第3話『スイート メディスン』⑥
キッチンを借りて二人分の珈琲を淹れる。これではどちらが客かわからない。
結局、碧羽は寝汗をかいただの、まだ眠いだの愚図った末にシャワーを浴びていた。女の子
って何かと大変だ。感心する反面呆れてしまう。
買ってきたタルトは皿に盛り付けておいた。カスタードクリームを敷いたタルト生地の上に
数種類のフルーツが豪勢に盛りつけられている。
タルトには手を付けずに、先に珈琲を啜る。豆のパッケージを見ると何ということはない、
市販の豆だった。それこそスーパーに行けば普通において有りそうな有り触れたものだ。碧羽
の方が珈琲を淹れるのは上手い。ただお湯を注ぐだけなのに、何が違うのだろう。
ドライヤーの音が聞こえている。そろそろ出てくるんじゃないだろうか。
「はぁ……ナマケモノから人間に戻った感じがする」
若干湿り気の残る髪を揺らして碧羽が出てきた。
「さっぱりしたか?」
「おかげさまでね。誰かさんがアポなしで突撃してくれなかったら、日がな一日眠り続けてい
るところだった」
「具合でも悪いんじゃないのか?」
「身体は健康よ。少し気が抜けてしまったのかも」
うーん、と碧羽が考えこむ。相変わらずスエットにジャージだが新しいものに着替えたらし
く、先ほどの着ていたものと色が違う。今度のは淡いピンク系の色だった。髪も先ほどとは見
違えるように整えられていた。
二人でタルトの乗ったローテーブルを囲む。俺は客らしく正座、碧羽は女の子座りする。
「そういえば、碧羽がいつか言っていたCD買ったんだ」
ショルダーバッグから、まだ封を切られていない『ポートレイト・イン・ジャズ』のCDだ
けを取り出して、碧羽に見せる。『アンダーカレント』は何となく見せるのが躊躇われた。
「あ、買ったんだ」
それを見た碧羽が目を丸くした。
「言ってくれれば貸してあげたのに。輸入盤とはいえ、それなりにしたでしょ」
ジャケットの表裏を一しきり眺めると、俺に返してきた。
「いや、親父がお金出してくれるって言うからさ」
「佑馬のお父さんってジャズ好きなんだ?」
冷めかけた珈琲に碧羽が手を付ける。ご不満なら淹れ直すつもりだったが、特に何も言わず
にカップを傾けている。
「ちょっと、かじっただけとは言ってたな。エヴァンスよりもマイルスを聞けって言ってた」
碧羽が目を瞬いて、くすくすと可笑しそうに笑った。
「それじゃあ、佑馬のお父さんはマイルスが好きなんだ?」
「口ぶりからすると、そうなのかもな」
「へぇ。確かに私もマイルスは好きなんだけどね」
碧羽が口元を右手に当てて何やら考え込んでいる。
「まぁ、とりあえずタルトを食おうぜ」
「ん、そうだね。じゃあ、いただきます」
碧羽が目を閉じてちんまりした手を合わせた。釣られて俺も手を合わせる。
「いただきます」
「美味しいそうなタルトだね。どこで買ったの?」
碧羽がフォークの先をしげしげと見ている。
「よく分からなかったから適当に選んで買ってきた。パレットの地下にある店なんだけど」
「ああ、ここの店か。前にも一度食べたことがあるよ。御蔵駅ビルの地下1階にあるお店のチ
ーズケーキがおいしかったんだけど、名前忘れちゃった。あとで調べてみよう」
紙袋に印刷されたロゴを見ながら碧羽が答えた。さすがに女の子はこの手の店に詳しい。
「そういえばさ」
「何?」
おずおずと話を切り出した俺に、碧羽がフォークを持った手を止める。
「昨日のこと、まだ怒ってる?」
「あのことなら、許したけど忘れません」
碧羽がフォークで突き刺されたタルトの切れ端をそのまま口に運んだ。
「でも、変な話だけど佑馬って良いお父さんになれそうだよね」
「あまりにも先の話すぎて、想像もつかないな。親父だって結婚したの27歳のときだぞ」
「でも、いつかはその時は来てしまうものだし」
「少なくとも1年は先の話だな。俺、まだ結婚できないもん」
「そういえば、男の子は18歳からだったね」
俺は肩をすくめてコーヒーを飲む。あいにく中身は空っぽだった。
* * *
「碧羽って口では何だかんだ言っているけど、実はお父さんっ子だよな」
二杯目のコーヒーを口にしながら、俺は碧羽に水を向けてみた。今度は碧羽が淹れてくれた
ものだが、やはりこちらの方が味が上だ。
碧羽が首を傾げて考えこむ。ややあって口を開いた。
「佑馬が父に言った捨てゼリフを、私が傑作だって言ったの覚えてる?」
