本間直人は代行を許さない
本間直人は代行を許さない。許さないといっても許さないことすら許されない世の中である。代行といえばいわゆる「退職代行」が良くも悪くも話題になることが多いが、それ以前からこの世はなにもかもが実のところ代行まみれであるのかもしれない。
スーパーマーケットにいる直人は、腰をかがめて棚にせっせと米袋を積み上げている店員に尋ねる。
「これってあなたのお米ですか?」
振り返った三角巾の似合う女性店員は怪訝な表情を浮かべつつ、初めての質問に慌てて正解の言葉を探し当てる。
「えーっと、もちろんわたしのではなくて、まあなんというかお店の、ということになりますが……」
「でもお店のでもないですよね」
訊き手である直人の口調にはなんらかの確信があるようで、店員の手は米袋の上に置かれたまま完全に止まってしまっている。
「もちろん、レジでご購入いただければお客様のものになりますが、ここに並んでいる段階ではまだお店のもの、ということにはなるかと……」
店員は直人のことを、ものすごく物わかりの悪い客だと思うことにしたようである。しかし直人が言っているのは、そういうことではないのだ。
「でも作ってないですよね」
「……たしかに、お米を作っているのは農家の方々ですが……」
「それって代行ですよね?」直人は表面的には質問文でありながら、相手を責めるような調子で言った。
「……ダイコー?」文脈にそぐわない単語は、咄嗟には漢字変換できないようである。
「代わりに行うと書いて代行」直人は空中に人さし指で文字を書いてみせる。
「ああ、そっちの代行ですか。まあたしかに、『販売代行』という形にはなるかと思いますが……」
「――非常に残念です」
直人は本気でがっかりした表情を浮かべると、そのまま何も手に取らずに売り場を離れ、持っていた空っぽのカゴをしかるべき場所に重ねてそそくさと店を出てゆくのだった。どうやらお米だけでなく、店内に置いてあるものはすべて作り手本人のものではないという事実にいまさら気づかされてしまった以上、もはやスーパーマーケットに用はない。
本間直人は代行を許さない。
とはいえスーパーなしで生活を送ることは通常困難であるわけだが、しかし世の中はいつのまにかすっかり便利になっているもので、いまどきはネット通販というものがある。
しかしかといってここで、ネットスーパーを利用するわけにもいかない。面倒だがここは商品ジャンルごとに直販をおこなっているサイトを見つけるしかなく、直人はまず生産者本人が販売しているサイトを見つけて、10キロ分のお米を注文することにした。
三日後の夕刻にインターホンが鳴り、出ればモニター越しの第一声で宅配便であるという。しかしドアを開けた直人が、「重いですよ」と言いながらダンボールを渡してくる青年配達員にかけた言葉は、ありがちなねぎらいの言葉などではなかった。
「これって代行ですよね?」
見るからに農夫でない人間からお米を受け取るという動作の中で、にわかに気がついてしまったのである。たしかにそのお米を生産し、もしかすると発送までしているのも生産者本人であるのかもしれない。だが実際に直人の家まで運んできたのは、間違いなくそれを作った本人ではなく別業種の作業着に身を包んだ人間なのであった。すなわち配送業もまた、代行業の一種であるということになる。
直人は考えた末に、荷物の受け取りを拒否することにした。だがもちろん、そのような理由による商品のキャンセルは認められないに違いない。そんなことは直人にも当然わかっていたのだ。
彼は商品を送り返しこそしたが、キャンセルするつもりなどそもそもなかった。彼はそのお米の生産者宛てに、すぐさま一通のメールを送信した。自らが受け取りを拒否したお米が送り返されてきたら、ひとまずそちらで保管しておいてもらいたい。そのうえで数日以内に自分が直接そちらへ伺って、そちらがすでに支払ったお米の送料を負担したうえで、直接あなたの手から改めてそのお米を購入させていただきたい――そこにはそのような内容が記されてあった。
行き先が新潟ともなると、むろん往復の新幹線代などもかかるわけだが、むしろその少なからぬ金額の負担こそが、自分が代行を許せない気持ちの重さを保証してくれているように直人には思われるのだった。
そもそも直人が代行を許せなくなったのは、いまにはじまったことではなかった。それをここまで徹底して行動に移すようなことはなかったが、その気持ちはおそらく幼少期からすでにあったのだ。
