死神の問い
人はなぜ、死んではだめなのだろう。世界はこんなにも苦しいものなのに。
校舎の屋上のフェンスをよじ登り、向こう側に降りた。もう僕の死を遮るものは何もない。あと一歩踏み出すだけで、ようやく終われる。
「よし」
覚悟を決めた。そのとき。
「ちょっとタンマ」
うしろから声がした。振り向くと、塔屋の上から男が顔を出していた。同じ学級じゃない。知らない男だった。
「いま死なれると俺がとても困る」
まだ授業中なのに、こんなところにいるなんてとんだ不良だ。いや。だからこそ、ここで隠れてサボっていたのかもしれない。
「ほっといてよ」
人がいるなんて思ってもいなかったから動揺した。
「やだね。俺が殺人者扱いされる未来が目に見えてるからな」
彼は塔屋から飛び降りた。拍子に、ワイシャツがベルトから捲れてはためく。
「そこまで人は単細胞じゃないと思う」
「もしかしておまえ、俺の噂知らねえの?」
「うわさ……?」
彼はニッと笑いながら、ゆっくりと近づいてくる。
「死神」
ついに目の前までやってきて、フェンスを掴んだ。僕よりずっと背が高い。驚くほど肌は白くて、死人のように目に力がなかった。死神という呼び名は相応しいと思った。
「いま死なないなら、俺がもっと楽に死ねる方法を教えてやるよ」
「は……?」
学校を抜け出して、彼に連れて来られたのは小さな神社だった。周りは雑木林に覆われていて、足にびっしりと苔の生えた鳥居の傍で、二匹の猫が寄り添い寝転がっていた。僕たちの他に人はいない。
「おまえ。なんで死のうとしてた?」
言いながら、彼はコンビニで買ったサラダチキンをちぎって猫に与える。
「虐められているんだ」
僕はすんなりと答えた。もしかしたら、誰かに聞いて欲しかったのかもしれない。
「それにうちは母子家庭で貧しくて。僕がいない方が、きっと母さんは楽できるから」
「ふーん」
自分で訊いておきながら、興味はなさそうだ。
「天野夜汰。俺の名前ね。おまえは?」
「水野誠」
「何年?」
「二年生」
「じゃあ俺といっしょだな」
同じ学年ならば顔くらいは知っていそうなものだけど、天野という男をまったく知らなかった。
「おまえみたいなやつは知らねーって顔してるな」
「ごめん……」
謝んなよ。天野君は言う。
「一ヶ月前に転校してきたばっかだからな。俺もおまえのこと知らなかったし」
天野君はサラダチキンにかぶりつきながら拝殿に向かって歩いた。僕はその二歩うしろをついていった。
「ここは?」
「見てわかんねーの?寺?神社?まあ、どっちでもいいだろ」
「そうじゃなくて。どうして僕をここに連れてきたの?」
あん?天野君は振り返って僕を睨んだ。
「死にたいんだろ?」
「きみが僕を殺してくれるの?」
「半分そうなるな。でも俺が殺したことには絶対にならない」
「どういう意味?」
「口で説明するのは面倒くせえ。まあ見てろ」
でてこい。と天野君は拝殿に向かって声を飛ばした。
「おい。いるだろ?」
すると神社の屋根からひょっこりと何者かが顔を出した。太陽の光がまぶしくて、はっきりと姿は見えないが、そのシルエットは人のようで人でなかった。
それは屋根から飛び降りると、真っ直ぐ僕に向かって……。え?
