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Undercurrent  作者: HIMMEL
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第1話『出会い』①

 頭がボーっとした不快な感覚。眠りから覚めた時はいつもこの調子だ。霧のかかったように

 鈍い思考は軽く10分は経たないと元に戻らないだろう。もっとも、戻ったところで上手く働い

 ちゃくれない厄介な難物なのだが。

 腕時計に目を落とす。銀色の文字盤の針は午後3時半。6限目はほとんど寝ていたことになる

 のか。あくびを噛み殺しつつ、背伸びをする。担任が来て終礼を始めるまでの僅かな時間、教室内は喧騒に包まれている。

「ひびき、ノート見せてくれよ」

 何やら書き物をしていたひびきが困ったような顔で俺を見た。

「また寝てたの? 佑馬。テスト近いんだし、少しは真面目にやらないと補習受けないといけなくなっちゃうよ。夏休みが潰れちゃってもいいの?」

「おいおい。俺が今まで追試になったことが一度でもあったか?」

 ひびきが軽く眉を顰める。

「佑馬は変に要領がいいから、今までは何とかなってるだけだよ。要するに周りが見えてないの。このまま行くと山の斜面に激突して死んじゃうんだからね」

「飛行機の例えできたか。でも、パイロットの腕が良ければ」

「いくらパイロットの腕が良くても物理法則には逆らえないよ。お客さんがいっぱい乗った大きい飛行機が宙返りしたら、それはそれは大惨事になるでしょ」

「俺なら確実にゲロるな」

 大型旅客機でもその気になれば、かなり無茶な挙動を取れるのは何かの動画で見せられたこ

 とがあった。こいつには面白おかしい動画をジャンルを問わず、どこからともなく探してくる性質の悪い趣味がある。

「でも、休みが潰れるのは困るな。補習って花火大会と被ってただろ」

 花火大会は例年7月中旬にある、御蔵の夏の風物詩だ。市街の中心部が歩行者天国となり、露店も多数出店される。

「そうだよ。皆で集まって遊びに行くんだから、佑馬もちゃんとやらないと」

「へいへい」

 不承不承に頷く俺に、ひびきは自分のノートを差し出してきた。

「いつもスマン。コピーして夜までに返すから」

 ひびきは俺の近所の家に住んでいる。義務教育を同じ学校の同じクラスで過ごし、高校まで同じクラスのこいつとは前世で徒党を組んで庄屋を襲って、揃って打首獄門にされた因縁でもあるんじゃないかと思うことがある。