「そんなことも言ってたな、そういえば」
おぼろげながら思い出す。少し棘があったような気がした。
「せっかくだから、言っておくけど」
碧羽が俺を見据える。
「佑馬は一つ勘違いをしている。私は『父性的な人』に惹かれることはあっても、別に『私の
父』と一緒に暮らしたいわけではないの」
「そうなのか?」
碧羽が軽く頷く。
「前にも言ったとおり、父は既に新しい女と結婚しているの。その発端が不倫であれ、何だっ
たとしても、あの二人にはしかるべき手順を踏んで築き上げてきた関係がある。動機が不純で
も、結果が丸く収まるならそれでいい。それが家を出た後で頭を冷やした末に出した結論よ。
どの道、元の家に私の居場所は無かったし」
「それでも、碧羽が我慢をしなければならない理由はどこにもないだろ」
「子供の幸せを考えているような殊勝な父親だったら良かったんだけどね。あのままじゃ私は
籠の中の鳥だったから」
息継ぎ代わりに碧羽がコーヒーを口にする。
「男の人って器用だよね。二人の女を愛し分けられるんだから。あの人は母のこともちゃんと
大切にしてた。結婚記念日と誕生日には考え抜いて選んだプレゼントを贈るくらいに」
俺は何も言えなかった。聞けると事があるとしたら一つだけ。
「それじゃあ、碧羽の望みは? 何がしたい?」
「言ったとおり、自分の足で生きてみたい。たとえ家族でも、私の運命を他人の思うままにさ
せるなんて嫌なの」
意気込んだように碧羽が言葉を紡ぐ。
「昔に戻りたいってよく言うけど、私にはそういうのってあまりないんだ。かと言って、進み
たい未来もよく見えないけど。時間は寝てても勝手に進んでいくから、今がダメでも3年、5年
先には何かが見えていたい。だから、手探りでも前へ進み続けるしかないの」
「自由意志と宿命が絡み合う現世では、できる限りマシな選択肢を選ばざるを得ないからな」
「へぇ? 何かの受け売り?」
「まぁ、受け売りだけど。なるようにしかならないけど、なるようにはなるってことだろ」
「簡単にまとめられちゃうと、ちょっと癪かも」
碧羽がむっとした表情をする。お嬢さん、世の中には強力なシンプルさというものがあって
ですね。これも受け売りだけど。
「それともう一つ。これは佑馬が何やら一生懸命になってくれてることだけど」
気を取り直して話を続ける碧羽。
「うん?」
「たった一人でも私のことを分かってくれる人が居て欲しい」
「そりゃ二人だけど同盟だもんな。でも、寂しい生き方じゃないか? もう少し多くを求めた
っていいと思うけど」
「それだけで私には十分だよ」
ポツリと碧羽が呟いた。
* * *
「湿っぽい話はこれまでね。というか、何でこんな話になったんだっけ?」
碧羽が行儀悪くベッドに寝転ぶと、膝を抱えて丸くなった。
俺は汚れた食器を重ねると流し台へ持っていく。ついでだし、手早く洗ってしまおう。しか
るのち、ねぼすけ碧羽をどこかに釣れ出すことにする。
「ところで、さっきの佑馬のメール読み直してたんだけど」
「何だ?」
スマートフォンを弄っていた碧羽が顔を上げて俺を見る。
「私のこと、何か引きこもりみたいに書いてるよね。いいもん佑馬がそんな事言うなら、今日
は一日、部屋でのんびりしてやるんだから」
「それじゃ、まさしく引きこもりだろ。こんなに天気が良いのに勿体無い」
「いいじゃない。私はそうしたいって決めたの。佑馬も付き合ってくれるよね」
はにかんだように碧羽が笑った。泣く子と碧羽には逆らえない。
水仕事した後の手を拭くと、ベッドの縁に背を預けて座る。碧羽の体温と息遣いが離れてい
ても伝わってきた。癪なので顔を見ないまま、一つ憎まれ口を叩いてやろう。
「実は今日の夕食当番は俺なんだけど、メニュー何にするかまだ決めてないんだ。碧羽の好き
なもの作ってやるから家に来てもいいんだけどな」
「それ、ちょっとズルくない?」
ガバっと跳ね起きた碧羽が唸るように呟く。こいつに行きたい未来がないのなら、その道行
をしばらく共にしてやるのも悪くない、と俺は漠然と思った。
「ズルくなんか無いだろ。あおばの癖に太陽の光を浴びようとしないからいけないんだ」
「洒落にしてもつまらないし、無理してボケなくていいって言ってるでしょ!?」
辛辣な言葉を背に浴びながら、俺は薄く微笑む。明日で終わるか、10年経っても続くか、誰にも分からない関係だけど、どうぞご贔屓に。あと、ご利用は計画的に。