「うわっ!」
それが顔に飛びついてきて、その勢いで僕は後ろに倒れた。背中の痛みに呻きながら目を凝らすと、ようやくシルエットの全貌が判明した。
「よくぞ呼んだ!吾輩は飢えている!」
僕の胸の上に赤い髪の女の子が座っていた。けれど普通の女の子ではない。頭に二本の角があり、瞳は白い。背中に生えた赤い羽根は蝙蝠に似た形をしていた。
「え……。だれ……?」
「だ、誰だ!きさまああ!」
「ええ……!?」
なにしてんだよ。天野君は言って、片手で女の子を摘み上げた。
「俺はこっちだ」
「おお。こっちか。うまい棒をよこせ」
女の子は天野君からコンビニ袋を受け取ると、中のうまい棒を貪り食べる。
「いったい何者なの?」体を起こして尋ねた。
「名前はチェイニ。それ以外のことは詳しく知らねー。けど、人間とは別の生きものということは確かだろーな」
「そうなんだ」
「驚かないんだな」
「どうせ死ぬんだし。どうでもいいよ」
「みんな同じこというんだな」
「みんな?」
「あいつに会わせたのはおまえが初めてじゃねえからな」
「ということは、そのみんなも死のうとしていた?」
天野君の首は縦に振られた。僕はそうなると確信していた。
「察しがいいな。どうしてか死にたがりのやつばかりが俺の前に現れるんだ」
うんざりとした目が僕に向けられる。ほんとだね。と返しておいた。
「でも本当の死神は君じゃなくて、あの女の子なんだね」
「そういうことだ」
天野君は拝殿の段差に腰を下ろした。
「俺はこれまで高校を四回転校しているが、その先々全部で誰かしらが死んでんだ。そりゃ死神とも呼ばれるわな」
「あの子が全員殺したの?」
「そうだ」
「僕も殺してくれるの?」
「ああ」
「楽に死ねると言ったよね」
「言ったな」
「どうやって?」
吾輩が教えてやろうか?気付けば、死神が足下にいた。チェイニの口の周りにはうまい棒のカスがこびりついていた。
「吾輩はきさまの意識を食らうことができるぞ。当然痛みもない。意識に痛覚なんてないからな」
「意識を食らう?そんなことできるわけ――」
「できるぞ」
チェイニは自信満々だ。白い瞳は美しかった。吸い込まれそうになるくらいに。
「もし、本当に意識を食われたら。僕はどうなるの?」
「きさまの意識はこの世から消えるぞ。死ぬと同義だ。残るのは世界の理を無視した空っぽの体だけだ」
「からっぽの体?」
「意識はもう死んでいるからな。意識も無いのに動き続ける体のことだぞ。それはこの世界に存在してはいけないものだ。だから勝手に排除されるよう因果に組み込まれるぞ」
「因果?君はずっとなにを言っているの?僕には分からないよ」
僕は混乱していた。それは正当な反応だと自信を持って思える。
「無茶苦茶なようだけど、こいつの言っていることは合ってるぜ」
天野君がチェイニの説明を補足する。
「こいつが意識を食ったやつは全員、翌日に事故にあって死んでいる。火災事故がふたり、通り魔にひとり。交通事故がふたり。普通はそんなこと都合よく起きないだろ?」
「でも意識を食らうって、いったいどうやって……」
簡単だぞ。チェイニは言う。
「吾輩が対象の顔を認識し、名前を発するだけだ」
「それだけ?」
「だけだぞ」
にわかに信じがたいけれど、死神の存在を否定するものも何もなかった。
そんな簡単に死ねるならば確かに夢のようだ。自分で死ぬのはひどく恐いし、罪悪感に押しつぶされるから。他人が背中を押してくれるなら、どれだけ楽かとずっと思っていた。
「でもそれってさ……」
ふと、ある考えが頭をよぎった。まるで人生に黒い光が差したようだった。
このとき、僕は世界一悪い人間かもしれないって思ったんだ。
この世から消えて亡くなればいいと思っている人間がいる。
「おい。今なんかしただろ」
「なにもしてない……」
この男さえいなければ、僕の人生はまだましだった。
「嘘つくなって。俺にスマホのカメラ向けたよな?」
斎藤知也。いじめの主犯格。自分の快楽のためなら暴力すらも厭わない悪魔のような男だ。
