第2話『インタープレイ』①
寝苦しさに耐えかねて、私はとうとう起き出してしまった。枕元に置いてある時計は2時過
ぎを指している。6月にしては蒸し暑い晩だった。
気だるげな足取りで階下に降りる。家族は既に寝静まっているらしく、聞こえる音といえば
思い出したように通りかかった自動車のエンジン音くらいか。
冷蔵庫から麦茶のボトルを取り出し、あらかじめ氷を入れておいたグラスに注ぐ。それを持って自室に引き込むと学習机の上の電気スタンドに明かりを灯した。
パソコンを立ち上げてしまうと本格的に寝そびれてしまいそうなので、本棚から適当に何冊か見繕って手に取ると、机に座ってパラパラと眺めることにする。
最近読んだ小説。フランスのとある女性作家が私とほとんど変わらない歳で一番最初に書い
た作品だというから驚きだ。こんな私でも何かできる事があったらとても素敵なのに。文章は
とても綺麗だし主人公の相手の男の子も素敵なのに、主人公の身勝手さが少し気になった。
お気に入りの漫画。ずっと恋人の居ない女の子が偶然出会った男の子と仲良くなって騒動を
繰り広げる話。私みたいな冴えない女の子なのに、お話の中では輝いていて眩しく見える。
じゃあ、実際の私はどうだろう。私にできる事といえば、クッキーみたいな簡単なお菓子を
作ることくらい。あとは、たまに友達の相談事に乗ったりすることか。何か物足りない。
物語の主人公になれるなんて夢にも思わないけど、私も少しはドキドキすることがしたい。
幼馴染の浅野佑馬には別な意味でドキドキさせられているけど。一昨日なんて川に落ちたとか
言っていたし。本当に何をやっているんだろう。
もう一冊。これは本じゃなくてアルバム。私の小さい頃からの想い出が詰まっている。
初音ちゃんと私がまだ幼くて可愛い。地元の夏祭りでお神輿が出るんだけど、私達はまだ背
が小さいから担がせてもらえなくて、他の同い年くらいの子たちと後ろを歩いている。端の方に佑馬が見切れて写っているのがご愛嬌だ。
改めて見返すと私と佑馬って実は疎遠だったことに気付かされる。初音ちゃんが居なかった
ら、佑馬とは今ほど親しい関係にはなっていなかったかもしれない。小さい頃の佑馬は喘息持
ちで、普段から室内に閉じこもりがちだったから二人でよく外に連れ出したものだったっけ。
本当に懐かしい。私達3人の関係は今となっては当たり前になってしまったけど、それが嫌
なんじゃなくて、あの遠い夏の日の、目に見る全てのものが鮮やかな色彩で写った幼い時代と
決別しなければならないのが嫌なの。
こうなるともう駄目だ。取り留めのない思いつきが次々と浮かんでくる。そうこうしている
内に時刻は3時半。観念して再びベッドに入ると瞼を閉じる。程なく私は睡りの世界へと落ち
ていった。
* * *
フライパンがジュージューと音を立てている。本日の朝食のメニューはウィンナーエッグ、
野菜サラダ、ロールパン。飲み物はコーヒーでも日本茶でもセルフサービスでどうぞ。ジャム
とバターはお好みで。蜂蜜も確かあったような。初音がテーブルでコーヒーを淹れてくれてい
るはずだった。あとは、玉子が半熟に固まれば出来上がり。忙しい朝でも朝食をほぼ欠かすこ
とがないのは、我が家のちょっとした自慢だ。日頃の習慣の賜物だよな。
ガラスの蓋越しに出来栄えを確認すると、火を止めて平皿に盛り付ける。予め用意してあっ
たキャベツの千切りとトマトを添えると盆に乗せて食卓に運ぶ。
「ほら、メシできたぞ。さっさと食ってしまわないと遅刻するからな」
こういう時だけは兄貴面してみる。初音は例のごとく、猫と戯れているのだろう。
テーブルの上には温かいコーヒで満たされたガラス製のサーバーが置かれている。二人分の
コーヒーをカップに注ぐと、それぞれの席に置いた。
キッチンに戻り、着けていたエプロンを脱いで手を洗う。もう食べ始めているのか、テーブ
ルの方から賑やかな話し声が聞こえてくる。
話し声? いつからタカは人間の言葉を話すようになったのか、というわけでもなく。
「起きたら朝ごはんが用意されている生活ってやっぱりいいよね。人類の至福って案外ここに
あると思うよ」
「朝ごはんくらい自分で用意しましょうよ。我が家では食事の用意は交代制なんです。ゆま君
だってちょっとした焼き物とか炒め物くらいは作るんですから」
