第2話『インタープレイ』⑤
ドーナツ屋を出ると雨が降り始めていた。とはいえ、まだ激しくはない。さっさと帰ったほ
うがいいだろう。俺をいじる方向で意気投合した碧羽とひびきが散々抉ってくれた古傷が雨にしみるし。下らないことばかりよく覚えているものだ。
夕方の御蔵駅の構内はいつものように混雑している。モノレールのレールが伸びる先には雨で煙る繁華街が広がっていた。それよりも低い位置にある改札口の前に俺たちは立っている。
「碧羽はここから歩いて帰るのか?」
「そんなに雨は酷くないし。それに小雨の中を傘さして歩くのって楽しいじゃない」
碧羽が折りたたみ傘を広げてクルクルと回して見せる。
「雨に歩けば……か。そういえば、そんな唄あったよね」
「へぇ。雨に唄うんじゃなくて?」
「あれ? 雨に唄うんだっけ?」
どっちだろう、と二人が俺を見る。残念だが、俺はどちらとも初耳なのだが。スマートフォ
ンを取り出して調べると、意外や意外どちらともあるという。
「じゃあ、唄いながら歩こう」
「何か不審者みたい。女の子が傘を振り回しながら唄っていた事案が発生するよ」
「それはちょっとやだな」
碧羽が笑って、広げていた傘を閉じた。
「そういえば、傘どうしよう」
ひびきが外を見やる。ひびきの家は普段降りる駅から徒歩で5分程度の場所にある。俺の家
の方が若干近い。せいぜい数十メートル体の差だが。
少し考え込んでいた碧羽がポンと手を叩いて、
「私が一緒に送っていけば解決」
「それじゃあ碧羽ちゃんが遠回りしすぎになるじゃない」
「私は別に構わないけど」
「ちょっと忍びないから却下ね。碧羽ちゃんって嬉々として他人の荷物を持ちたがる方だった
りする? 潰されるか、利用されるだけ利用されてポイ捨てされちゃうよ」
右の人差し指をピンと立ててひびきが碧羽を諭す。碧羽の方が僅かに背が高いから少し滑稽
に見えた。ひびきの指摘で、先ほどのドーナツのやり取りを思い出す。普段相手をしていると
気づきにくいけど、碧羽は他人に対して臆病なのかもしれない。
「じゃあ、ひびきちゃんは佑馬と相合傘して帰る方がいいの?」
「はぁ!?」
よほど不意打ちだったのか、ひびきの声が裏返った。
「悪い冗談はよして、お願いだから」
ひびきが碧羽の肩をがしっと掴んで懇願する。嫌なのか、照れ隠しのつもりなのかは分から
ないが。そういえば、今も昔もこいつの目当ては初音だったな。
「佑馬が濡れて帰れば解決するじゃない。どう? 名案でしょ」
勝ち誇ったように胸を張って、ひびきが告げる。
「だめ。その……佑馬が風邪引いて学校を休んだりしたら困るでしょ?」
「誰が困るのよ?」
「えーと。総務委員長の神野さんとか」
こいつって何気に春香先輩が嫌いだろ。言い負かされて悔しかったのか、昼間も頑なに苗字
で呼んでいたし。
「春香先輩は俺が居なくても、別に困らないぞ。あの人の手足になりたい物好きは委員会内に
だって、いくらでも居るだろうしな」
唯々諾々とあの人の言いつけに従っているフシがあるが、あいにく俺はマゾじゃない。
「あの人って人使いの荒いイメージがあるけど、誰にでもというわけじゃないんだよ。春香先
輩が信用していたり目を付けた相手に用事を言い付けてるの」
自分が思ってもいなかったことをひびきが口にした。
「そういえば。俺、委員会の第一回のとき思いきり寝てたんだよな。それで気が付いたら、あの人の下僕みたいになってた」
「原因はそれよ。どう考えても」
呆れたひびきがジトッとした視線を俺に送る。
「というか、素直に傘を買えば良いんだがな」
「そうなんだけど。おととい、新しい傘を買ったばかりなんだよね。せそうだ、佑馬にモノレ
ールの駅で待ってもらっている間に、私が家に帰って傘を持って戻ってくればいいんだ」
なぜそんな単純なことに気が付かないのか。一つ理由を挙げるなら、議論は実のないほど楽
しくなるからだろう。答えが出ても出なくても大勢に影響はなく、飽きれば放り投げてしまえ
ば済むから。その非生産性にバンザイ。
「でも、俺はその間待ちぼうけだな」
「コロリ転げた木の根っ子ー」
ひびきが手でうさぎの真似をする。キャラに合わないのはどっちだ。
* * *
「それじゃまた明日だね」
碧羽が改札の外から手を振っている。ひびきを真似て俺も控えめながら振り返す。
「また明日、って何だか嬉しいよね」
古くさい磁気式の定期券を通して改札をくぐる。そこから左に折れてすぐの階段を上がった
先にホームはある。
ちょうど前の電車が出て行ったのか、ホームの上には疎らにしか人が居ない。視線を下へ向け
ると、駅前のペデストリアンデッキに続く長い階段を降りる碧羽の後ろ姿が見えた。
初音が間に入らないと、俺たちは意外と会話が続かない。ひびきはさきほどの英単語帳を流
