第2話『インタープレイ』④
御蔵駅ビルの中にあるドーナツ屋は夕方ということで会社帰りのサラリーマンや学生で賑わ
っている。とはいえ、首尾よく四人がけの席を確保することが出来た。あまり長居すると顰蹙
を買いそうだ。考えなしに物を言うものじゃないけど、どうにかして言葉にしないといけない
場面もあるんだ、と自分に言い聞かせる。
碧羽がドーナツを買いに行ってくれているので、席に座っているのは俺と碧羽の二人だけ。店内にピアノがメインのジャズ曲が流れている。
「ビル・エヴァンズ……定番だよね」
物憂げなひびきが口を開く。今流れている曲について言っているのだろう。
「ひびきがジャズを聞くなんて知らなかったな。結構詳しいのか?」
「言うほどじゃないけどね。動画サイトを覗いていると結構聞きかじりの知識とか曲とか増え
ちゃうから」
「じゃあ、今流れている曲のタイトルとか分かるか?」
「さすがにいつも曲名までは意識して聞いているわけでもないけど、これは本当に有名。『ワルツ・フォー・デビー』だね。いつもは聞き流してばかりだから、今度からちゃんと曲名も意
識してみようかな」
「よくわからないけど綺麗な曲だよな。あ、何か音が増えた」
「ビル・エヴァンズは3人組で活動してたからね。ピアノを弾いているのがビル・エヴァン
ズ。あともう二人、ベースとドラムを担当している人が居るんだけど名前までは覚えてないん
だけど、その人たちも演奏に混じったんだよ」
スマートフォンで調べればすぐに出てくる事なんだろうけど、今、この場でそれをやるのは
酷く野暮のように思われた。
「たまにはジャズも悪くないな」
「でしょ。なんか気分が落ち着くんだよね。逆にテンションにが上がる曲もあるから、一概に
も言えないんだけど」
「こういう場所にはそぐわないだろうな」
持ち帰りの客が多いのだろうか、客席の埋まり具合の割にレジが混んでいるようだった。碧
羽が店員とやりとりをしているのが見える。
「ちょっと、どんだけ注文する気なの? あの娘」
ひびきが疑念の声を上げる。俺たち3人にたいしてドーナツの量は優に20個はあるだろう
か。遠巻きに目が合う。ちょっと来いと手招きされたので、席を立って碧羽の元に向う。
「佑馬のお父さんって甘いもの平気?」
「全く食べないわけじゃないけど、基本的にあいつは辛党だぞ。というか何で碧羽が俺の親父にまで気を使うんだ?」
「だって、朝ごはんごちそうになったし。勿論、初音ちゃんにもおみやげがあるからね」
「というか、お前の奢りなのか?」
「今日は何か置いていかれずに済んで、嬉しかったからせめてものお礼がしたかったの」
「そんなのいいから。俺も半分払う」
ひびきは一人っ子だから4で割ったら一人頭で4~5個か。食べられない量ではない。10個ずつ紙箱に詰めてもらい、3人分のカフェラテを受け取るとひびきが待つ客席に戻った。結局、碧羽に押し切られて端数しか出させてもらえなかったけど。
英単語帳に目を落としていたひびきが顔を上げて驚嘆の声を上げる。
「自称ドーナッツ中毒者の誰かさんは泣いて喜ぶんだろうけど、私は向こう半年くらいはドー
ナッツを遠慮したくなるかも。そうだ写メ撮っていい?」
「どうぞどうぞ」
カフェラテにささったストローから唇を離すと、碧羽が上機嫌で告げる。せっかくだから私も、と碧羽もパチパチ写真を撮っていた。
「ところでさ、さっき佑馬と話していたんだけど碧羽ちゃんってジャズ聞く?」
先ほどの話題をひびきが碧羽にも振る。そういえば、こいつが何を好きかなんて全然知らな
いな。まだ知り合ったばかりだし、無理もないけど。
「うん。ママ……じゃなかった母の影響でね。マイルス・デイビスとかキャノンボール・アダ
レイとか。セロニアス・モンクもいいよね。それに」
「詳しいのはよくわかった」
放っておくと止まらなそうなので遮る。
「何と言ってもビル・エヴァンズ! 私の名前はね彼の曲に因んで父が付けてくれたの」
止まらねぇ。子供に無関心な父親が名付け親っていうのは正直意外な気がした。この二人の
わだかまりはいつ頃どうやって生じたのだろう。余所様の家庭事情とはいえ、少々気になると
ころだった。
「じゃあ、碧羽ちゃんって結構CDとか持ってるんだ?」
「殆どが母のお下がりだけどね。今の家に越してくる時に全部持って来られなかったのが、今
思っても残念だな」
碧羽の部屋ってモノを貯めこむには狭いんだったな。先ほども本を置いておけるスペースも
十分に確保できないと言っていた。
「それでも有名ドコロはひと通り揃ってるよ。コルトレーンの『ブルートレイン』とかソニ
ー・クラークの『クール・ストラッティン』にマイルスの『カインド・オブ・ブルー』……ごめん二人には「それでどうしたの?」って話だったよね」
「それでも語れる何かがあるのっていいな、って思うよ」
