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離縁届に夫が署名した瞬間、私はワインを開けた  作者: 九葉(くずは)


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第6話 痛いと言えよ

 雨が三日続いた。


 路地裏の水はけが悪く、薬房の入口に水たまりができている。朝一番に板を渡して橋を作った。客が靴を濡らさないように。


 銀月草の在庫はあと二束。昨日、頭痛薬を求めて来た老婦人に一瓶渡した。残り五瓶。五瓶で終わり。


 レオンは辺境の薬草農家を当たると言い残して、四日前に発った。ミュールハイムという集落に、野生の銀月草に近い品種があるらしい。だがまだ戻らない。


 やれることがない。八年間、常に手を動かしてきた。計画を立て、薬を作り、庭を耕し、帳簿をつけた。


 あの八年間は「耐えていた」のではなく「準備していた」のだ。今は違う。今は、ただ止まっている。何もせずに。それが一番堪える。


 雨の音を聞きながら、調合台を拭いた。もう三度目だ。拭く場所がない。棚の瓶も並べ直した。左から効能順に、右から製造日順に。どちらが使いやすいか迷って、結局元に戻した。窓の結露を指で拭う。外は灰色の空。路地を走る人影が一つ、水たまりを跳ねて消えた。


 手を動かしていないと、考えてしまう。



◇◇◇



 四日目の午後、レオンが来た。上着の肩が濡れ、靴が泥だらけだった。


「ミュールハイムに行ってきた」


「……直接ですか」


「手紙より早いだろう。馬で片道二日だ」


 馬で二日。往復四日。あの報告から四日。つまり、聞いた翌朝には発っていたことになる。


「見つかったのか聞かないのか」


「見つかったのですか」


「半分な」


 レオンは鞄から布に包んだ薬草を取り出した。泥がついている。根から掘り出したらしい。乱暴な扱いだが、茎は折れていない。それなりに慎重に掘ったのだろう。


 手に取った。葉の形、茎の太さ、根の広がり方。銀月草に似ているが、葉の縁がわずかに鋸歯状になっている。匂いを嗅いだ。青い匂いの奥に、少しだけ苦い香り。銀月草とは違う。だが、近い。指で葉の表面を撫でた。細かな産毛がある。高地の品種だ。霜に耐えるために進化した形質。


「これは……銀月草の亜種です。野生の変異株。効能は落ちますが、調合で補正できる可能性がある」


「それは、使えるということか」


「試してみないとわかりません。ただ」


 手が止まった。根の部分に、丁寧に湿った布が巻いてある。乾燥を防ぐための処置。素人にしては正確だ。


「……誰に教わったのですか。この根の保護。素人の扱いではありません」


「ミュールハイムの婆さんに聞いた。マルタという農家だ。最初は門前払いされかけたが、あんたの名前を出したら、急に態度が変わった。囲炉裏端に座らされて、茶を三杯飲まされた。『あの子の頼みなら何でも聞く』と」


 マルタ。


 その名前を聞いた瞬間、肩甲骨の間がひやりとした。指先が冷える。でも動けない。


 十年前、マルタの畑が病害で全滅した時、母が無償で薬を送った。母の死後、私がその関係を引き継いだ。年に二度、季節の薬と手紙を送っていた。侯爵家の帳簿には載せなかった。ディートリヒに知られれば「無駄な出費」と言われただろう。私個人の、帳簿の外の、小さな約束。


 あの人がまだ私の名前を覚えていてくれた。


「マルタさんがそう言ったのですか」


「ああ。種苗も分けてくれるそうだ。条件がある」


「条件」


「あんたが直接会いに来ること。『あの子の顔を見たい。元気かどうか、この目で確かめたい』と」


 唇が震えた。奥歯を噛んだ。声が出ない。


 薬草を持つ手が揺れている。調薬の手が狂うのは、動揺している証拠。わかっている。わかっているのに止められない。


「……ヴァレリアさん」


「大丈夫です」


「大丈夫じゃないだろう」


 レオンの声が低かった。怒っているのではない。ただ、静かだった。


「いつもそうだ。あんたは全部一人で抱えて、『大丈夫です』って言う。薬草園が荒れても、種苗が止まっても、金が尽きかけても。誰にも助けを求めない。八年間そうしてきたんだろう」


「……それが何か」


「痛い時は痛いって言えよ」


 息が詰まった。


 その言葉は、八年間、誰にも言われなかった言葉だ。


 ディートリヒは聞かなかった。あの人にとって、私は常に「大丈夫な妻」だった。大丈夫でなければ困るのだから、聞くはずがない。ハインツは聞けなかった。使用人が主人の痛みを問うことは、この世界の礼儀が許さない。


 誰一人、「痛い」と言う許可をくれた人間はいない。


 許しを求めていたのは私の方だ。誰かに言ってもらわなければ、痛いと認められない。八年間ずっと。ずっと。ずっと、何を。何を我慢して。いや違う、我慢じゃない、あれは計画で、計画通りで、計画通りなら痛くないはずで——


 目頭が熱い。泣いてはいけない。計画通りに生きてきた女が、商人の一言で。


「…………痛い、です」


 声が掠れた。ほとんど聞こえなかったと思う。唇が乾いている。喉の奥が詰まって、それ以上は出なかった。


 レオンは何も言わなかった。立ったまま、黙っていた。手を伸ばすでもなく、慰めるでもなく。ただ、そこにいた。腕を組む力が緩んでいるのが、視界の端に見えた。


 沈黙が流れた。雨音だけが薬房を満たしている。長い雨の後、水たまりの表面が静まる前の、あの時間に似ていた。



◇◇◇



 雨が止んだ。


 窓を開けると、濡れた石畳の匂いがした。泥と苔と、遠くから流れてくるパンの匂い。世界が洗われた後の、澄んだ空気。


 レオンはもう帰った。帰り際に「ミュールハイムへは俺が同行する。道がわかるから」と言った。商売の口実だろう。道がわかるなら地図を描けばいい。それを指摘しなかった自分に少し驚いている。


 断らなかった。断れなかった、のかもしれない。どちらでもいい。


 調合台に置かれた野生の銀月草を見つめた。泥のついた根。湿った布。この草がうまくいくかはわからない。調合の補正に何度も実験が必要だ。時間がかかる。


 でも、手がある。やることがある。待っているだけの時間は終わった。


 乳鉢を取り出した。野生の銀月草の葉を一枚、慎重に載せる。すりこぎを握った。一定の回転、均等な力。


 手が覚えている。指先が覚えている。薬草の繊維が潰れる感触、成分が溶け出す瞬間の微かな温度変化。八年間で身についたものは、計画書には書けない。


 薬草茶を淹れた。今日はカモミール。


 もう辛くない。あの日ハインツに出した時とは、違う味がする。同じ茶葉なのに。淹れる手が変わったのだろうか。

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