第3話『スイート メディスン』③
御蔵駅ビルとペデストリアンデッキで繋がる商業ビル、パレット御蔵の6階にそのクレープ
屋はあった。カーブしたガラス窓から眼下に繁華街を臨むことができる。週末ということで、
客の数はそれなりに多い。木製の椅子とテーブルがいくつも設えてあり、ささやかな休憩場所
にもなっていた。
碧羽に付き合って、俺もクレープを戴く。もっとも、忍びないので支払いは自腹だけど。
「私の方こそごめんね」
クレープを手にした碧羽が肩を落として、ポツリとこぼした。
「どうして碧羽が謝るんだ?」
碧羽と父親との関係は想像以上に険悪らしい。碧羽が今の暮らしをしているのには、相応の
理由があるはずなのに、なぜ気づかなかったのか。
「でも、今日誘ったのは私の方だから」
「そういえば、碧羽の方から何かの行動を起こすのって珍しいよな」
「だって。佑馬って人のことはあれこれ気を使うくせに、自分のことには無頓着なんだもん。
今日だって一人で帰ろうとしてたし」
碧羽がクレープを一口かじる。唇に付いたクリームを指で拭うとそのまま舐めとった。
「そんなこと言われてもな。ひびきは用事があるし、初音は夕食当番だ。お前だって」
お前にも本当は何か予定があったんだろ、って言いかけて止めた。ただの邪推だ。
「私にも優先順位はあるよ。佑馬を一人にしておくくらいなら、どんな楽しい誘いでも断る。
それに周囲に馴染めないのは私も佑馬も同じでしょ?」
「知り合う前のお前はもっと人付き合いのできるやつだと思ってた」
「傍から見ていると、そう思うかもね。でも、結局は中学やクラスは同じとか些細な理由で繋
がっているだけの関係よ。学校やクラスが変われば大半の子とは縁が切れてしまう」
「それでも何かは残るだろ。思い出とか」
碧羽が無言で肩をすくめる。意外な反応だった。
言いたい言葉が見つからなくて、しばらく俺は黙り込んでいた。碧羽は沈黙を気にしないら
しい。うつむき加減の俺にいつもと変わらぬ視線を寄越してくる。
「思い出がどうこうと言うのなら……」
「え?」
「何でもない」
徐ろに口を開いたかと思えば、中途半端に打ち切って碧羽はそっぽを向く。視線は夏の長い
夕日の紅が夜の紺へとグラーデーションを付けながら変化する西の空へと向けられていた。
* * *
「家を出ていくときは淡々としたものだったな。あの人は新しい女のことしか頭になかったか
らね。私も私で派手に言い合った後で、そんな気力もなかったし」
「その話は前にも聞いたな。碧羽のお父さんって碧羽には無関心だって言ってたっけ」
碧羽がコクリと頷く。
「きっと、父は男の子が欲しかったんだと思うの。女の子はいつかは家を出て行ってしまうか
ら。あの人も本当はどこか寂しい人なんだよ。だから、さっさと再婚したんだろうね。世間体
がどうのってこともあるんだろうけど」
「だからって、碧羽の寂しさには目もくれないのは酷いだろ」
慎重に言葉を選ぶ。碧羽父の人となりも知らないのに迂闊な発言をするのは躊躇われた。
「もともと母も仕事をしていたからね。孤独慣れしてたっていうこともあるし、それに」
「そういうときのアレなのか」
本当にどうしようもないときは薬に頼っていた、という言葉を思い出す。
「もうやらない、って約束したでしょ。今まで試験前って結構精神的に辛かったんだけど、今
回は何事も無く乗り切れたし」
佑馬たちのおかげね、と碧羽が笑ってみせる。
「さんざん引っ掻き回して迷惑なんじゃないかと思ったんだが」
初音とひびきの悪乗りぶりを思い出す。試験期間中、勉強会だと称して碧羽を引っ張り出す
と、お菓子やらパンを作るわ、ドラマ鑑賞会を始めるわ、のやりたい放題を繰り広げていた。
そのくせ蓋を開けてみれば、三人揃って好成績をマークしてきたから恐ろしい。
「そんなことないよ、結構楽しかったし。佑馬も混じってみる?」
「遠慮しておく」
「たまにはお菓子を作る乙女な佑馬を見たいんだけど」
確かにあのテンションに付いて行けたら俺も一皮剥けるかもしれない。主に悪い方向で。
