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離縁届に夫が署名した瞬間、私はワインを開けた  作者: 九葉(くずは)


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第5話 計画の綻び

 銀月草が手に入らない。


 帳簿を開いて、三度目の確認をした。仕入れ先のリストに並ぶ名前は五件。そのすべてに「取引停止」の赤い印がついている。


 レオンが昨夜持ってきた報告を読み返す。走り書きの文字の端が跳ねている。急いで書いたのだろう。インクが滲んでいる箇所がある。乾く前に折ったのだ。


 「銀月草の種苗供給元はすべてヴェルナー侯爵領の管轄。領主の認可なしに種苗の域外流通は不可」


 知っていた。知っていたはずだ。侯爵家の薬草園を管理していた八年間、銀月草の種苗がどこから来るか、把握していないはずがない。


 ――いえ、正確に言えば。知っていたのに、見落としていた。私が計画書を作った時、銀月草の供給は「確保済み」に分類していた。自分で育てた苗があったからだ。侯爵家の薬草園に。


 今はもう、あの庭は私のものではない。


 指先が冷えている。乳鉢を持つ手に力が入らない。



◇◇◇



 レオンが来たのは昼過ぎだった。


「状況を確認した。五件の取引先、全部同じ理由で止まっている。侯爵領の種苗管理令。これは法律だ、交渉でどうにかなる話じゃない」


「わかっています」


「わかってるなら、なんでそんなに落ち着いてるんだ」


「落ち着いているように見えますか」


 レオンが私の手を見た。乳鉢を握ったまま動かない手を。指先が白くなるほど力を込めていることに、指摘されるまで気づかなかった。


「……銀月草なしで、あんたの薬のどれが作れなくなる」


「頭痛薬、強壮剤、高級解熱薬。売上の六割です」


「数字で言うと、月の収支がどれだけ傾く」


「赤字になります。二月で資金が尽きます」


 レオンの顎の筋肉が動いた。数字は嘘をつかない。父の商会が傾いた時もそうだったのだろう。この男は数字が人を殺す重さを持つことを、身をもって知っている。


「代替の仕入れルートは」


「ありません。銀月草は侯爵領の固有種です。他の領地では気候が合わない」


「似た効能の薬草は」


「ありますが、品質が二段階落ちます。うちの薬として出せる水準ではない」


 沈黙が落ちた。


 調合台の上に置いた銀月草の残りの在庫に目が行く。あと三束。これで作れるのは頭痛薬六瓶分。六瓶売ったら、次はない。


「……あんた、このまま潰れる気か」


「潰れる気はありません。ただ、今は手がない」


 正直に言った。取り繕う気力もない。


 八年かけて計画した独立の、最大の盲点。侯爵家の資源に依存していた部分を、私は過小評価していた。薬草園を出れば自由だと思った。自由だったが、原材料は自由についてこなかった。種苗の権利は土地に属する。土地を捨てた私には、種を蒔く権利すらなかった。


 レオンが帳簿を閉じた。


「一つ聞いていいか。……いや、商売の話じゃなくて」


「どうぞ」


「あんたは、あの侯爵に頭を下げる気はないんだな」


 窓の外を見た。路地裏に西日が差し込んでいる。石畳の隙間から雑草が伸びている。名前も知らない、小さな草。侯爵家の庭では抜かれるだけの雑草。


「頭を下げれば種苗は手に入るかもしれません。でも、それは『ヴェルナー侯爵家の薬師』に戻るということです」


「……ああ」


「看板に書いてあるのは『ヴァレリア調薬房』です。侯爵の名前ではありません」


 レオンが黙った。何秒か。それから鼻から長く息を吐いた。


「じゃあ、別の道を探すしかないな」


「あてがあるのですか」


「ない。だが、商人は在庫がなくなったら仕入れ先を変えるのが仕事だ。産地を変える。品種を変える。ルートを変える。なんでもいい」


「品種を変えても銀月草の代わりにはなりません。薬草には薬草の理屈がある」


「そうだろうな。だから俺は仕入れの話をする。あんたは薬の話をしろ。分業だ」


 理屈が合っている。商人の理屈で言えば、正しい。だが薬師の理屈は違う。銀月草の代替になる薬草など、簡単には見つからない。調合は足し算ではない。材料の相性、魔力の浸透率、季節による成分の変動。一つ変えれば全体が崩れる。


 ――それでも。


 この男は「潰れる」と決めつけなかった。「頭を下げろ」とも言わなかった。ただ「別の道を探す」と言った。


 ディートリヒなら何と言っただろう。おそらく何も言わない。あの人は、困った時に黙る人だ。黙って、誰かが解決するのを待つ。八年間ずっとそうだった。


 レオンは違う。黙らない。代わりに動く。商人とはそういうものなのか、この男だけがそうなのかは、まだわからない。


 その一言が、今の私には少し眩しかった。



◇◇◇



 夜。薬房の灯りを落とした。蝋燭を一本だけ残す。


 調合台に頬をつけた。オーク材の冷たさが気持ちいい。木目の匂い。蜜蝋の匂い。薬草の匂い。この三つが混ざった匂いが、今はもう「自分の店の匂い」になっている。


 計画書を広げた。初年度に立てた、八年計画の最終版。全項目に済みの印。最後の「門を出る」にも。


 だがその先、「薬房を軌道に乗せる」の欄には、まだ印がない。


 一度くらい「行かないでくれ」と言ってほしかった。


 ふいに浮かんだ言葉に、自分で驚いた。誰に向けた言葉だ。ディートリヒにか。ハインツにか。あるいは八年前の自分にか。嫁ぐ日の朝、父に「大丈夫」と笑って見せた自分。あの時すでに、大丈夫ではなかったのかもしれない。


 ――いえ。もういい。終わったことだ。


 計画が崩れた。八年間、一度も崩れなかった計画が。蒸留器の温度を間違えた時のように、大事な成分が蒸発していく感覚。


 だが、崩れたのは計画であって、私ではない。


 銀月草の束を手に取った。残り三束。茎を指で撫でると、青い匂いが立ち上る。この匂いは母の薬草園の匂いだ。幼い頃、母の隣で銀月草を摘んだ朝の空気がそのまま閉じ込められている。「根から抜いてはいけないよ。葉だけを摘みなさい。根が残れば、また生える」。母の声は穏やかだった。


 根さえあれば。


 母はもう一つ、口癖のように繰り返していた。「薬草は、痩せた土地でこそ強くなる」。


 母の言葉が正しいなら、今の私は強くなれるのだろうか。根は、まだ残っているだろうか。


 わからない。


 わからないが、明日も店は開ける。残った薬草で作れるものを作る。銀月草がなくても、傷薬と虫除けと睡眠薬は調合できる。完璧ではなくても、できることはある。


 薬草茶の葉を量る手は、震えていなかった。

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