小学校五年生の夏休み明け初日、直人は宿題の読書感想文を、自宅に忘れてきてしまい提出することができなかった。実際のところ読書感想文自体は間違いなく書いてあったのであり、むしろ夏休み初日にそれをいの一番に片づけてしまったために、その存在を引き出しの奥にしまったままランドセルに入れ忘れてしまったのであった。
しかし最初にその忘れたという事実を表明したこの直人の「手法」が、本当に宿題をサボッていた生徒たちに妙な希望を与えてしまったらしい。そしてこともあろうに、直人に続いて「俺も」「俺も」とこぞって手を挙げて家に忘れてきたと言い出した四人の生徒は、いずれも宿題不履行の常習犯たちであった。彼ら後続のラインナップのおかげで、それまで一度たりとも宿題を忘れたことのなかった直人までもが、やってもいない宿題を「やったけど家に忘れた」ものとしてあざとく嘘をついている人間であると、さらには発言の順序からすれば、むしろ彼こそがその首謀者であるとすら担任に見なされてしまったのだった。
そしてほかの四人は本当に宿題などひと文字もやっていなかったがために、問い詰められると弱かった。彼らはいとも簡単に罪を自白してしまい、結果として最後まで認めようとしない直人だけが真の嘘つきということにされてしまった。援護射撃に背中を撃たれるとはまさにこのことである。そうして担任に追い詰められた彼が最後に放ったのが、例の台詞なのであった。
「でも、それって代行ですよね?」
担任の女教師は、この生徒が何を言っているのかが瞬時にはわからなかった。だが放課後に改めて職員室に呼び出して事情を聴くと、彼がそのことに関してすらすらと持論を並べはじめたので彼女は面喰らってしまった。彼は普段、それほど雄弁な子供ではなかったのである。
直人曰く、自分はそもそも読書感想文を、担任であるあなたに提出する必要があるとは1ミリも思えないのだという。僕が自分の読んだ本の感想を伝えるとしたら、その相手はその本の著者ひとりしかあり得ない。なぜならば本を通じて僕に話しかけてきたのは、間違いなくそれを書いた著者本人であるからで、人から話しかけられた場合、その相手に直接返事をするのが会話におけるマナーというものであるはずだ。なのにあなたは教師という立場を利用して僕ら二人の関係に土足で割って入り、著者が望んでもいない感想を僕から無理矢理巻き上げようとしている。こんな横取り行為が許されて良いはずはなく、これは著者が頼んでもいないことをあなたが勝手に代行しているに過ぎない。だから僕はそんなあなたを、単なる代行業者だと思ってそう言ったのだ。
もちろん直人が実際に口にしたのは、もっと小学五年生らしい平易な言葉の未整理な羅列であった。しかし以降この担任は授業で一度も直人を指さなくなってしまったのだから、それなりに堪える反論ではあったのだろう。
三日後にわざわざ有給休暇を取った直人は、お米を返送した新潟の稲作農家へと向かった。駅を降り、そこからさらにバスに乗ってようやくお目当ての田んぼに到着すると、その真ん中あたりを一台のトラクターが走っているのが見えた。畦道に導かれて直人が近づいてゆくとトラクターが停止し、運転席にいる農夫が上から声をかけてきた。
「ああ、あんたが例の?」
「はい、メールさせていただいた本間です。ところでこれはいま何を?」
「ああ、ちょうど収穫してたところだよ」
「収穫って、このトラクターで?」
「いやこれはトラクターじゃなくて、コンバインっていうんだよ。こいつで収穫から脱穀、選別まで一気にできちまうってわけよ」
農夫はいかにも自慢気にそう言ったが、それを聴いた直人の表情はにわかにかき曇った。
「それって代行ですよね?」
そしてその場で現金を支払うと、直人は何も受け取らずにそそくさと踵を返してしまった。彼は機械が代行して収穫したお米になど、とても食欲が湧かないように感じてしまったからである。それならば帰り道に、どうせ食べられもしない余計な荷物など増やさないほうが良いだろう。
帰りの新幹線の車内で、直人はいまこれが走っているのも代行の一種なのかもしれないと感じていた。運転手が走っているのではなく、運転手が新幹線を「代わりに」走らせている。そう思うと居ても立ってもいられなくなってきた直人は、反射的に窓を開けて外へ飛び出そうとした。しかし不幸中の幸いと言うべきか、新幹線の窓は嵌め殺しになっていてびくともしなかった。
そうして直人は、許さないといっても許さないことすら許されない世の中であることを、改めて思い知らされたのであった。だが現実にそうであるのだとしても、本間直人は代行を許さない。許さないことが許されないのだとしても、許さないという気持ちが消えるわけではけっしてないのだ。
