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離縁届に夫が署名した瞬間、私はワインを開けた  作者: 九葉(くずは)


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第4話 営業時間内にどうぞ

 朝一番の薬草茶を淹れたところで、扉が開いた。


 ハインツだった。


 白髪を丁寧に撫でつけ、燕尾服のボタンを一つも緩めていない。六十を過ぎても背筋が真っ直ぐなのは、四十年仕えた家令の矜持だろう。ただし目の下に隈がある。侯爵家の家令が早朝からここにいるということは、つまり。


「奥様。どうかお戻りいただけないでしょうか」


 奥様、と呼ばれた。離縁して一月以上経つのに。この人の中で、私はまだあの家の人間なのだ。


「ハインツさん。私はもう侯爵家の人間ではありません」


「存じております。ですが――」


「薬草茶はいかがですか。朝摘みのカモミールです」


 ハインツは一瞬目を見開いた。それから長年の習慣で、諦めたように椅子に座った。茶を出す。湯気の向こうで、老家令の肩が小さく見えた。


 ハインツの手を見た。皺の深い、骨張った手。この手が侯爵家の扉を開き続けて四十年。爪は短く切り揃えてある。几帳面な人だ。昔からそうだった。


「薬草園の件でしょう」


「はい。銀月草の苗がほぼ全滅しました。管理表はあるのですが、読める者がおりません」


「管理表の八ページ目に注釈を入れておきましたが」


「あの管理表は奥様……ヴァレリア様の字でないと読めないのです。新しい薬師を雇いましたが、表を見て『暗号ですか』と」


 思わず口元が緩みかけた。あの管理表、確かに字が汚い。調薬しながら走り書きで追記していたから、自分でも解読に苦労する箇所がある。


 笑い事ではない。銀月草の全滅は深刻だ。あの苗は実家から持ち込んだ品種で、気候に合わせた接ぎ木に三年かかった。


 だが、それは私の問題ではない。


「ハインツさん。ひとつ確認してもよろしいですか?」


 家令の背が伸びた。この前置きが何を意味するか、八年の付き合いで知っているのだろう。


「薬草園の管理は、侯爵家の業務です。管理責任者は誰ですか」


「現在は……空席です」


「私の在職中、管理計画書の引き継ぎを申し出たことがありますか」


「……一度、奥様が提案されました」


「その提案を却下したのは誰ですか」


 ハインツは答えなかった。答えなくてよい。私が聞きたかったのは事実の確認であって、この人を責めたいわけではない。


「管理表は書斎の三段目の引き出しに。注釈付きです。もし読めない箇所があれば、書面でお送りください。回答は営業時間内に行います」


 ハインツの唇が震えた。


「営業時間内、というのは」


「日の出から六刻目まで。書面の受付は翌営業日に」


 冷たいことを言っている自覚はある。だがハインツに罪はない。この人は侯爵家の家令として、命じられた通りに動いているだけだ。


 だが。


「ハインツさん。あの薬草園を八年間守ったのは、私です。その八年間の報酬は、離縁届一枚でした」


 声が低く、平坦になった。丁寧語は保っている。保っているうちはまだ大丈夫だ。


「お気持ちはわかります」


「いいえ。おわかりにはなりません」


 ハインツが目を伏せた。薬草茶の湯気が、二人の間をゆるく漂っている。カモミールの甘い匂い。この匂いを嗅ぐと、冬の夜に使用人の控え室で茶を配った記憶が蘇る。ハインツはいつも最後に受け取り、「美味しゅうございます」と小さく言った。


 あの冬の夜。エリザが風邪を引いた時、私が調合した喉の薬を、ハインツが代わりに届けてくれた。「奥様のお薬は効きますから」と。あの言葉を、私はまだ覚えている。


「……薬草茶、美味しゅうございます」


 今日も、同じ言葉。声が掠れていた。


「ありがとうございます」


 それ以上は言えなかった。奥歯の裏側が痺れている。舌が上顎に張り付いて、次の言葉が出てこない。


 ハインツは茶を飲み干し、立ち上がり、深く頭を下げた。


「失礼いたしました」


 扉が閉まった。



◇◇◇



 午後、レオンが来た。扉を開けるなり、薬房の空気を嗅いだように一瞬止まった。


「……カモミールか」


「朝の客人の分が残っていたので」


「客人?」


「営業時間内に来てくださる方は皆、客人です」


 レオンは首を傾げたが追及しなかった。調合台の端に帳簿を置き、立ったまま報告を始めた。


「南方経由の仕入れルートが確定した。ローズマリーの乾燥葉、来週には届く。天日干し三日以上の指定通りだ。品質は俺が現物で確認する。それと――」


 言いかけて、止まった。目が棚に向いている。


「新しい薬瓶が増えたな。この傷薬、前のと処方が違うだろう」


「よく気づきましたね」


 つい口が滑った。褒めたつもりはなかった。ただ、薬瓶の外見だけで処方の違いに気づく人間は、この商人くらいだ。目利きというのは本当らしい。


「改良しました。粘度を上げて、傷口に留まりやすくしたんです。従来品は流れやすくて包帯が必要でしたが、これなら塗るだけで――」


「……また始まった」


「え?」


「いや。……悪くない。続けてくれ」


 片方の口角だけ上がっている。面白がっている顔だ。調薬の話になると止まらなくなる癖を、この男はもう知っている。


「今の処方の話、商品説明に使いたいんだが。書き起こしていいか」


「ど、どうぞ。ただし正確に書いてください。粘度と浸透速度の関係は――」


 また止まらなくなりそうになって、口をつぐんだ。こめかみが脈打っている。髪で隠す。


 レオンがまた笑った。声は出さず、目だけで。


 この男の前でだけ、調子が狂う。薬の話を始めると止まらない。声が大きくなる。耳が熱くなる。それが何を意味するのかは、考えないことにした。調薬で忙しい。考えている暇はない。



◇◇◇



 夕暮れ。閉店の準備をしていると、窓の外をハインツの馬車が通り過ぎるのが見えた。王都の大通りを侯爵邸へ戻る馬車。車輪の音が石畳に響いて、やがて消えた。


 棚を拭く。薬瓶を一つずつ確認する。頭痛薬が残り二本、傷薬が三本。在庫は確実に減っている。売れているのだ。ヴァレリア・アルディーニの名前で。


 ――あの人は元気だろうか。


 ふいに浮かんだ考えを、振り払った。あの人とは、誰のことだ。ハインツのことだ。ハインツのことに決まっている。


 蒸留器の蓋を閉めて、火を落とした。銅の表面がまだ温かい。明日の分の薬草茶を量る。カモミールではなく、ミントにしよう。カモミールの匂いは今日、少し辛い。


 まあ、いいでしょう。明日も営業時間は、日の出からだ。

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