優雅に朝食を堪能する女子が二人。一人は妹の初音だからいいとして、問題はもう一人。
「何でお前がここに居るんだよ。学校とは方向が全然逆なはずだし。というか、それは俺の朝
食だぞ」
初音と向い合って食卓に付いている、こいつは俺の同級生で少し気になる人。その名を小森
碧羽という。半袖の夏服から除く腕は白くキメが細かい。鼻筋が通った顔は取り立てて化粧な
んてしなくても十分映える。黒に碧を落とした長い髪は絹のように美しく、茶色がかった二重
まぶたの瞳は見つめているとそのまま吸い込まれていきそう。ただ、少し不健康に見えた。
「いいじゃない。別に減るわけじゃないんだし。ウィンナーエッグくらいパパパーって作っ
てしまえるでしょ。ちょっと見てたけど佑馬って案外手際良いんだし」
俺の胃袋に納まるはずだった、ウィンナーエッグに舌鼓を打ちながら碧羽がにこやかに答え
た。だったら、ご自分で作ってくれませんかね? 碧羽さんや。料理の腕は絶対こいつの方が
上だと思うんだが。碧羽の部屋の整然としたキッチンが目に浮かんだ。
「新聞を取りに表に出たら、碧羽さんが玄関先で体育座りしてたの。さすがに見るに見かねて
中に入ってもらったんだけど」
申し訳なさそうに初音が言う。こいつはペットを拾ってくる才能でもあるのか。
「ちゃんとコーヒーは自分で注いだもん」
頬を若干膨らませる碧羽。それは別に自慢することでもなんでもないよな。
「はいはい、碧羽は偉い偉い。そうじゃなくて。俺が聞きたいのは朝っぱらからわざわざ家
に押し掛けてくるからには、何か特別な理由でもあったんだろてことで」
おざなりに褒めながら、疑問を口にする。一見非の打ち所のなさそうなこいつは複雑な問題
を抱えている。
一つは彼女の家庭環境。昨年、妻を交通事故亡くした彼女の父は、さっさと愛人の若い女と
結婚してしまった。詳しく聞いたところによると30歳前後らしい。彼女の父親が45歳だとい
うからいわゆる年の差婚である。一方で、娘の碧羽とは年齢が近すぎた。反発した碧羽が家を
出て一人暮らしを始め、現在に至る。
もう一つは、薬物依存の悪癖があること。薬物依存いっても麻薬や覚醒剤のように所持し
ているだけで即犯罪になる種類に限ったことではないらしい。彼女が名前を挙げたのはある種
の市販の咳止め薬だった。精神的に追い詰められて不安定になってしまったとき、一度に10錠程度を服用して気分を紛らわせるという。効かなければ、無論服用する量は増える。
俺の心配が伝わったのか、碧羽がふるふると首を横に振った。
「理由なんか特にないけど、会いたくなったの。朝の空気ってどうも苦手だから。自分だけ置
いてけぼりにされているような気がするのね。昼過ぎになるとそんな事なくなるんだけど」
持っていた箸を置くと、碧羽は目を伏せた。
「だからって。別にあんなことしなくったって、学校に行ったら会えるのに」
向かい合った初音がカップを傾けながら、眉を潜める。
「それは分かっているんだけどね。週明けだからなのか、ちょっとブルーな気分になったの。
普段は全然そんなことないんだよ」
「予めに電話の一つくらいかけてくれたら、朝食くらいご馳走しますよ。元々我が家は3人家
族だから、材料って余りがちなんです」
我が家のやりくり担当が厳かに告げる。父の佑太郎は仕事で朝が早い。母の清音は10年前に
他界していた。
「それに、ゆま君はテンプレ的なメニューしか作れないんだし」
少し不機嫌そうに初音がこちらに一瞥をくれる。
「朝食はどちらかというとシンプルな方が良いな。玉子はマストだけど。それだけは譲れな
い。食事ってお腹だけじゃなくて、心でも味わうものでしょ? そりゃ、佑馬の料理の腕は微
妙かもしれないけど、仕事は丁寧だし練習したらきっと上手くなるよ」
碧羽が顔を上げて朝食の続きにとりかかる。
「それはそうなんですけどね」
初音が一つため息を吐く。
「ところで、ゆま君は食べないの? 碧羽さんの言う通り、ウィンナーエッグの一つくらい余
裕でしょ。ちゃちゃっと作っちゃおうよ」
「それもそうだな。朝食一つで狭量すぎたわ」
冷蔵庫を覗いてフリーズする。ここで重大事実をお知らせしなければならないだろう。
「初音よ良いニュースと悪いニュースがある。どちらから聞きたい?」