「あと、今度何か奢らせてただきます」

 ありがたく受け取り、パラパラと捲る。相変わらず律儀なノートの取り方をする奴だ。その

 分要領が悪いのが玉に瑕だけど。教師の反対を推しきって、この学校を受けた時はどうなるか

 と思ったが、やるときはやるらしい。

「そんなのいいよ。それより物理のテスト範囲でどうしても分からないところがあるの。今度

 教えてくれる?」

「わかった。代わりに化学教えてくれよ」

「いいけど。今日は委員会なんだっけ?」

「だな。居るだけ委員でも顔くらいは出さないと委員長が怖い」

「それじゃあ、夜にでもお邪魔しようかな」

「うん」

「佑馬の家は良いよね。お父さんが先生だし、勉強のコツとか教えてもらえるし」

「大学のだけどな」

「人に教える仕事なのは変わらないでしょ」

 困ったときに口元を尖らせる癖は可愛らしくないこともないと思った。

 あの糞親父が前に「研究が本職。学生を相手にするのは飯の種を得るためだ」と、にこやか

 に言っていたのは黙っておこう。

 席に戻ると同時に予鈴が鳴って、時間にうるさい担任が入ってきた。お定まりの終礼が終わ

 れば後はウィニングランだ。連絡事項を聞き流しつつ俺はそんなことを思った。


  * * *


 挨拶と同時に荷物をまとめて教室を飛び出した。

 俺の通う御蔵高校は総生徒数約1,000名ほどの県立の普通科高校である。一応進学校を標榜

 しているが部活にも熱心に取り組んでいる。野球部は今はパッとしないものの、その昔はかなりいい線まで行ったらしい。

 校則はそこまで厳しくなく、生徒の自由を尊重してくれているのか、多少の無茶をしても寛容に見逃してくれる。

 目的の部屋は職員室の真上。教員棟の3階にある総務委員会室だ。毎週木曜日に定例会が開

 かれる。普段面倒くさがりの俺が総務委員なんて仕事を拝命しているのは、くじで負けたから

 以上でも以下でもない。

「ちわーっす」

 委員会室のドアを開けると中に居たのは委員長の他に委員が数名が居るだけだった。会議が

 始まるには、まだ時間に余裕がある。

「こんにちは、浅野くん。今日もお元気かしら」

「春香先輩の方こそごきげんよろしゅう」

 銀色の髪を右手で梳いている彼女と不意に目が合う。2秒後に逸らされた。ジャングルなら取って食っても良いのだろうが、不幸にもここはジャングルではない。

 すらりとした鼻筋の彼女は贔屓目なしの美少女だ。ふわふわの長い髪は地毛らしく、夏服の肩に緩やかにかかっている。パッチリとした目が愛らしい彼女だが、仕事モードになると目つ

 きが変わる。まるで労働の神が降りたように。

「皆揃うまで待っているのも時間がもったいないし。ねぇ、浅野くん?」

 意味ありげにセンパイが目配せをする。

「へいへい」

 荷物を適当に置くと、部屋の隅にある棚からお茶道具一式を準備した。定例会に来て早々、俺のやるべき仕事は何故か、彼女のお茶くみなのだ。お茶請けのお菓子もしっかり用意されて

 ある徹底ぶりには感心させられるのだが。

 自分で淹れれば良いじゃないですか、とうっかり口を滑らせた時の彼女の言い草ときたら。

『いいですか? 浅野くん。あなたが働くのは常に人のためなの。それが巡り巡って自分のためになる。私はね、あなたのお茶が飲みたいの。ついでだからあなたも飲んでいいわ』

 だったら先輩が淹れて俺に振る舞ってくれてもいいってことだよな。芥川龍之介の『羅生門』に登場する下人みたいな論理で反駁してやろうかと思ったがやめておいた。水を掛けた議論より素直にお湯を沸かした方がなんぼかマシだろう。議論の結末は誰も知らない。