「ちがうよ……。そんなの言いがかりだよ」
斎藤知也は僕の机に座った。拍子に筆箱とノートが床に落ちたが、彼は気にも留めていなかった。
「そっかー。盗撮されたかと思ったよ。なんだ俺の勘違いか。ごめんなー」
笑顔なのに邪悪な敵意があった。目が笑っていない。彼は恐怖で固まっている僕の耳元で囁いた。
「今日も遊ぼうな」
学校から離れ、僕は無人の古い倉庫に連れてこられた。使われなくなって随分と経つのだろう。壁は茶色く錆び、地面には雑草が生えていた。目の前には斎藤知也とその取り巻きのふたりの男女がいる。
僕はそこで制服とシャツを脱がされて、パンツ一枚だけという情けない姿になった。
「虐めはこの世から無くなると思う?」
斎藤知也は僕にスマホを向けながら問いかける。
「俺は無くならないと思う。なぜだと思う?」
僕はなにも抵抗できない。どうしてこういうとき、僕の体は硬直してしまうのだろう。
「なにか答えろよ。つまんねーな」彼は低い声で続ける。「俺が思うに、虐めは気持ちいいからだ」
またこの話だ。
「本当は大人だってやっているくせに。どうして子供の問題だと捉えるんだろうな」
この男のくだらない高説を聞くのは何度目になるだろう。独りよがりで、傲慢で、邪悪だ。
「虐めは子供の特権じゃない。どんなに綺麗ごとを並べても、虐めは人の本能だ。誰かが苦しんでいる姿を人は見たいんだ。自分は他人よりも優位にいると安心したいんだ」
彼は僕の前に立つと、僕のみぞ落ちに拳を食らわせた。僕はひざをつき、その場で嘔吐した。
「うわっきたな」取り巻きの女が言う。
斎藤知也は恍惚とした顔で見下ろして、しばらくすると背を向けた。「行こうぜ」と出口に向かう。
「撮られた写真は?いいのか?」
取り巻きの男が訊く。
「もういいよ。百倍でやり返せるから」
「あー。だから、裸の写真撮ってたのね。かしこー」
僕は小さく丸くなり、体を震わしながら、彼らが見えなくなるのを待ち続けた。
殴られた腹の痛みは簡単には引いてくれなかった。お腹を押さえながら、よろよろと歩き、ようやく神社に着いたときには夕暮れ時になっていた。じんわりと赤黄色に染まっていく光と共に鳥居を潜った。
「わはははは!勝負あったな!ついに吾輩の勝ちだぞ!」
境内にチェイニの高笑いが響く。
参道から逸れた木陰にふたりは向かい合って座っていた。
「ここ」天野君が指で地面をなぞった。
「うわあああ!きさま!よくもまたそんな卑怯な手を!」
「卑怯じゃねーよ。てゆーか毎回おなじ負け方だろ。気づけよ」
近づくと、地面に○と×が密集して書かれているのが分かった。天野君が僕に気づいて顔をあげた。
「よー。今日は死ねそうか?」
死という言葉をとても無味乾燥につかう。
「なにやってたの?」
「五目並べ。こいつ弱すぎて相手になんねーの」
きさまあ!チェイニは声を荒げた。背中の翼をこれでもかと広げて威嚇する。
「吾輩のことを弱いと言ったな!吾輩が本気を出せばな、貴様なんか、けちょんけちょんのぼっこぼこにできるんだからな!」
「だったら早く本気だしてみろよ」
「ふん。仕方がないな。そこまで言うなら見せてやろう。魔界で恐れられた吾輩の真の姿を……!」
ところで。と天野君は僕に話しかける。見ろお!とチェイニが叫んでもお構いなしだ。
「それ、うまい棒?」
僕が持っていたビニール袋を指差す。
「うん。いるのかなと思って」
「うわっ!ありがてー!今日買い忘れてたんだよ。こいつずっと不機嫌でさ」
天野君は袋からうまい棒を一本取り出すと「吾輩を見ろ!絶対に見ろ!」と叫ぶチェイニの前に差し出した。
「はい。うまい棒」
「苦しゅうないぞ」
チェイニはうまい棒に飛びついて、にこにこしながら上手い棒にかじりついた。驚くべき変わり身の早さだ。
「あの子とはどこで知り合ったの?」
僕と天野君は拝殿の段差に腰かけた。
「道端で拾った」
「猫みたいに言うね」
「うまい棒をあげたら懐かれた」
