143号室の雪男
冬が来ました。今朝なんて雪が積もっていて、窓の外一面が銀世界。建物も道も冬化粧してて、街自体が衣替えしてるみたいでした。
「白兎はテンションが上がっています」
「はああ? 何言ってんだ頭大丈夫か白兎。冬なんて何も良いことない悪いことしかない。寒いだけ寒くて冷たくて冷たい。獲物を持つ手は凍えて機動力が削がれるし、屋根の上には雪が張ってて走りにくいったらありゃしねえ。せめていいのは曇天の日が多いことぐらいかな。まあ、冬なんて仕事かよほどの用じゃねえ限り家から出ねえし天候がどうなろうとどうでも良いんだけどな。それでも、そうだな。ほら、白兎だってたまに夜の散歩したくなるときあるだろ? 衝動的に。でだ、もし冬に、昼夜それぞれ街中を歩いたことがあるのなら考えてみてくれ。白兎、昼と夜どっちが寒いと思う? 夜だぜ。俺は毎晩ナイトをウォークしてる夜の住人なんだけど、月の隠れた曇天の夜なんか特に地獄だ。ずっとそうだとな、夜も曇天ももう嫌だ、カラッとした晴れの日にサンデーマーケットとか行きたい、っていう気分に俺みたいな極悪非道でもなっちまうんだ。大好きなものを大嫌いにさせられちまいそうだ。その逆はあり得ないがな。俺が冬を大嫌いだということは永遠に不変であり続けるだろうがな」
「あはははは。アサシンは相変わらず寒いのが苦手かい」
完全に予想外だったアサシンさんの冬そのものを憎みきった返答に私が次の言葉を見失っていると、彼の背後からひょこっと黒猫さんが生えてきました。いや、まあ当然黒猫さんは床からキノコみたいに生えてくるような方じゃありませんが、ならばこっそり部屋に入ってきてアサシンさんの後ろに隠れていたことになるのですかね。そういうことを喜々として行う悪戯好きの方ではありますしね。
「こんにちわ。黒猫さん」
「やあ! こんにちわあああああっ!! 白兎ゃあああああっ!!」
アサシンさんが無言で後ろも見ずに黒猫さんの手首を座ったままで捻じり上げました。すごい怪力というか、怪力以前にテクニックがすごい……というか!
「アサシンさん! 黒猫さん痛そうです!」
「知らん。俺の背後に許可なく立ったらいけないことを、こいつは忘れているようだから。体で、思い出させる」
つまり前にもう体に覚えさせてるんですね。というか何だか今日のアサシンさん、やけに不機嫌ですけど、いくら嫌いでも雪が降ったくらいで機嫌を損なう方ではないと思うのですが……。
「ギブギブギブギブギブ! くそっ! 分かった折れよ! 折るがいいさ!」
「ちょっ、黒猫さん!?」
いや流石にアサシンさんも折るまでしないとは思いますけれど、何故黒猫さんはこの窮地に相手を挑発するようなことを言うのでしょう。分かりかねます。
顔の鼻から上半分を黒い猫を象ったマスクで隠しているから、彼の表情が出るのは口元に限定されるし……なんかうっすら笑ってる。ますます謎です。
反対に無言のままのアサシンさん、こちらは髑髏面で顔全体をすっぽりと覆っていますから、今どんな表情をしているのか、全く窺えません。
「アサシンさん、少しやりすぎで……」
いやアサシンさんは理不尽な暴力をしない方です。これははっきり言えます。アサシンさんに殴られたのなら、殴られた方に非があるはずです。黒猫さんでも例外はありません。ならばこの状況は、つまり黒猫さんがアサシンさんの堪忍袋をつつくような真似をしたということ?