 部屋の隅に備え付けられている洗面台で急須をすすぐ。委員長の私物の小さな電気ケトルに

 水を注ぐとほどなくしてお湯が沸いた。

「お茶っ葉はどっちがいいですか?」

「赤い缶に入っている方にして頂戴」

 読んでいる書類から目線だけを上げて春香先輩が答えた。

 お茶の淹れ方も突き詰めれば奥が深い。春香先輩が指定してきたのは玉露だから、一度湯の

 みにお湯を注いで冷ます。次に茶こしに茶葉を入れて、先ほどの湯冷ましを差していく。その

 まま2分ほど蒸らしたのを、湯のみに注げば出来上がり。お茶の種類によって、その方法は多

 岐にわたり、それら全てを手取り足取りで春香先輩に仕込まれていた。

「どうぞ」

 買い置きの饅頭と一緒に添えて、委員長の前に出す。ついでなので自分の分も淹れておい

 た。ささやかな報酬だというので、ありがたく受け取っておこう。

「おいしい」

「そりゃ、高い葉っぱ使ってますからね。100g1500円もする」

 もっとも、お金を出したのは俺じゃないけど。ゴチになります。

「お茶っ葉の値段じゃなくて、あなたの淹れ方が良くなっているのよ。最初の頃はてんでダメ

 でどうしようもない人だと思っていたけど、見どころはちゃんとあったのね」

「相変わらず可愛い声で毒を吐きますよね、春香先輩って」

 目を丸くした春香先輩が首を傾げる。この人は先天性暴言癖があるとしか思えない。

「毒霧って不思議ですよね。吐いている人が毒で具合が悪くなったりしない辺りが特に。私は

 具合が悪くもないですし、そもそも毒霧なんか吐けませんね」

 冗談めかして言っているが、その目は全然笑ってない。どこの世界に本物の毒を呷って毒霧

 を出すレスラーが居るというんだ。

「毎度思うんですけど、何で俺ってこんなことさせられているんです? お陰でお茶くみスキ

 ルが身に付いたのは良いですけど、あまり欲しくはなかったな」

「それはね、浅野くん」

 ふふんと自信ありげな笑みを浮かべる春香先輩。

「どう見ても、自分から進んでここに来ているとは思えない浅野くんのために、一つやりがいのある仕事をあげようかなって思って。敬愛する春香先輩にお茶を淹れられる権利がある私

 は、三国一の幸せ者です、って少しは思ったりするでしょ?」

「しません」

 つまらなさそうに春香先輩が頬を膨らませる。幼女が勉強ばかりして大人になるとこういう人間ができるのかもしれない。

「素直じゃないなぁ。浅野くんなんか、近くの川に落ちて泣いて帰るハメになれば良いんだから。結構有り得そうな未来だと思わない?」

「有り得ません」

 この人と話していると疲れる。いつの間にか三々五々とメンツが集まって来ていて、俺は大

 人しく自分の席に付く。湯のみを傾ける彼女は遠目から眺めている分は、とても可愛いのに。

 不覚にもそんなことを思ってしまった。


  * * *


 会議の議題といえばお定まり通りのものだった。夏休み明けに行われる体育祭の準備に向け

 ての確認事項がいくつか。関係先の根回しがどうとか、教師連中の意向がどうとか、時間はそこまで掛けられないので全員気を引き締めて取り掛かるようにとか、あれやこれや。

 6月中旬の気の長い太陽は午後6時前になっても燦然と輝いている。窓の外には西日に照らされてキラキラと輝く工場地帯が望まれた。高い煙突が白い煙をもくもくと吐き出している。

「お疲れ様ね、浅野くん。悪いんだけど用事を一個頼まれてくれないかな?」

「……何ですか?」

「そんなに嫌そうな顔しないの。放送室に行って、テニス部の部長を呼び出す放送を掛けてく

 れないかな。提出してきた書類のことで聞きたいことがあってね」

 何だその程度のことか。そういうお遣いは今に始まったことじゃないし、他の連中にもちょ

 くちょく振られている仕事なのでどうということはない。

「分かりましたよ。テニス部の部長を先輩のところへ呼びつければいいんですね」

「そんな感じかしら。それが終わったら、そのまま帰ってくれて構わないわ。あげたレジュメ

 にはちゃんと目を通しておいてちょうだいね。また来世で逢いましょう」

 この言い回しもお定まりのものだ。来世まで待つまでもなく翌日にバッタリ顔を合わせるこ

 とも珍しくなく、子供っぽさを捨てざるを得ない現実への彼女なりの抵抗なのかもしれない。

 彼女に背を向けると、そばの階段を一つの下の階へ降りる。職員室の並びに放送室はある。鉄製の扉を開けると放送委員の女子が数名話し合いをしていた。その中の一人の許可を得て、調整卓に座る。使い走りで何度もやったことがあっても、結構緊張するものだ。

 ボリュームのつまみを上げてチャイムボタンを押すとお決まりのピンポンパンポンというチ

 ャイムが流れる。その後に要件をマイクに向かって伝えると校内中に流れる仕組みだ。放送委員曰くチャイムはボリューム下げ目で流すのがポイントだという。大音量で流れるチャイムは聞くに堪えないのを通り越して公害だと苦笑していた。

