第3話『スイート メディスン』②
そのカフェは御蔵駅ビルの3階にあった。やや手狭な入り口から中に入ると、店内は意外と
広々としている。大きく取られた採光窓からモノレールの駅が見えた。入り口側に10ほどのカ
ウンター席が設えられていて、残りの大半をテーブル席が占める。今の今まで気付かなかった
店だが、碧羽は何度も通っているらしい。ひびきや初音に尋ねても、知ってて当然みたいな反
応されるだろうと思われた。同じ場所でも年齢や性別で目の付け所がかなり違う。
「お買い物とか散歩に来たついでによく立ち寄るんだけど、カウンター席に座って行き交う人
たちをぼーっと眺めていると結構面白いの」
入り口近くのメニューボードを見て、何を注文するのかは予め決めてあった。その店のお勧
めはエスプレッソだという。軽食メニューも豊富だったが、夕飯前なので次の機会にしよう。
カウンターに並ぶと碧羽が店員の女性に二人分の注文をする。俺はダブルのエスプレッソ
を、碧羽はショートサイズのアイスショコラを頼んだ。先ほどのゲームセンターでの勝負の報
酬として碧羽が代金を支払う。もっとも負けても機嫌が良いのを見ると、そもそも勝負の結果は問題じゃなく、単純にこの店に連れてきたかったのかもしれない。
窓際のテーブル席に陣取ると、二人揃って椅子に腰を下ろす。奢る側の碧羽が自然と上座の
位置を占めた。
「ここはパンをその場で焼いているから美味しいんだよ」
「今度機会があったら食べてみるよ」
エスプレッソで満たされたカップを傾ける。違いの分からない小童だけど、とりあえず美味
しいということだけは分かる。
「おいしいよ」
素直に感想を述べる。語彙力の乏しさがこんなとき恨めしい。
「本当? よかった。佑馬が気に入ってくれなかったらどうしようかと思ったの」
「そんなことはないよ。今度は賭けとか関係なしで普通に来たいと思ったくらいだし」
碧羽がにっこりと微笑む。そろそろ見慣れた彼女の顔に一つの変化があるとすれば、出会っ
た頃に比べて少し健康的な表情になったことだろうか。
「一度、大人っぽい格好して来てワインを頼んだことがあったの。ちゃんとお化粧もしてね」
碧羽がコソコソ内緒話をするように身を乗り出す。そういえば、メニューの片隅にリストア
ップされいた気がする。大人っぽい碧羽ってどんな感じだろう。靴も踵の高いヒール靴を履い
たりするのだろうか。
「でも頼んだ後で怖くなったから、そそくさと飲んで店を出ちゃったけど」
高校の制服を着ている碧羽を見ていると想像も付かなかった。さぞかし別人のように見える
ことだろう。
「お前、試しに学校社会的に死んでみるか?」
いつぞやのやり取りを思い出して、俺はにこやかに笑ってみせる。
「そもそも証拠がないし、この話が本当だとも限らないじゃない? さて、疑わしいときは誰
の味方なのでしょう?」
澄ました顔で碧羽がそれをかわす。相変わらずのたぬきぶりだった。
* * *
「思っていたけど佑馬って意外と女の子慣れしているのよね。私が服を選んでても黙って待っ
ててくれるし、ちゃんと感想も言ってくれる。ちょっと悔しいな」
「悔しいって何が?」
「きっと、それって初音ちゃんとかひびきちゃんの影響ってことでしょ? たまには世間ずれしてないドギマギした佑馬が見たいなって。ねぇ、佑馬は私のこと」
不意に碧羽が言葉を切ると、そそくさと席を立った。行く先は……トイレか。
何が言いたかったんだろう、と首を捻っていると、鞄の中のスマートフォンが着信を告げ
る。碧羽からのメールだった。
『さっき入ってきたスーツを着た中年の男の人が居たでしょ。その人、私の父親なの。どこに
座ったか確認したらメールして』
碧羽の言葉通り、グレーのスーツを着た40台半ばくらいの男性がこちらに背を向けているの