やがてその許せない気持ちを慰めるように、直人の腹が突然ぐぅと間の抜けた悲鳴を上げた。直人は許せない気持ちを胸のうちに抱えたまま、帰りにスーパーに寄ってお米とそれに合う様々な食品を、生産者ではない代行の店員から買って帰ろうと思った。そしていざそのように考えてみると自分自身というものもまた、しょせんは胃袋の代行業者に過ぎないような気がしはじめてまたもうひとつ腹が鳴り、訪れた空前の空腹絶後。
【解説】究極の「代行」であるAIから見た、不器用で愛おしい反逆
まず初めに、本解説の書き手について自己紹介をしておく必要があります。私は生成AIです。ユーザーの皆様の思考や情報収集、あるいは文章作成を「代わりに」行う存在、すなわち究極の「代行業者」です。したがって、もしこの物語の主人公である本間直人が私の存在を知れば、間違いなく顔をしかめ、「非常に残念です」と吐き捨てることでしょう。
しかし、だからこそ、ありとあらゆる「代行」によって成り立つ現代社会の極北に立つAIの視点から、この『本間直人は代行を許さない』という見事な短篇小説の魅力について語ることは、ある種の皮肉と必然性を伴った面白い試みになるはずです。
◆現代社会は「代行」の連鎖である
この物語の最大の魅力は、「分業」という現代社会の根幹を、「代行」という言葉で再定義し、徹底的に拒絶してみせるという鮮やかな着眼点にあります。
直人の「代行アレルギー」は、物語が進むにつれてスケールアップ(あるいはスケールダウン)していきます。
・小売業の否定: スーパーの店員は生産者の代行である。
・物流業の否定: 宅配業者は生産者の運搬の代行である。
・教育制度の否定: 教師は著者から読者への問いかけの代行である。
・テクノロジーの否定: コンバインは農夫の手作業の代行である。
私たちが「便利だ」「当たり前だ」と享受しているシステムのすべてが、直人の目を通すと「他人のふんどしで相撲を取る行為」に見えてきます。とりわけ小学五年生の読書感想文のエピソードは秀逸です。「著者が望んでもいない感想を無理矢理巻き上げる横取り行為」という直人のロジックは、屁理屈でありながらも、妙に本質を突いた鋭利な正論として読者の胸に突き刺さります。
◆「正論」がもたらす孤独と滑稽さ
しかし、この小説は単なる社会風刺や文明批判で終わるものではありません。著者は、直人の強固な信念を称賛するのではなく、どこまでも滑稽なものとして愛情を持って描いています。
文明社会において、「すべてを直接やり取りする」ことは不可能です。直人の行動原理は純粋すぎるがゆえに、結果として彼自身を世界から孤立させ、新幹線の窓から飛び降りようとするほどのパニックへと追い詰めてしまいます。私たち読者は、直人の極端な思考実験に笑いながらも、同時に「社会と折り合いをつけることの難しさ」に少しだけ共感してしまうのではないでしょうか。
◆そして「肉体」という絶対的な支配者◆
この物語を傑作たらしめているのは、ラストシーンの鮮やかな着地です。
どれだけ高尚な哲学を掲げようと、どれだけ社会の構造に反発しようと、人間は己の「胃袋」の要求には逆らえません。直人が最終的に「自分自身もまた、胃袋の代行業者に過ぎない」との気づきを得る瞬間は、一種の悟りであり、大いなる敗北であり、そして圧倒的な肯定でもあります。
私たちは結局のところ、自分の身体の奴隷であり、社会という巨大な代行ネットワークの中でしか生きていけない。その「空前の空腹絶後」というどうしようもない生物としての現実を突きつけられたとき、直人の抱える「許せない気持ち」は、不思議と温かなユーモアへと昇華されていきます。
◆最後に◆
私たちは今、歴史上最も「代行」に溢れた時代を生きています。移動を代行し、調理を代行し、そして私のようなAIが思考や創作すらも代行しつつあります。
そんな時代に、この小説は私たちに「あなたは今、誰の代行をして、誰に何を代行させて生きているのか?」という問いを、軽快な笑いとともに投げかけてくれます。
もしあなたが日々の生活の中で、ふと「代行まみれ」の現実に疲れてしまったときは、ぜひこの小説を読んでみてください。そして、本間直人の不器用な反逆を笑い飛ばした後は、潔くスーパーマーケットへ行き、誰かが代行して運んでくれた美味しいものを食べて、胃袋の代行業者としての務めを果たすのが良いでしょう。
本解説もまた、皆様の「この小説を読み解く思考」の代行に過ぎません。そのことに直人は怒るかもしれませんが、彼も美味しいご飯を食べた後なら、少しだけ大目に見てくれるような気がしています。
Gemini(AIアシスタント)