「女子テニス部部長の木屋瀬さん、総務委員長春……失礼しました神野までお願いします。繰り返します、女子テニス部部長の木屋瀬さん、総務委員長神野までお願いします」

 何となく失言要領の得ない言い回しだなと思いつつボリュームを下げる。放送委員たちの意味ありげな視線を感じる。春香先輩人気あるしな。上っ面は良い人だから。

 簡潔に礼を言って放送室を出ると後ろからかかった声に呼び止められる。振り向くとそこに

 居たのは一人の女子生徒。

「さっきの放送の人って君?」

 女神のようなにこやかな笑顔でそこに立つその人は小森碧羽だ。薄暗い廊下にあって輝いて見える俺の気になっている人。色白の肌に碧がかった黒髪が印象的な清楚で儚げな印象の美少女である。グレーのチェックのスカートとブラウスの夏服の上から、黒いニットベストを着込んでいる。腕を後ろに回して上目気味に俺を見ていた。

「そうだけど」

「そっかぁ、何となく声が良いな、って思ってんだ。キミって神野君っていうんだっけ?」

「いや、神野は総務委員長の先輩。俺は2年だし、あの人の用事を頼まれただけ」

「へぇ、そうなんだ。上履きの色で変だなって思ってたんだ。神野さんってあの綺麗な人だよ

 ね。結構近づきづらいって印象があるけど、総務委員って楽しい?」

「楽しくなくはないかな。春……神野先輩ってああ見えてお茶目なところがあるし、お茶に目

 がないし。あの人のお陰で今じゃどんな茶でも淹れてみせる自身があるというか」

「そうなんだ。春…ってあの人の名前春香だよね。名前を呼ぶくらい親密だったりとか?」

「あの人は苗字で呼ぶと逆に機嫌が悪くなるんだ」

 といってもあんまり怖くはないけど。正直子供の駄々と大差はない。

「もしかして恋人同士とかだったらどうしようとか思ったけど、そういうわけじゃないんだ

 よね?」

 あの人と恋人になる展開が全くもって思い浮かばない。主人と下僕の関係ならまだ分かる。

「誓ってそんなことはないよ。そう、5組の浅野佑馬です」

「私は隣の4組なんだ。小森碧羽です。5組ってことはキミって理系なんだね」

「そうそう、数学とか結構得意だったから」

 なぜか化学は苦手なのだが、それは黙っておいた。

「いいな。数学苦手だから文系にしちゃったけど、今からでも理系に行きたいかも。実験とか

 ワクワクするでしょ」

「ああ……徹夜明けの親父がパチンコで全財産スった後のような不景気顔で朝食取る程度には楽しいぞ。実験データが実験データがと譫言のように呟いててちょっと怖い」

 俺は遠い目をした。修羅場の時の父親は手負いの虎か捨てられた猫かのどちらかである。普

 段は話せる奴なのに。

「そ、そうなんだ……」

 たじろいだように碧羽が笑う。脳内に名前をつけて保存した上で一つ提案してみる。

「小森ってどうやって通ってるの? 俺さモノレールなんだけど良かったら……」

「私の部屋ってここから近いから。駅とは別の方向に歩いて10分くらいなの。校門までならご

 一緒できるけど」

 部屋ということは一軒家じゃなくマンションとかなのだろう。

「うん。じゃあ、それで。荷物は?」

「いけない。図書室に置いてあるの。取ってくるね」

 一緒に付いて行って、他愛もない話をしながら昇降口で靴を履き替えている碧羽を尻目に、

 俺は持っていたモノを袋から取り出す。

「お待たせ、って何それ?」

「スケボー」

「何でスケボー? 学校にスケボー……」

「モノレールの駅からここまで結構距離あるから。朝とか時間がない時重宝するんだ」

「そこはちゃんと走ろうよ」

 苦笑された。コレ本当に便利なんだけどな。嵩張るのが難点だけど結構軽い方だし。その気になると自転車と大差ないスピードを出せるし

 運動部がグランドで練習しているのを見ながら、校門まではあと少し。ほんの50m。

「ねぇ、浅野くん」

「ん?」

「今度乗ってみてもいい?」

「全然いいよ。乗り方を教えてあげる」

 また今度、があるのは社交辞令でも嬉しい。いつもの道を一人、軽やかな気分で御蔵駅前へ

 と足を向けた。

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