「猫じゃん」
「とにかく、俺もあいつのことはよく知らねー。興味もねー。ただ、あいつの能力だけは本物だ」
ところでさ。と天野君は背中を丸め、意地悪い目で僕を覗き込んだ。
「誰を殺すつもりなんだ?」
「気づいてたんだね」
「まーな。おまえみたいなやつが考えることはみんな同じだ」
弱虫。きっとそう言いたいのだろう。僕は何も言い返せなかった。こんな性格だから虐めの標的にされるのだろうか。
「なあ」天野君は言う。「虐めるやつと虐められるやつ。どっちが悪いんだろうな?」
「きみは僕が悪いと言いたいの?」
そうじゃねーよ。彼は足下の小石を蹴飛ばした。
「殺すまで人を追い詰めているのに、それに無自覚なやつも。死んでもいいと思うまで、逃げることもせずに耐えるだけのやつも。どっちも馬鹿だなーって。俺は思うわけ」
そうだね。そう言って僕は頷いた。
「きっと僕は弱虫だから虐められるし。馬鹿だから過ちを犯すんだ」
天野君はジッと僕を見つめる。
「きみは僕のことを止めようとしないよね。死のうとするのも、人を殺そうとするのも」「だってさ、わかんねーだもん。死にたいと思うほどの苦しみがどんなものかなんて。俺が知っているのは、俺にとっての正解が他人の正解になるとは限らねーってことだけだ」
そう言って、すらりと長い足を前に投げ出し、赤く焼けた空を仰いだ。
「俺も馬鹿だからさ。こんなシンプルなことでさえ、どっちが正しいのか分からねーよ」
「天野君って不思議な人だね」
「それ、みんな言うな」
天野君の横顔はどこか温かくて、死神という呼び名に相応しくなかった。
「そろそろ本題にいこうぜ?」
天野君はチェイニを呼びつけた。チェイニはうまい棒を片手にやってきて僕の前に立った。
「いるんだろ?殺したいやつが」天野君が言う。
僕は深く息を吐いてから頷いた。スマホの画面に斎藤知也の写真を写して、チェイニに見せる。
「名は?」チェイニは唇を舐めた。
「名前を言ったら、本当に死んじゃうんだよね?」
「そうだぞ。死ぬぞ」
僕は唾を飲み込んだ。スマホを持つ手が震えていた。正当防衛という言葉がある。自殺をしないために人を殺す。僕のやろうとしていることは正当防衛の範疇におさまるものだろうか。それとも、ただの殺人と呼ぶべきなのだろうか。社会的に正しい行為か。悪い行為か。この悪行を背負い生きていくことに僕は堪えられるだろうか。
まるで雑巾を絞るみたいに心臓がキュッと締めつけられた。
「どうした?」
天野君が僕の目を覗きこむ。
「ごめんなさい……」
僕は視線を逸らすように頭を下げた。
「やっぱりできない……。ごめんなさい」
変なの。天野君はつぶやいた。
「人を殺す勇気はないんだな」
その言葉は僕に深く突き刺さる。
「そうだよ。僕は臆病者だから。こうやって全てから逃げ出すんだ」
「そこが分からねー」
ぶっきらぼうに天野君は言う。
「なんでおまえは自分のことを臆病者だと思うんだ?」
「え?」
顔を上げた。生気のない瞳が僕を見つめていた。
「自殺できる勇気に比べたら、他のことなんてたいしたことないんじゃねーの?死んでもいいと思えるって、ある意味で無敵だろ?」
まるで子供が空の高さを尋ねるように、無垢な疑問として僕にぶつける。その疑問に、僕は答えることができなかった。
母さんは夜七時になると家を出る。濃い化粧をして、よれよれの赤いドレスを着て。母さんがどんな仕事をしているかは分からない。訊いてしまうことで、万が一にでも母さんの尊厳を傷つけてしまうかもと思うと、たまらなく恐い。
「母さん」
家を出て行こうとする背中を呼び止めた。
「んー?」
「ごめんね」
「なにが?」
「ごめん……」
母さんがヒールを履いて立ち上がると、ドレスの皺が目に入った。その背中で「意味不明」と語る。大きくため息を吐いてから振り返った。
「いつも言ってるでしょ?わたしはわたしのために生きてんの。あんたのためじゃない。分かる?」