「え、じゃあとりあえず悪い方から」
頭上にはてなマークを踊らせながら初音が尋ねる。
「玉子もウィンナーも切れていた。これではウィンナーエッグが作れない」
「ごめんなさい。お父さんは食べないし、学校帰りに買いに行けばいいやって思ってたんだっ
た。それで良いニュースは?」
「ウィンナーエッグを作らなくてもいい、ってことだ」
何が食材に余裕がある、だ。初音の中でも親父はハーフカウント程度の扱いらしい。
「佑馬って結構面倒くさがりだったりする?」
碧羽が横から口を挟んできた。
「正確には同じこと2回以上やりたくないってことだな」
0と1じゃ偉い違いがあると思うんだが。回数が増えるたびにぞんざいになっていくし。
「それを面倒くさがりっていうの。半分残っているけど食べる?」
「遠慮しておく」
丁寧に白身から攻めていったのか、黄身は丸々無傷で残っていた。ウィンナーを箸で掴んで
食べさせようとしてくれる。シチュエーションはともかく、そのウィンナーエッグを作ったの
は他ならぬ自分なのだ。
「そういえば、碧羽さんって一人暮らしなんでしたね」
少々難しい顔をして初音が尋ねる。碧羽の境遇についての大筋を、家族である初音には話し
てあった。核心の部分は秘密のままにしているけど。碧羽本人に口止めされなかったとはい
え、軽々しく喧伝していいものでもない。
「そうだよ。学校から近いから登校するだけなら楽なんだ。初音ちゃんも今度遊びにきてみる? ちょっと狭苦しいかもしれないけど」
「考えておきます。というか、私『も』と言いましたよね。ということは、ゆま君は碧羽さん
の部屋に行ったことが」
「うん、佑馬も来たことがあるよ。いっぱいお話したもんね。そして、今では私たち」
意味ありげな視線を碧羽が俺に送る。釣られて初音も俺を見る。
「俺、弁当作らないとな。冷凍食品詰め合わせと昨晩の残り物でも愛情がこもっていれば、美
味しいんだぜ」
ロールパンを冷めかけのコーヒーで流し込むと、空いた器をまとめて流しに持って行こうとする。怪訝そうな初音の視線が刺さった。
「というか、ふと気になってたんですけど。碧羽ちゃんってゆま君のこと呼び捨てにしてるんですか。というか、ゆま君も碧羽ちゃんのこと呼び捨てで呼んでたよね」
耳ざとい。話を逸そうととした俺には目もくれず、攻めの矛先を碧羽へと向ける。
「そうだよ。私と佑馬は同盟関係を結んだから。困ったときは助け合って、出来る限り一緒に
居ようって決めたんだよね」
上機嫌で碧羽が答えた。簡にして要を得た回答だが、そこまで言っただろうか。
「何なの?その同盟関係って」
「別に浮ついた話じゃなく、こいつはこう見えて色々と問題を抱えているんだ。詳しいことは
俺の口から軽々しく話すわけにもいかないし、それ以前に当の本人が目の前にいるわけだけ
ど。」
話を振られた碧羽がきょとんとして考え込む。ややあって口を開いた。
「んまぁ、あんまり他の人にペラペラ話すことでもないかもね。佑馬は運良く、悪かったのか
もしれないけど、私の醜態を目の当たりにしちゃったから話したんだけど」
先程とは打って変わって真剣な口ぶりの碧羽。
「自分で醜態とまで言うのなら、あえて聞かないでおくけど」
初音が困った顔をする。
「けど?」
「碧羽さんが話したくなったなら、ちゃんと話して欲しいかな。あんまり無責任なことは言え
ないけど、出来る限りは力になるから」
「ありがとう初音ちゃん」
首輪の鈴を鳴らしてタカが寄ってきた。成猫になりつつある彼は構ってやらないと、こいつは随分と大人しくしているようになった。ケージ生活を卒業してもいい頃かもしれない。
「どうしたの?タカ」
一声鳴いて壁にかかった時計を仰ぎ見る。時計が指しているのは時間は7時50分で。
「お兄ちゃん、お弁当早く作って。あと10分でお姉ちゃんが迎えに来ちゃうよ」
悲鳴に似た声で初音が告げる。
「話し込んでいたら、つい時間忘れていたわ」
半ば俺は呆然と立ち尽くす
「お弁当は初音ちゃんと私で何とかするから。佑馬は食器片付けて」
「というか私、まだ髪もやってないのに。碧羽さんのバカー」
「ごめんごめん、初音ちゃんの髪も私がやってあげる」
いかにも朝らしい喧騒の中を3人がドタバタと立ちまわる。碧羽がテーブルの脚で小指をぶつけて痛がる声が室内に響き渡った。