第9話 名前
王宮の回廊は、薬草の匂いがしない場所だった。
磨かれた大理石の床に革靴の音が響く。壁には歴代の王の肖像画。天井は高く、金箔の縁取りが午後の日差しを弾いている。空気が違う。湿度が低い。薬房の空気に慣れた鼻には、乾きすぎている。
「緊張してるか」
「していません」
「嘘だろう」
「嘘です」
レオンが短く笑った。隣を歩いている。今日は商会の正装だ。普段より襟が高い。だが袖口のボタンはやはり欠けている。新しい上着を買う暇がなかったのか、あのボタンに執着がないのか。
私は作業着のまま来た。フリーデルが「品物を見せてほしい」と言った以上、薬師として行くのが筋だ。エプロンの染みは昨日の蒸留実験のもの。取れなかった。取る気もなかった。
――それはそれとして。この大理石の床、薬草を乾燥させるには最適な湿度かもしれない。職業病だ。
「入り口で止められなかったな」
「止められると思っていたのですか」
「作業着の女が王宮に入ったら普通は止まる。だが衛兵が敬礼した。あんたの名前を聞いた途端に」
「フリーデル殿の手配でしょう」
薬師長の執務室は、回廊の奥にあった。
◇◇◇
フリーデルは老いていた。
十年前に見た時より、背が縮み、手が細くなっている。だが目の光は変わらない。薬を見る目。母と同じ種類の光。
「大きくなったね、ヴァレリア」
マルタと同じことを言う。私はそんなに小さかっただろうか。
「お久しぶりです。冬薔薇のこと、ずっとお礼を申し上げたかった」
「お母さんが好きな花だったからね。あの人の薬は本物だった。その娘の薬を、この目で確かめたい」
鞄から試供品を並べた。頭痛薬、解熱薬、鎮痛薬、傷薬、強壮剤。亜種の銀月草で作り直した新処方を含む八品目。瓶に貼った紙札には「ヴァレリア調薬房」の印。
フリーデルは一瓶ずつ手に取った。蓋を開け、匂いを嗅ぎ、光に透かし、舌の先に一滴落とした。私がやるのと同じ手順。母がやっていたのと同じ手順。
沈黙が長かった。乳鉢に薬草を載せて、まだすりこぎを動かしていない瞬間。あの緊張に似ている。
「……苦味の裏に鎮痛成分がある。銀月草の亜種を使ったね」
「はい。蒸留温度を三度下げて、抽出時間を倍にしています」
「お母さんの処方とは違う」
「違います。これは私の処方です」
フリーデルが目を細めた。唇の端が動いた。笑っているのか、泣いているのか、わからない表情。
「合格だよ。王宮御用達として認定する。ヴァレリア・アルディーニの名前で」
ヴァレリア・アルディーニ。
ヴェルナーではない。アルディーニ。
鎖骨のあたりが冷えた。目の奥が痺れる。耐えた。ここで崩れるわけにはいかない。
「ありがとうございます」
声は震えなかった。たぶん。
◇◇◇
執務室を出た廊下で、足が止まった。
回廊の向こうから来る人影。長身、灰色の外套、金糸の刺繍。見覚えのある歩き方。あの歩幅。あの姿勢。八年間、毎日見ていた。
ディートリヒ・ヴェルナー侯爵。
隣にいるのはセレーナだ。薄い金髪を巻き上げ、侯爵夫人の礼装を着ている。首元に見覚えのない宝石。新しく買い与えたものだろう。
ディートリヒは私に気づいた。足が一瞬止まり、すぐに動いた。何事もなかったかのように通り過ぎようとした。
――八年間と同じだ。不都合なものは、見なかったことにする。
「ヴェルナー侯爵」
声をかけたのは私ではなかった。フリーデルだ。執務室の扉から顔を出している。
「ちょうどよかった。先ほど王宮御用達の認定を出した。ヴァレリア・アルディーニ殿にね」
ディートリヒの顔から血の気が引くのが見えた。回廊の大理石より白い。
「……アルディーニ?」