が見えた。注文した商品を受け取ると入り口に近いカウンター席に着く。この店から外に出る
にはあの男の傍を通るより他にない。
見た通りを碧羽にメールで報告すると程なくして返信が届く。
『できればあの人にバレないように出たいんだけど、何とか手段はないかな? 私も考えてい
るけど、トイレって意外と考え事に向かないのよね』
古来より三上と言って考え事をするのに適した場所が三つ挙げられているのを思い出した。
もう2つは馬の上と枕の上だが、現代では馬を見ること自体がは稀だし、残念なことに寝具は
持ち合わせていない。
手っ取り早いのは碧羽の父にご退店願うことだが、理由を考えるのが難儀だ。『奥さんが急
病で倒れました』とでも言おうものなら、その場で事実確認されて終わり。娘に置き換えたら
本末転倒もいいところだ。碧羽は父親と顔を合わせたくないのだから。
要は碧羽の正体を気取らなければいいわけだが、店内を見渡して使えそうなモノを探しても
見あたらない。碧羽の人相を隠すにはどうしたらいいんだ。
『人が一人入れるくらいの大きさの段ボールに詰めて、台車に乗せて運ぶとか?』
碧羽からの提案がメールで上がってきた。それは子供の誘拐手段だと思うんだが。大型のワ
ンボックスカーがセットとして必要になるだろう。段ボールといえば、箱を被った男が出てくる小説があったっけ。読んだことはないけど。でも、段ボールって半端に大きいし。
レジカウンターを見ると、OLらしき20代半ばの女性が何かを紙袋に詰めてもらっているの
が目に入った。なるほど、紙袋なら何とかなりそうだ。
俺は席を立つとレジカウンターに向う。棚に並んでいる豆を一つ適当に手に取る。
「すみません、これが欲しいんですが」
「はい、1080円になります」
にこやかに先ほどの女性が答える。大学生のアルバイトの人だし、洒落は通じるだろう。
「すみませんが、この店で一番大きな紙袋にいれてもらえませんか? あと、できれば同じの
をもう一枚欲しいんですが」
俺の言葉を聞いて一瞬キョトンとするが、サービススマイル全開で
「構わないですよ。どうぞ」
茶色の紙袋を2枚寄越してくれた。大ぶりの商品を扱わない店のこと、一番大きくても週刊
誌がすっぽり入る程度だった。マチは存外広めにとってある。
代金を支払うと、丁重にお礼を述べて、先ほどの席に戻る。もう一捻りが必要だろう。ペン
ケースから蛍光ペンを取り出す。飼い猫のタカを思い出すと、最大限の画力で猫の顔を描い
た。ルーズリーフをおざなりに折っていびつな正四面体を作るとスティック糊で貼り付ける。
これは猫の耳になる部分だ。買ったコーヒー豆はデイバッグに放り込む。
碧羽はいつの間にかトイレから出てきたのだろう。洗面台の辺りに佇んでいる。作戦内容を
簡潔に説明すると恥ずかしそうに頷いた。ルビコン川だって猫かきで渡ってやろう。
長い髪を括った碧羽に紙袋を被せると、思わず笑ってしまいそうになった。
「にゃー!!」
早くも猫語に順応した碧羽に抗議の声を頂く。俺も同じように紙袋を被ると、碧羽を促す。
「ちょっと、佑馬。よく考えたら前が見えないんだけど」
「悪い。目のところに穴あけるの忘れてた。しょうがないから引っ張っていってやるよ」
俺は碧羽の手を掴んだ。そのまま自然体で出口へ歩き出す。一応台詞も考えていたのが、い
ざとなると出て来ない。
カウンター席でノートパソコンを広げていた碧羽父が驚いた顔でこちらを見た。中々の男前
じゃないか。ちょっと妬けたぞ。
「たにゃばた様に皆で仲良く暮らせるようにお願いするんだにゃー」
「にゃー」
せめてもの捨て台詞を裏声で吐いて、そのまま店外に出る。駅のコンコースに居た人の内の何人かが驚いて見ていたが構っていられない。紙袋を脱ぐと一気に離脱する。