でもアサシンさんは途中から、私とこの部屋で話し始めて少し経ってから様子が変になりましたから、黒猫さんにちょっかいをかけられるタイミングなんてなかったと思うんですけれど。
「ふっ、やはり寒さで動きが鈍ってるなアサシン」
腕を締め上げられているというのに、黒猫さんの態度が勝気なものに豹変しました。腕を締め上げられているというのに。
「それが僕が君の背後にばれずに近づけた理由さ! ふっ、そのためにわざわざ君が来た後にこの部屋の暖房を弱めに設定し直したんだから! 勝負ありだよ! 君が弱っている今のうちに、常日頃僕が君から受け続けた理不尽な暴力に対する怒りを込めた必殺パンチを」
「全部ばれてんだよ。馬鹿猫」
「へ?」
あ。何か今、髑髏の真っ暗な眼窩の奥でアサシンさんの瞳が細められたような。
「全く、寒がりな人間にやって良いことと悪いことの判別ぐらいつけやがれ。善とは何か。悪とは何か。生きるべきか死ぬべきか。お前はもっとそういうことを考えろ。物事を論理的に見るんだ。寒がりに寒い思いさせたらどうなる? 怒る。俺を怒らせたらどうなる? 死ぬだろ?」
「ちょっとアサシン! 本気で怒ると多弁になるのはナンセンスだ! 怖いよ! 君らしく静かに静かに! でも腕は折らないで! 暖房もちゃんとつけます! もうこんな悪戯思いついてもやりませんから許してください!」
「……腕は一本貰う。それでチャラだ」
「ふー、良かった良かった。腕一本くらいで済むなら安いわけないじゃない! えええ!? アサシンさんマジ切れっすかっ!? そんな気に食わなかった!? そんな癇に障った!? 僕の茶目っ気ゃあああああっ!!」
「ちょ、ちょっとアサシンさん!」
さすがに私もここで語気を強めました。
「もう離してあげてください! アサシンさんが怒っているのは分かりましたが、だからってそれ以上は冗談じゃ済まなくなります」
「……」
アサシンさんは無言になって、こちらをじっと見つめてきました。冷たい手で心臓を握られたように緊張します。
こ、ここ、コロサレル……。
アサシンさんが相手だというのに、私は今、かつて感じたことのない類の不安を抱いています。
しかしそんな気持ちは、黒猫さんを離してスッと立ち上がるアサシンさんを見てすぐに霧消しました。
「……すまん白兎。今日は何だか調子が悪い。もう帰る」
「え?あ、はい。そうですね。お大事に……」
アサシンさんは出口へと卓を回り、ドアを開けると、私と黒猫さんの方を振り向きもしないで後ろ手に戸を閉めました。
「……駄目じゃないですか黒猫さん。アサシンさん本気で怒ってましたよ?」
「あはははは。いやあ悪いことしたぜ」
全く反省した様子もなく笑いながら、黒猫さんは先ほどまでアサシンさんが座っていた椅子に腰を下ろしました。
「後で真面目に謝った方が良いですよ」
「そうかもねー。でも、彼は僕のつまらない悪戯に癇癪をおこすような男じゃないよ。もっと別のストレスを抱えていたんだろう」
「責任の所在をあやふやにしようとしないでください」
「いやいや、彼は人間以前にプロだから。仕事で感じたストレスをプライベートで発散するようにできてる」
「アサシンさんを人間じゃないみたいに言わないでください。というか、ストレスを発散?」
「うん。例えば、君との会話や僕への暴力が彼にとってのリラックスになるのさ。まあ、今回はいささか大きな悩み事を抱えている最中のようだったけど、いいさ。ちょうどいい。アサシンには悪いが、人払いできた」
「人払い?」
何だか意味深なことを言いますけれど、黒猫さんは何か目的があってここに来たのでしょうか。まあ、大の大人が本当にアサシンさんにちょっかい出すためだけに来たのだとしたら、さすがにちょっと引きますが。
「君に会いたがっている人物がいる」