嬉々としてクッキーを焼く俺など絵的に厳しすぎるし、碧羽以外は誰も得しない。最大多数の
最大幸福に真っ向から反していると思うのだが。ミルはともかくベンサムは埋葬されてないん
だぞ。
「本気で勘弁して下さい」
「じゃあ、今回は勘弁しておいてあげる」
次は容赦しねーぞ、とらしくもなく碧羽が顎をしゃくってみせた。
「あのクッキーはなかなか傑作だったぞ、うん」
「まぁここ最近楽しいことが続いてたから、帳尻合わせなのかな。仕方ないか」
碧羽が一つため息を吐いた。
「実際、同じ街に住んでても顔を合わせない人のほうが多いしな」
この御蔵市は約50万人弱の人口を有する県内では中堅どころの街だ。それに加え、周辺の市
町村からも通学なり通勤なりで多くの人が流れ込む。それだけ多数の人間がひしめいていて
も、特定の行動パターンを共有していなければ容易につながりを持てない。
「犬に噛まれたとでも思うことにするよ」
クレープの最後の一口を飲み込むと、碧羽が立ち上がった。俺のクレープはとっくに胃袋の中に納まってしまっている。
「佑馬もそろそろ帰らないと。初音ちゃんが待っているんでしょ?」
腕時計は7時を指していた。とはいえ、碧羽を放っておけるはずもなく。
「部屋まで送っていくよ」
テーブルの上のゴミを碧羽がまとめて手近なくずかごへ放り込む。俺は遅れて立ち上がる
と、碧羽の後を追いかけた。
* * *
商業ビルを出ると、モノレールの下を元来た方向へ歩く。先ほどのことが尾を引いているの
か、碧羽が俺の横に並ぶ。いつかの『置いていかれた』という言葉が胸をよぎった。
「一人暮らしするのって大変だよな。うちも初音と二人暮らしみたいなもんだけど」
「家事はやり方を調べればだいたい分かったし、慣れと言ってしまえばそれまでなんだけど
ね。母にある程度料理は教わっていたから」
俺のすぐ右を歩く碧羽が、前を向いたまま相槌を打つ。
「そういえば、碧羽の作った料理って食べたことないな。クッキーはお菓子だし」
「そうだっけ?」
碧羽がこちらをちらっと見る。
「じゃあ、機会があったら食べさせてあげる。参考までに、佑馬の好きなものってある?」
「食えるものなら、だいたい何でも好きだぞ」
「じゃあ、逆に嫌いな食べ物は?」
「きゅうりとしいたけ……かな」
「良いこと聞いた。ちゃんと覚えておくね」
碧羽がイタズラを思いついた子供のような顔で満面の笑みを浮かべる。この女ときたら。
頭上を御蔵駅を出たばかりのモノレールが通りすぎて行く。誰とも付き合わずに一人でぶら
ついた後、あのモノレールで帰宅する日常もあるはずだった、と考えると胸が空く思いがす
る。そこにあるのは、何も傷つかない反面で得るものも無い虚しい日々だったはずだ。
7月初旬にもなると、日が暮れても気温は高い。汗ばんでいるのか碧羽が普段使っているら
しいシャンプーの匂いがほのかに香る。
歩道が広かったのは都市銀行の支店のある信号までのこと。そこから右折すると歩道の幅は
狭くなり、二人の距離は縮まる。気恥ずかしくなったのか、碧羽がやや歩調を速めて俺の前へ
出た。俺が居なくなってしまうのを恐れるみたいに、チラチラと後ろを振り返ってくる。
しばらく、他愛もないことを話した。ハンバーガー屋の新メニューの話とか夢の様な旅行の
プランの話。明太子は炭水化物の摂取量を増やすから、糖尿病患者を増産して一儲けしたい連
中の陰謀によって作られている、と大まじめに語ったら碧羽に大笑いされた。勿論、デタラメ
もいいところなのだが。
百貨店の前を通り過ぎると、橋の手前で左に曲がる。そこは、あの日俺が碧羽を助けるため
に、スケボーで駆け抜けた道だった。送って行くと言ってしまった以上、エスケープするなん
てできない。碧羽の後を付き従って、俺は歩くしかなかった。
コーヒー店の看板が出ているのが見えた。そこから右に折れた先に央街橋はある。
日の入り時刻を過ぎた南東の空には半分程度まで太った月が浮かんでいる。御蔵の中心部か
ら大して離れていないのに、空が広く感じられた。橋の欄干に照明が仕込まれていて、仄かに
