く腐らせる。

 それを力任せに引きちぎられた。

 苦痛に顔を歪める成瀬だが、負けじと更に伸ばし、全力で振るう。

「【ウェイズ】」

 が。

 一本、爆破され。

 さらに、広がった沼のような毒が、拡散し。

 成瀬を包み込んだ。

 無防備になった、その刹那を見逃さず。

 成瀬の胸板に、掌を突き出し、打った。

 転がりながら、床にもんどり打つ黒髪の少年は。

 見ると、彼の至る所の肌はおぞましいい黒色に侵蝕されていた。


 一人、始末すると。

 男はゆらりと僕を見て。

「さぁさぁどうした、僕をぶちのめすのでは無かったのかい? アハハハハハ! さっきまでの威勢はどうしたァ!?」

 あの全持ち(オールゼム)が、こうも容易く打ち倒された

 虫でどうこうとか、そんな小細工は許されない。

 毒に触れた時点で終わり。

 奴が近付く。

 僕は震える足で下がる。


 なんだ、あれは。


 オーパーツだって、そんなの。


 成瀬が倒された。じゃあ、じゃあもう。


 勝てるわけがないじゃないか。


 そして、菱木は溜息を吐いた。

「臆病な……。このまま圧殺してやってもいいんだが、興が乗らないね。――それじゃあこういうのは」


 逃げるか? 成瀬に跳んでもらうか? どうやって勝つんだ? 僕は死ぬのか?

 だんだん風景がぼやけてきた。

 気付けば涙を流していた。

 僕は、こうやって、何者にもなれずに、死んじゃうのだろうか。

 そんなの。

 そんなの。


 じゃらんという音がする。

 覆う霧を見やると、向こうの菱木が。

 指から何かを垂らしていた。

 それは、銀色に光っていて、丸い物体がチェーンについていて。

 久世さんの懐中時計を、菱木はぶら下げていて。

「これが欲しいんじゃなかったのかァ? ここまでくれば返してやるよ……死ななければだけどね……アハハハハハハハハハハハハハハ!」


 ――おばあちゃんとの


 僕が思う浮かべる久世さんは、


 ――約束かな


 夕陽の中で笑っていて。


 横を見ると。

 穴の向こうで、彼女は。


 鎖に繋がれ、泣いていて。


 ――その涙は


「………………それは」

「これ? これは、僕のものだが、なにか?」


 ――弱い涙じゃなかったのか


「それは……それは……」


 ――久世さんを……救いたいよ……!


 一番、忘れていはいけない気持ちを。

 忘れていた。


 救いたいと言ったのは、僕だ。

「――それは久世さんのものだァァァァァァアアアアアアアアアアア!」

 足の震えなんて、どうだっていい。

 不格好でも、愚かでも、弱くても。

 彼女の涙を拭えるのであれば、それでいい。

 僕は走った。

 ぶら下げられた懐中時計に向かって。

 立ちはだかる菱木要次郎に向かって。

 嗤う悪意に向かって。

 走った。

「うァアアアアアアアアアアアアア!」

「アハハハハハハハハハハハハハハ! やっぱり馬鹿だ! 死ね、【月さえ蝕む魔障の毒(グランギニョル)】……!」

 菱木が手を振るう。

 それだけで目の前が黒い霧で満たされて。

 あれに触れれば、弱い僕は死ぬだけだ。

 滅茶苦茶に虫を出して突っ込ませるが。

 その先から一瞬で溶け、何の役目も果たせずに死んでいった。

 まるでどこかの誰かみたいに。

 愉快な僕の死に様を見届けようと、菱木は悠然と立っていて。

 だが僕は、避けようとも引こうともせず、真っ直ぐに走って。


 もうすぐそこに。

 死が広がっていて。

「くたばれ蛆虫……!」

 もう一步踏み出せば、呑まれる。

 そこまで毒が迫ってきた。

 その、時。

 僕は。

 叫んだ。

「成瀬ぇ!」

 僕の剣に、懇願するように。

「目の前の霧を払ってくれ!」

 ぼろぼろの成瀬は――おそらく、にっこりと、微笑んで――手を、かざして。

「行け、則明」

【キネシス】の波を放った。

 全てを侵蝕する毒は、その膨大な量の【キネシス】を食いきれず。

 僕の前に、一本の道を作った。

 その先にいる菱木は、呆然としていて。

「……【キネシス】……?」

 