し読みしているし、俺はといえば適当にスマートフォンを弄って新しい靴を物色している。
それでも、こいつが相手だと沈黙は苦痛じゃない。それだけ長い時間をこいつと過ごしてき
たからだろう。つまり居るのが当たり前の関係。この当たり前がいつまで続くだろうか。碧羽
の登場に気をもんでいた、ひびきを思い出す。人間の関係は変わらずにはいられない。どんな
に良好な関係を築いても、死は容赦なくそれを分断する。碧羽の母親の死と父親の再婚は壊れ
かけていた家庭にとどめを刺してしまった。待つものの居ない部屋に帰るあいつの悲しみを知
っているのは俺と他にどれくらい居るだろう。
案内放送がモノレールの到着を告げる。帰宅ラッシュと逆方向ながらそれなりの人数の乗客
を吐き出すと、入れ替わりに俺たちは乗り込んだ。
何となく席には座らず、閉まっている側の扉の傍に立つ。いつの間にかひびきはスマートフ
ォンを手にして何やら友達にメールを打っているようだった。返ってきたメールの文面を読ん
で、鼻を鳴らして含み笑いしている。
モノレールが動き出した。窓の外を大きなガラス窓がはめ込まれた円柱が特徴的な商業ビル
の明かりが流れていく。小雨で濡れたガラス越しだと、涙で滲んでいるように見えた。
「碧羽ちゃんって結構いい子だったね」
スマートフォンをしまうと、ひびきが俺に話しかけてくる。
「性格に少し難があるけどな。少なくとも悪人じゃないだろ」
「あの子って初対面の人には誰にでもあんな感じなのかな。だとしたら、まるで怯えている子
犬みたい。相手が信用できる人かどうか確認しないと不安なんだよ、きっと」
思わずひびきの顔を見る。人付き合いの多いこいつは自然と他人の機微に鋭くなるらしい。
「一人暮らししているんだってね。事情まではさすがに教えてくれなかったけど。これから夕
食を作らなきゃ、ってメールが来たの」
「あいつも色々と大変なんだよ」
「佑馬にしては珍しいよね。前は何をやってもつまらなそうだったのに。柄にもなく委員会活
動なんてやっているから、春香先輩に毒されちゃったんじゃない?」
最近の自分の行状を思い返して、ため息を一つつく。
「あのときは絶対ババを引いた、と思ったんだけどな」
「そうだね。でも、ジョーカーってゲームによっては最強のカードだったり、最弱のカードだ
ったりする。だから、佑馬が今取り組んでいるゲームの中ではジョーカーが強いカードなんだよ。もちろん現実は単純じゃないから紙くず同然になってしまうこともあるけど」
「つまり、何が吉で何が凶になるかわからないってことか」
「それこそ、死んでしまうまではね。『最後に笑う者が最もよく笑う』っていうし」
「どちらかといえば『終わりよければ全てよし』の方がしっくり来ないか?」
「別に間違ってないけど、何となくスケールが違う気がするんだよね」
何も言えずに俺は窓の外を見やる。信号待ちをしている自動車のテールライトの列が行儀よ
く並んだ宝石のように輝いていた。
* * *
モノレールを降りても、雨は降り続いていた。
「やっぱりややこしいことはやめだ。傘はひびきが差せ。俺は申し訳程度でも入れればいい」
「別に嫌ってわけでもないけどね。近所の人に見られると何か気まずいじゃない」
「ははは、俺とお前は義姉弟の契りを交わした仲だろ。我ら生まれたときは違っても、願わくは死ぬのは同じ時を願おうじゃないか」
それを聞いたひびきが本気で嫌そうな顔をする。
「あんたと心中するくらいなら、いっそベニテングダケでも食べて一人で死ぬわ」
「一応食えるらしいぞ、あれ。俺は絶対お断りだけど」
毒抜きしたベニテングダケは長野県の一部で食用とされているらしい。毒成分が量次第では
超美味だという。そりゃ鼻の大きな配管工もパワーアップするわな。
「そういえば、長い付き合いだけど同じ傘に入るのは初めてよね」
ひびきがおずおずと差してくれている傘の中に入る。70cmの大きめの傘は取り回しに難が
あるけど、誰かを入れるにはお誂え向きなのだ。特に傘を忘れたお間抜けさんとか。
「そりゃ、人生色々あるだろ」
「何? その達観したような言い方。お年寄りみたい」
「放っとけ。実際、事実は小説より奇だしな」
「それもそうね」
涼しい雨の降りしきる中で、普段より距離の近いひびきから発せられた体温が暖かかった。
普段よりも脚が鈍るとはいえ、我が家までの距離は短い。無言で歩いていると尚更だ。俺の
家の玄関前まで来ると、ひびきが言った。
「碧羽ちゃんじゃないけど、また明日ね。改めて言うとなんか新鮮な感じがするわ」
「おう。またな」
二人揃って碧羽に影響されたらしい。何度言えるか分からないその言葉を明日も明後日もその次の日も言えますように。柄にもないことを願いながら俺は自宅の扉を開けた。