光っている。今は人通りが殆どなかった。橋の真ん中に据えられた銅像の前で碧羽が立ち止ま
る。
「そういえば、ここで物思いに耽るのが碧羽の習性だったな」
俺はくすっと笑う。病院から帰るタクシーの中で碧羽が運転手に聞かせた話だった。
「見て佑馬、まだ半人前だけど月が出てる」
碧羽が橋の真ん中で立ち止まると、空の一点を右指で示す。薄い雲が時折月を遮るように流
れていくが、見えにくくなるほどではない。
「佑馬は早く大人になりたいって思う?」
碧羽の質問は唐突だったが、返答に詰まるほどでない。
「昔は思ってたけど、今はそうでもないな」
「どうして?」
「俺は小さい頃、喘息持ちだったから。子供の頃に喘息を患っても大人になると治ってしまう
人が多いんだよ。皆が皆ってわけでもないけど。だから、発作が起きるたびにそう思ってた」
碧羽が無言で相槌を打って続きを促す。
「ところがさ、大人になる前に治ってしまったんだよ。最後に発作が起きたのは中学2年の秋
だった。無理して大人にならなくてもよくなったせいで気が抜けてしまったのかもしれない」
「それじゃあ、佑馬はもう少し子供でいたいんだね」
少々語弊があったようなので、慌てて否定する。
「大人になったら酒もタバコも自由だし悪くはないと思うけどな」
先ほどのカフェでのやり取りを思い出したのか碧羽がくすっと笑う。
「家を出たのは良いけど、部屋を借りるのって未成年だと大変でしょ。しばらくは伯母さんの
ところで厄介になってたんだけど、さすがに長々とは居づらくて。その時早く自分一人で何で
も決められるようになりたいって思ったの。私の親権はまだ父が持っているから、あの人が少
しの気まぐれを起こせば嫌でも元の鞘に納まらざるを得ない。そんなの理不尽じゃない」
碧羽が銅像の前にへたり込む。体育座りして膝に顔を埋めているが、泣いているわけではな
いらしい。長くて滑らかな髪がサラサラと碧羽の膝やら腕に流れ落ちる。碧羽はまるで心地よ
い巣を離れ、成鳥になろうともがく雛のようだった。
「だから父親から逃げ出したのか」
「そう。父の事が嫌いになったわけじゃないけど、私の生き方を好き勝手に引っ掻き回される
のは困る。大変なことも多いけど、今の暮らしが結構気に入ってるの」
「俺がそんな境遇だったら、何もかも嫌になってしまうところだ。碧羽は偉いよ」
「別に偉いとかそういうのじゃ無いのよ。ちゃんと、自力で生きていけるってことを皆に見せ
つけないといけないんだから」
顔を上げた碧羽が鳥のクチバシみたいに口を尖らせる。
「そうだな。碧羽はちゃんと部屋を綺麗に片付けているし、普段は滅茶苦茶なところもあるけ
ど立派な大人だ。偉い偉い」
わしゃわしゃと乱暴な手つきで碧羽の頭を撫でてやる。碧羽の背筋がびくっと震えて、嫌な
のか驚いたのか判断しかねる声をあげる。
「悪い。つい悪戯心がもたげてきたんだ。特に他意はないぞ」
撫でられた部分を自分の手で触れると、碧羽の顔が紅を差したように真っ赤になった。怒っ
てしまったのだろうか。
「ばか」
「ごめんごめん、悪かったって」
「ばかばかばか!!」
碧羽の瞳が少し潤んでいるのが薄暗い中でも分かる。泣くほど嫌だったのだろうか。
「謝るってば、碧羽」
碧羽が立ち上がると、座り込んで折れ目が出来たスカートを乱雑に直す。
「……帰る。佑馬のせいで髪が乱れちゃったし、長いこと歩いてきて汗かいているのに変なこ
としてくれたし」
こちらを見ないまま一方的に碧羽が宣言する。いつもより歩くのが速いように思えた。付い
てくるな、と言わないってことは付いていっても良いのだろうか。
気まずい空気の中二人無言で歩いている内に、学校の近くまで戻って来ていた。そこはいつ
もの交差点。左に進めば碧羽の住むマンション、右に進めば学校にたどり着く。
碧羽が振り向いて、口を開く。
「佑馬のばか!! 何で付いてくるのよ!? 私は女の子に臆面もなく優しくできる佑馬が大嫌いよ!!」
一方的にまくし立てると、碧羽は振り返らないまま左へ小走りで去って行った。しかたない
ので俺も帰ることにする。腕時計を見ると、時刻は8時を過ぎていた。