僕はその言葉を聞くたびに泣きそうになるんだ。母さんは覚えていないのだろうか。とある日の朝、泥酔して帰ってきたときに、泣きながら僕に謝り続けていたときのことを。
「分かったら。あんたは余計なこと考えず、さっさとうんこして寝な」
母さんは笑ってそう言うと、ドアを開けて家を出ていった。
パタンとドアが閉じられると、僕はその場で泣き崩れた。
翌日、僕は授業に出席せずに屋上へ向かった。やっぱりそこに彼はいた。
「覚悟は決まったか?」
天野君が塔屋の上から影を落とす。
僕は見上げると、空の眩しさに目を細めた。
「僕は僕を殺すことにしたよ」
「そうか……」
天野君は塔屋から飛び降りた。
「行こうぜ」
「うん」
きっと、これでいいんだ。僕は苦しい人生から逃れられる。そして母さんは僕という重荷から解放される。これでいいんだ。これで。
その後、神社にやって来たけれどチェイニの姿はなかった。
「あの子いないね」
「まあ。あいつに住処とかいう概念はないらしいからな。この神社に隠れ住んでいるわけじゃない。俺が呼べば、実はどこでも出てくるんだ」
「そうなんだ。じゃあどうして毎回ここなの?」
「そんなの俺がここを気に入ったからだろ」
「やっぱり天野君って変な人だね」
「うるせーよ」
おい。でてこい。とぶっきらぼうに天野君は言った。チェイニは現れなかった。
「こないけど」
「すぐ出てくるときもあれば、出てこないときもある。まあ気長に待て」
「わかった」
息をはきながら天を仰いだ。いつもより空が近く思えた。雲の動きがやけにゆっくりと感じた。校舎の屋上から飛び降りようとした時と同じだ。
「よお」
ここで聞こえるはずのない声が僕の鼓膜を舐めた。悪寒が背中をなぞる。
「ふたりでなにしてんだよ。こんなところで」
鳥居の真下に斎藤知也がいた。取り巻きの男と女も一緒だ。
「ほら!やっぱりあいつ2組の死神!わたしのいったとおりでしょ!?あいつらが一緒に校門から出ていくの見たんだから!」
女が興奮して言った。
「て、こいつが言うから、わざわざ追いかけて跡をつけたんだ。ストーカーみたいにさ。俺らって気持ち悪いだろ?」
本当に気持ち悪かった。どうしてそこまでして僕にかまうんだ。
「そしたらなんだよ。この神社は?まさか神頼みで俺を殺すつもり?」
斎藤知也は笑って、僕にゆっくりと近づいた。また僕の体は硬直して動けなくなる。
「なにか言えよ!」
彼は僕の腹にひざを入れた。僕は声にならない悲鳴をあげて、地面にひざを付けた。
その様子を天野君は黙って見つめていた。
「なにみてんだよ。文句でもあるか?」
斎藤知也はきつい目で睨み上げた。背の高い天野君が彼を見下ろす形になる。
「文句はねえけど、馬鹿だなって」
「は?」
「おまえ。本当は恐いんだろ?わざわざ、こんなところまでついて来て。俺に殺されるかもしれないって内心は怯えて――」
ゴッ。と音が鳴った。かと思ったら、天野君が地面に倒れていた。鼻から血が垂れている。顔を殴られたんだ。
「誰が誰に怯えてるって?」
斎藤知也は横たわる天野君の体に蹴りを入れた。
「なにが死神だ!ふざけやがって!一番嫌いなんだよ!おまえみたいな……!どうせ何もしないくせに、正論風なことばかり並べるただの傍観者が!自分は正しい人間だと自惚れるために、他人を見下しやがって!」
天野君が起き上がろうとする度に、斎藤知也はその体を蹴り倒した。天野君の真っ白い肌に痣がひとつずつ増えていく。僕のせいだ。僕が彼を巻きこんでしまった。止めないと。そう思っても恐怖で体が竦んでしまう。
「おい……。そろそろやめとけって……」
斎藤知也はいつにも増して暴力的だった。それは取り巻きの男さえ心配しだすほどだった。何かが彼の暴力を加速させている。
恐怖。かもしれない。
僕は恐怖を感じると動けなくなるけれど、彼の場合は反対で、暴力で遠ざけようとしているのだとしたら。そうなのか。こんな悪魔でさえ、死ぬことは恐いんだ。
――死んでもいいと思えるって、ある意味で無敵だろ?
