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離縁届に夫が署名した瞬間、私はワインを開けた  作者: 九葉(くずは)


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第8話 商売じゃない

 亜種の銀月草は、三週間で根付いた。


 薬房の裏手に作った小さな苗床。ミュールハイムの土と王都の土を混ぜ、マルタに教わった配合で肥料を撒いた。朝夕の水やりは欠かさない。葉の色が日ごとに濃くなっている。根が王都の土壌を受け入れた証拠だ。


 新しいレシピの実験が始まった。亜種は銀月草より苦味成分が多い。そのまま使えば薬の味が変わる。だが苦味の裏に、銀月草にはない鎮痛成分がある。蒸留の温度を三度下げ、抽出時間を倍にする。試作品は七回失敗して、八回目でようやく形になった。


 出来上がった頭痛薬を、窓からの朝日に透かした。色は元の銀月草版より少し青みが強い。匂いを嗅いだ。薬草の匂いの奥に、山の空気の名残。ミュールハイムの崖で吹いた風の記憶。


 舌の先に一滴落とした。苦い。だが苦味の後に、じんわりと温かい薬効が広がる。これなら効く。


「よし」


 小さく声が出た。八回目の「よし」は、一回目より確かな響きがある。侯爵家の薬草園で作っていた薬とは、レシピが違う。あの頃の私が知らなかった成分を使い、あの頃の私には思いつかなかった温度で蒸留した。


 同じ薬師だが、同じ薬ではない。そのことが、少しだけ誇らしい。



◇◇◇



 路地裏の評判が、少しずつ変わり始めていた。仕立屋の主人が「新しい頭痛薬、前のより効く」と言いに来た。鍛冶屋の親方が弟子の分の薬代をまとめて払いに来た。あの代金不足の徒弟は、今では一人前に銅貨を並べて買いに来る。


 元泥棒は、もう泥棒ではない。毎朝の掃除が習慣になり、ついでに薬房の雑用を手伝うようになった。名前はトーマスと言うらしい。不器用だが手は正確で、瓶の配置を一度で覚えた。手の火傷は完治し、南区の石工見習いに就いた。それでも朝だけは掃除に来る。律儀な男だ。


 レオンが帳簿を抱えてやって来た。月例の報告だ。


「三件の取引先が、正式にヴァレリア調薬房との契約に切り替わった。侯爵家からの異議申し立ては退けられている。理由は調合者指定条項の不備」


「不備、というのは」


「侯爵家側が名義変更の際にあんたの署名を取っていなかった。法的には無効だ。あんたが最初から仕込んでいた通りに」


 レオンの目が鋭い。帳簿の数字や商品の価値を見定める時の目ではない。私という人間を見る目。初めて薬房に来た時から、この男は薬ではなく私を見ていた。――いえ、それは考えすぎだ。


「……あんたは、八年前からここに辿り着くことを見越していたのか」


「全部ではありません。ただ、道が一つしかないなら、その道を舗装しておくだけの話です」


 レオンが首を振った。


「道を舗装しておく、ね。俺なら……いや、そうじゃなくて」


 言いかけて止まった。首の後ろに手をやる。目が泳ぐ。この仕草は何度か見た。言いたいことがある時。商売の言葉では言えない何かがある時。


「レオンさん。何か」


「商売の話なんだが」


「はい」


「……いや。商売の話じゃない」


 初めてだった。「商売の話なんだが」の後に「商売の話じゃない」と否定したのは。


 レオンは腕を組んでいた手を解いた。息を吸った。商人が大きな賭けに出る前の呼吸に似ている。


「王宮の薬師長から打診が来ている。ヴァレリア・アルディーニの調合品を王宮御用達に認定したい、と」


「……王宮御用達?」


「薬師長のフリーデルという人物だ。あんたの実家の名前を知っていた。『アルディーニ家の薬師が独立したと聞いた。品物を見せてほしい』と」


 フリーデル。知っている。母の代からの知り合いだ。母が亡くなった時、葬儀に花を送ってくれた。白い冬薔薇の花束。母が好きだった花を覚えていてくれた人。アルディーニ子爵家の薬の質を、宮中で唯一認めてくれていた。


「それで、商売じゃない話というのは」


 レオンが視線を逸らした。窓の外を見ている。夕日が差し込んで、砂色の髪が琥珀に染まっている。袖口のボタンが欠けたままだ。初めて会った時から、ずっと。あのボタンを直す暇もなく走り回っているこの男が、私のために馬を飛ばしてミュールハイムまで行った。


「王宮に出るなら、俺が同行する。商会の代表として……いや、そうじゃなくて」


 また言い直した。


「あんたの薬が認められるのを、見届けたい。商売としてじゃなく、個人として。……あんた個人のために、俺はここにいる。そういうことだ」


 薬草の苦味が甘みに変わる瞬間がある。舌の上で、成分が反転する一瞬。今がそれに似ている。


 耳が熱い。首筋まで熱い。


 手元の小さな薬瓶が滑りかけた。慌てて両手で押さえた。割れなかった。危ない。こういう時に物を落とす癖は、いい加減直すべきだ。


「……ありがとう、ございます」


 途中で息が途切れた。不格好な礼だ。「助けて」も「一緒にいてほしい」も、八年間使わなかった言葉は錆びついて喉から出てこない。


 でも「ありがとう」は出た。錆びていたけれど、出た。それだけで十分だと思いたい。


 レオンは口の端を緩めた。怒っていない。呆れてもいない。ただ、待っている顔だった。私が言葉を見つけるまで、何年でも待つような。


「ありがとう、か。まあ、それでいい。今は」


 帰り際、レオンが扉の前で足を止めた。


「フリーデルへの返答はいつまでだ」


「三日以内にと」


「……商売の話なんだが」


「はい」


「いや、今度は本当に商売の話だ。王宮に出す試供品のリスト、明日までに作れるか」


「作れます」


「じゃあ明日来る」


 扉が閉まった。


 薬房に一人。夕日が棚の薬瓶を琥珀色に染めている。開店初日の夕暮れを思い出す。あの日も同じ光だった。


 いえ。同じではない。あの時は一人だった。今は、明日来ると約束した人がいる。


 首の後ろがまだ熱い。薬房の換気が悪いせいだ。断じてそれ以外の理由ではない。


 調合台に向かった。試供品のリストを書く。手は震えていない。ペンを持つ指先に力が入る。王宮御用達。母が生きていたら何と言っただろう。喜んでくれただろうか。いや、母ならきっと「当然でしょう」と微笑むだけだ。アルディーニ家の薬は、宮中に置かれるべきものだと。


 ただ、少しだけ早口で、誰もいない薬房で独り言を言った。


「粘度と浸透速度の比率は……えっと、三対……いえ、四対一のほうが……」


 レオンがいないのに、まだ止まらない。

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