* * *
「もう少しマシなやり方はなかったの?」
思い出したのか恥ずかしそうに碧羽がうつむく。手を繋いだ件については不問に付すつもり
らしい。きっと緊急避難とかそういう類なのだろう。
「ごめん、とっさには思いつかなかったんだ」
「別にいいけどね。あの口上はある意味、傑作だったし」
碧羽が視線をあさっての方向に逸らす。
「ねぇ、佑馬。ちょっとここで待ってて」
今いる場所はJRの改札口の前。電光掲示板に発車予定の列車の時刻と行き先が表示されてい
る。その内の行き先の一つを見て、今からでも温泉に浸かりたい気分になった。
「どこに行くんだよ?」
「女の子の行き先をあまり詮索しないように」
少し顔を赤らめてそっぽを向く。なるほど今度こそトイレか。
「あのカワイイ女の子誰よ?」
遠ざかっていく碧羽の姿をぼんやり眺めていると、不意に後ろから声をかけられた。
「何だ親父かよ、急に湧いてくるんじゃねぇ」
立っていたのは、愛すべき糞父の佑太郎だった。スーツ姿にブリーフケースを提げ、何やら
書類の入った封筒を携えている。
「人をウンカか幽霊みたいに言うなって。で、誰だよ? あの子。お前生意気にも彼女作った
のか。この前言っていた女の子ってあの子のことなんだろ」
「そんなんじゃなくて、ただの友達だよ」
「嘆かわしいな。俺がお前の年の頃は女の子が引く手数多で寄ってきたのに。お前は本当に俺
の息子なのか?」
できるならこの場で否定してしまいたいところなのだが。
「というのは愚問だったな。DNA鑑定の結果9分9厘、お前は俺と母さんの子供だ」
この男はこれでも生物系の研究者なのだ。
「それで、親父はこんなところで何してんだよ?」
「何? ってこれからデートだよ。相手が男だから10分遅刻して向かっているところだ」
母が死んでから10年経っても再婚しない辺り、母はこの父が操を立てるくらいにできた女性
だったのだろう。多くは聞き伝でしか知らないけど。
「ま、結婚が決まったら教えろな。出来る限り人数を呼んで枯れ木に花を咲かせてやるから」
腕時計に視線を落とすと、片手を挙げて親父はスタスタと歩き出す。
「そうそう、日付が変わるまでには帰るから。初音にも伝えておいてくれ」
振り返って一言付け加えると、今度こそ去っていった。
一つ溜息をつく。悪人じゃないのだろうが、いい年した大人なんだし歳相応の振る舞いをし
ろよと思う。学生相手の仕事だからだろうが、むしろ俺なら不信感を抱く。
「さっきの男の人って佑馬のお父さんなの?
碧羽はいつの間にか戻ってきたらしい。
「そうだよ。誰かと約束があるみたいだっけど」
「へぇ。ぱっと見た感じ、かっこいい人だったよね」
碧羽の声が弾む。こいつは中年好きなのだろうか。子供の俺から見ても、顔立ちは悪くはな
いと思うが、あの偽悪的な性格は少々難ありだと思う。
「佑馬ってお父さん似ってよく言われるでしょ?」
「いや、どちらかと言うと母親似って言われることが多いかな」
良くも悪くもあいつの影響は少ないというのが本当のところだった。親戚に会っても父親似
だとは滅多に言われない。
「そうなんだ。本当はちらっとしか見えなかったんだけどね」
あはは、と誤魔化すように笑う碧羽。眼が若干泳いでいるのが気になった。
「それじゃ行きましょ」
すたすたと碧羽が駅の外に向かって歩き出す。
「でも、本当に良かったのか? 碧羽のお父さんのこと」
「いいの」
「やっぱり家族なんだろ。できるなら一緒に」
その言葉を聞いた碧羽の顔からすっと色が消えた。どうやら地雷を踏んでしまったらしい。
「ごめん」
「佑馬は気にしなくてもいいよ。場所を変えましょう」
先ほどのゲームセンターで見せた陽気さが嘘だったみたいに、碧羽の表情は沈んでいた。