「――私に?」
今頃になって? という疑問がわきます。確かにまだお茶会に来たばかりの頃は、よく黒猫さんのお世話になっていましたけれど、でももう私には友達が二人もいます。アサシンさんともう一人、シスターさんというティーネームの鉄兜を被った黒衣の修道女です。ずっと友達ゼロ人だった私に二人も友人ができたのです。というかこれ以上紹介されると私程度の対人スキルではキャパオーバーしてしまうので、黒猫さんの新しい紹介は断るようにしていたのですけど、向こうが会いたがっているのでは無下にすることもできませんし――。
「そんな身構えなくていいよ。少し会ってもらうだけでいいからさ」
黒猫さんが私の目の前で掌を振っているのに気づいて、私は一人の世界に没入していたことに気付きました。いけない、いけない。
「……会うのは構わないのですが、どういう方なんです? それにどうして私に会いたがっているんですか?」
特に私が知りたかったのは二つ目の質問です。何故、知人でもない人が私に会いたがるのか、不思議です。ここはお茶会ですから、私の素性を知る人が居るはずもありませんし……もし居たら、大問題です。
「彼の人格は保証する。普通に楽しい人間だよ。きっと君もすぐ仲良くなる」
そんな危惧は必要ないとばかりに軽い調子で答える黒猫さん。
「君に会いたい理由も単純さ。彼は、君も含めてこのお茶会にいるみんなと友達になろうとしているんだ」
「え? みんなって……」
「ざっと百人くらいかな」
「と、ととと友達百人っ!」
思わず叫んでしまいました。それほどに衝撃的です。
だって百人ですよ! 百人!
私なんて二人でキャパオーバーなんて言ってるんですよ!
「あはははは。白兎ったら動揺しすぎだよ。確かに高い目標ではあるが、でも普通普通。驚くに値しないよ」
「いやいやどんな次元で生きてるんですか黒猫さん! どう考えたって、超人じゃないですかその人! 私なんか恐れ多くて会えませんよ!」
「問題ない問題ない。大丈夫大丈夫」
赤子をあやすように両手を顔の横に広げて、私をなだめる黒猫さん。
「彼はとても良いやつだよ。それに、君とも気が合うはずだ」
気が合う? 何故そのようなことが分かるのでしょう。
「どうしてです?」
「だって、彼も雪が大好きだからさ」
スノーマン。黒猫さんは口元に明るい笑みを浮かべて、彼のティーネームを告げました。
スノーマンさんと会う日を三日後に決めた後、久しぶりに黒猫さんと二人だけで色々お話しして、その日はお開きになりました。
「わあお」
店の外には今朝降った雪がまだ積もっていて、家々の窓から漏れる温かい灯りに照らされた裏道は幻想的な雰囲気を醸し出していました。
「本当に雪が好きなんだね。ティーネームにちなんだキャラ付けかと思っていたよ」
振り返ると黒猫さんが腕を組んで店の戸に寄りかかっていました。
「子供の頃から好きなんです。生まれが北の方だからですかね。どちらかというと寒い方が好きで……というか、黒猫さんが店の外まで送ってくれるなんて珍しいですね」
「ん? んー、まあ、気まぐれだよ」
黒猫さんは曖昧な返事をした後、「それよりさ」と話を変えました。
「最近、何か変わったことが身の回りで起きたりしてないかい?」
「え? いえ、特に何も。どうしたんです黒猫さん。今日は何だかいつもと様子が違うというか」
私がきょとんとして聞くと、黒猫さんは声を上げて笑いました。
「いやあはっは。そうだね。僕もアサシンみたく、今日は調子が悪いみたいだ」
「?……」
何だかはぐらかされた気分ですが、まあいいや。
「じゃあ、さようなら黒猫さん」
「うん、さようなら。帰り道には気を付けるんだぞ」
私は最後に黒猫さんにお辞儀をして、雪の薄く張った石畳の上を歩き始めました。