もしかしたら、そうなのかもしれない。僕はいったい、なにに怯えていた?
「やめろ!」
裏返った声がでた。けれど初めて、僕は恐怖に打ち勝った。
斎藤知也は僕に向き直ると、邪悪な目つきで僕を睨んだ。これまでの暴力を全て思い出して足が震えた。それでも立ち上がれただけ僕にしては上出来だ。
「おまえさあ……。誰に口きいて――」
「うるさい!うるさい、うるさい、うるさい!」
目をつむって、背中を丸めて、とにかく思いっきり叫んだ。自分にこんな大きな声が出せたのかと驚いた。目を開けると、斎藤知也は地面に尻をつけていた。青ざめた顔で僕を指差している。
「おい……!ばけもの……!」
意味の分からないことを口走っていた。怯えている?僕に?とにかく今の彼はとても小さく見えた。
「きみの暴力に耐えるのはうんだりだ!もう二度と……!僕らに構うな!!」
ヒッ。と息を吸うような悲鳴をあげると、彼は生まれたての小鹿のようにバタバタと立ち上がり、背中を向けて一目散に逃げ出した。取り巻きの男と女も悲鳴をあげながら一緒に走り去っていく。
そうして神社には僕と天野君だけが残った。
「やるじゃん。おまえ」
天野君は呻きながら、傷だらけの体を起こす。
「怪我はだいじょうぶ?」
「見た目ほどじゃねーな。全部すぐ直る傷だ」
「そう。よかった」
ねえ。と続けて質問する。
「そんなに恐かった?ぼく」
「おまえじゃねーよ。うしろ見ろ」
「うしろ?」
振り返ると、大きな化け物がいた。
姿は狐のようだけど、立派な角と鋭い牙が生えている。背中から生えた羽はおどろおどろしい血の色をしていた。なにより大きい。座っていても神社の本殿と同じくらい背が高い。
これはだれ?天野君に問いかけても、知らね、と返って来た。
「吾輩だぞ。吾輩の真の姿だ」
化け物がしゃべった。
「その声……。もしかしてチェイニ?」
「そうだぞ」
化け物は小さくなっていき、もとのチェイニの姿に戻った。唇を尖らせて、どこか不満そうだ。
「見せてみろと言ったから、わざわざ時間かけて変身してやったのに。二人ともつまらん反応しおって。なぜ恐がらないのだ」
「どうしてだろう。そこまで恐くなかったよ」
僕の言葉に、天野君はククッと笑った。つられて僕も笑った。本当におかしくて笑ったのは久しぶりだ
「なぜ笑う?なにがおかしい?」
困惑するチェイニの顔がまた面白い。
「おまえさ」天野君は僕に問いかける。「本当に今から死ぬの?」
「ううん。やっぱりまだ、やめておくよ」
もう少しだけ生きてみようと思えたんだ。無敵でいられる間だけでも。