 ――菱木は、成瀬のことを二つ持ち(セカンズ)としか聞いていない。

 ――【バイオス】と【ウェイズ】しか使っていない彼が、ここで。

 ――【キネシス】を撃ってくるなんて、予想をできるはずもなく。


 僕は菱木の。

 手に飛びかかった。

「いっ……! き、貴様ァ!」

 手が上手く動かない。なら走ればいい。足が震えて動かない。なら這って進めばいい。どちらも動かない。

 なら歯を使えばいい。

 できることならなんでもする。

 そうだ。

 僕は、間違っていたんだ。

 菱木の手の甲に噛み付き、顎に力を込める。

「離せこの……下流が!」

 後頭部を殴られる。腹を蹴られる。髪を引っ張られる。

 どんな暴力が加えられても、僕は突き立てた歯を離すつもりは無かった。

「――いい加減にしろ」

 そして、菱木は、怒りの籠もった声でもって。

「【ウェイズ】!」

 空気が弾けた。

 宙を舞い、背中から倒れる。

「貴様……下郎、屑が……! 唯一つ貴き我が玉体に……醜い傷を付けるか糞虫が……!」

 歯型の傷跡から血が滲む手を抑えながら、彼は近付く。

 かつて無いほど大量の毒を流しながら。

「毒で殺す。生きながら神経を焼かれたことはあるかい? この世界にも地獄があるのだということを、思い知らせてやる……貴様は、どれほどの神に触れたか分かるのか……!」

 

 ――何も選ばないことが正しいと思っていた。


三つ持ち(サーズ)の真似事か? どんな手品を使ったか知らないが……屈辱だよ。虫の一刺しといのが、こんなにも僕を怒らせるとは……!」


 ――奪うこともなく、奪われることもなく、ただ静かに生きていられるから。

 だから僕はどんな選択もせず、それこそが真理だと信じていた。


「聞いているのか貴様ァ!」


 ――だけど、違った。

 それは、矛盾しているようだけど、何も選ばないということを選択してしまっていて。

 その結果が、絶望なのは当然だった。


 手をついて、立ち上がる。

 もう片方の手に、銀色の懐中時計を垂らして。

 菱木を睨んだ。

「お前は」

「あァ? その身体でよく喋れるねえ! 最期の会話だ、好き勝手喚けば……」

 菱木は、言葉を途中で止めた。

 僕は、依然、奴を睨みながら。


 ――だから、僕は。


 全身から、虫を出した。

 蚊、蝿、虻、蜂。

 馬鹿にされ、虚仮にされ、虐められ。

 そんな力だった、今の虫は。


 ――選ぶことにした。

 どんな手段を使ってでも。


「……まさか、貴様……」

 信じられない、といった声色で。

 菱木は絞り出した。

 僕の周りを舞う虫共が、「違う」と彼はわかっていた。

 それらから滲みでる、死の色は。

 

 ――僕は、彼女を救う。


「……菱木」

「まさか、まさかまさかまさかまさか! ……貴様ァ!」


 その思いにに、続く。


「貴様まさか! 我が……我が秘奥たる【月さえ蝕む魔障の毒(グランギニョル)】を……! まさか」

 幾つも湧き出る小さな虫。

 それを見て、菱木は、笑みを消した。


 選んだ道の――先の果てで。


「【月さえ蝕む魔障の毒(グランギニョル)】を――奪ったというのか……? 「定着」した……だと……毒をその身に……そんな、馬鹿な……!」

「……菱木。お前は」

 僕は立ち上がる。

 死の毒を秘めた、虫を従わせて。


 ――たとえ僕が。


 彼らが、一斉に羽音を響かせた。

「お前は、僕が倒す」


 蝿の王に、なったとしても。

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