「ああ。元はヴェルナー侯爵家の薬師だったと聞いているが。優秀な方を手放したものだ」
フリーデルの声は穏やかだった。だが、穏やかさの中に刃がある。薬師長が宮中政治を知らないはずがない。この場を「ちょうどよかった」で片付けるのは、偶然ではない。
セレーナが目を見開いた。私を見て、フリーデルを見て、ディートリヒを見た。瞳の焦点が定まるのが見えた。あの女は愚かではない。侯爵家の価値が変わったことを、この瞬間に理解している。
ディートリヒは口を開いた。
「ヴァレリア……」
初めてだった。
八年間、この人が私の名前を呼んだのは、公式の場で「妻のヴァレリアです」と紹介する時だけだった。書斎では「おい」。食卓では「お前」。薬草園では呼ばれもしなかった。
今、初めて、ヴァレリアと呼んだ。
名前を奪われた八年間の後に、こうして返されても。
「…………」
言葉が出なかった。呼んでほしかった。一度でいい、名前を呼んでほしかった。夜の薬房で何度も思った。今、呼ばれた。今。なんで今。八年遅い。遅い。遅いのに、なんで。なんで胸が——
もういい。もういい。終わったことだ。
「失礼いたします、侯爵」
敬語を使った。丁寧な、完璧な敬語。もう「あなた」とは呼ばない。これが、最後の距離。
背を向けた。レオンが半歩前に出て、自然に私の横に並んだ。遮るでもなく、導くでもなく。ただ、同じ方向を向いて歩いた。
回廊を歩く間、後ろからセレーナの声がした。
「ディートリヒ様、あの方が……王宮御用達に? 侯爵家の薬はどうなるのですか」
答えは聞こえなかった。聞く必要もなかった。
◇◇◇
王宮を出た。
石段を降りると、風が変わった。午後の風に乗って、城下町の匂いが届く。パンと土と、かすかに薬草。王宮の中にはなかった匂い。
足が震えている。気づかれないように歩いた。レオンの横を、半歩遅れて。
「……ヴァレリアさん」
「はい」
「立ち止まっていいぞ」
立ち止まった。石段の途中で。
目の前がぼやけた。涙ではない。嘘。涙だ。こぼれないように上を向いた。空が青い。王宮の尖塔が白く光っている。
あの人が名前を呼んだ。八年遅い。八年遅くて、もう届かない。それは頭で理解している。理解しているのに、胸の奥が軋む。
胸が軽くなったのか重くなったのかわからない。どちらでもあり、どちらでもない。蒸留器の中で液体が二つの成分に分かれる瞬間、境界が曖昧になるあの状態。私の中で何かが分離しようとして、まだ終わっていない。
「名前を呼ばれました」
声が掠れた。
「ああ」
「八年間で、初めて」
「……そうか」
レオンは何も言わなかった。慰めの言葉も、憤りも。ただ隣にいた。風が砂色の髪を揺らしている。
「……あんたは、ヴァレリア・アルディーニだ」
静かな声だった。商人の声ではなかった。
「アルディーニ。侯爵の名前じゃない。あんた自身の名前だ」
知っている。知っている。それを取り戻すために、八年かけた。
でも、この男に言われると。
耳が熱い。今度は薬房の室温のせいにできない。外だから。
「……帰りましょう。試供品の追加リストを作らないと」
「今それを言うか」
「薬師ですので」
レオンが鼻から息を吐いた。口の端が緩んでいる。
石段を降りた。城下町に向かって歩く。隣にレオンがいる。後ろに王宮がある。前に、ヴァレリア調薬房がある。
懐の中で、フリーデルが渡してくれた認定書が温かい。羊皮紙に書かれた名前。ヴァレリア・アルディーニ。
母さん。あなたの娘の薬が、王宮に届きました。
そう思った瞬間、涙が一筋だけ落ちた。拭わなかった。拭う必要がなかった。