「ありがとう、ひびきちゃん。でも殆ど受け売りなんだ」
あはは、と碧羽が笑う。でも、好きな事を語っている時の碧羽は眼が輝いていた。
「ひびきだって変な動画を見つけては送りつけてくるじゃないか。『唄を忘れたカナリア』を
歌うオカメインコとか最高にシュールだったぞ」
「あれは偶然見つけただけだよ。胸を張って話せる話題でもないし」
「何それ見たい。ひびきちゃん、私にも送って」
碧羽が立ち上がって身を乗り出してくる。
「私、メルアド知らないんだけど」
ごめんごめんとチロッと舌を出すと、二人がメルアドを交換する。ダウンロードした動画を
見た碧羽が必死に笑いこらえている。さすがに閾値が低すぎるだろう。
「そんなに面白かったのか? 碧羽」
「ええ、あの大真面目な表情がツボにはまっちゃった」
その後しばらく笑い続けた碧羽は周囲の視線を集めた。
* * *
「そういえばずっとさっきから気になっていたけど、碧羽ちゃんって佑馬のこと呼び捨てで呼
んでるよね。二人ってどういう関係なの?」
直球ストレートでひびきが尋ねてきた。何とか落ち着いた碧羽がそれに答える。
「ああ、それはね。私は友達も名前で呼ぶ主義なんだ……って言っちゃうと、あの委員長さん
と一緒になっちゃうか。ひびきちゃんも呼び捨てで呼ばなきゃ変だし。私にとっての佑馬はタ
ダの友達というには親しすぎて、本当のきょうだいほどじゃないけど気安い人なの。あとは秘
密。本当は誰にも知られたくなかったんだけど、お互い運が無かったんだね」
彼女の秘密。それは母親を亡くして一人暮らし。仲違いした父親。不安定になった精神を紛
らわせるために咳止め薬を過剰摂取する悪癖。碧羽が持っていた薬は俺が預かっているが、再
発しない保証はどこにもない。四六時中付いて廻るわけにもいかないし。
「秘密?」
ひびきがその言葉の意味するところを測りかねて眉をひそめる。
「そう、秘密。こればかりはひびきちゃんには話してあげられないけど。でも、5年か10年経
って、現在を振り返ったら他愛もないことだったんだなって思えるくらいのものだから。きっ
と、そうなるはずだから」
最後の方は消え入りそうな声だった。大人になって自分の力で生きていけるけるようになっ
たら、両親との関係はどうなってしまうのだろうか。例えば、俺が親父と険悪の中でろくに家
にも戻らず放蕩三昧の生活をしてても、笑って流せたりするのだろうか。
「こいつには包み込んでくれる暖かな存在が必要なんだ」
「それは佑馬じゃないといけないことなの?」
「そんなことはないんじゃないか。ひびきだってそうなれるさ。俺にとってもひびきは家族同
然だと思ってるぜ。初音がお前を『おねえちゃん』って呼びたがる気持ちは分かるんだ。口に
するのは恥ずかしいけどな」
温くなりつつあるカフェラテを飲み干す。そろそろ店を出ないと。初音もそろそろ帰宅して
そうだし。
「いいな。そういう昔から続く関係って。私にはそういう人が居ないから素直に羨ましい。私
が佑馬に目をつけたのは直観的に同じ匂いを感じたからだけど、本当は私のわがままを受け止
めてくれる都合のいい相手が欲しかっただけなのかもしれない。それだけで終わってしまうの
は嫌だから、私も佑馬やひびきちゃんのために何かを頑張れたらいいなって思うよ」
「つまり二人って?」
「適切に言い表すなら一緒に悪いことをする友達と書いて悪友なのかな。佑馬は同盟だとかな
んだとか言ってたけど。別に浮いた関係でもないしね」
碧羽が思い出し笑いを堪える。自分も賛成したくせに。というか、悪いことって何だよ。
「それじゃあ、碧羽ちゃんは何か問題を抱えていて佑馬は偶然それを知ってしまった。それで
佑馬はそれを何とかしたいわけなの?」
「何とかしようと思って、何とか出来るとも思えないけどな。とりあえず、当面は碧羽が真人
間らしくなれるのが目標だな」
「私はじゅうぶん真人間なんですけど」
碧羽がコホンと咳払いをする。朝一番で他人の家に押しかけてきたヤツが言っても、説得力
が1ミリグラムも無い。
「私、よく誰かに相談事振られることが多いから、言ってくれたら相談に乗るよ。実際、佑馬
ってあんまり頼りにならないし」
「そんなことないよ。能ある鷹は爪隠すって言うじゃない。佑馬はやればできる子だよ」
地味にそれって褒め言葉じゃないよな。
「鍵なら隠してたけどね」
「鍵?」
碧羽が首を傾げる。
「それは鷹じゃなくて猫のタカの話だ。出かけようと思ったら家の鍵がなくて、さんざん探し
た後で妙に大人しいタカをどかせたら、あいつ自分の尻に敷いてやがった。休みの日だから良
かったけど、平日だったらそのまま一緒に不貞寝してたところだ」
「えー……ちゃんと学校に行こうよ」
呆れ半分に碧羽が笑った。下らないことでも笑ってくれる方がよっぽど良い。