Ep.1 春風は柑橘の香り
「それじゃ、軽く挨拶してもらえるかしら。」
「……キャサリン、ウィリアムズ、デス。ヨロシク、オネガイシマス。」
一呼吸おいて、ぺこり。人形めいたぎこちなさと、生々しく震える肩。
「それじゃあ、空いているところに座って。」
隣の空席を、横目でちらり。俺の額に、たちまち水滴が滲み始めた。シャツで軽く拭って、もう一度彼女へ視線を戻す。
規則的な足音を立てながら、キャサリンは既に目の前まで来ていた。編み込まれた髪が、日差しを吸って少し眩しい。けれども、目を離す気にはなれなかった。
机の前で、くるり。ふわりと揺れるブロンド、そして香ってくるシトラス。緊張はとうとう、握った手をぴちゃんと鳴らした。
「いろいろ、ヨロシク。」
「っ、ああ……よろしくね、キャサリンさん。」
「キャサリンでいい。キャサリン。」
真赤な唇から紡がれる、滑らかな英語の発音。田舎者の俺にとっては、ラジカセでしか知らない声色だった。
「よ、よろしく……キャサリン?」
背伸びした発音に、くすりと微笑む少女。蒼い瞳は、ただ俺だけに向けられている。
――ドン、ドン、ドン。鼓動は号砲になっていた。燻る柑橘の香水は、俺の鼻先を焦がそうとする。くっと呑み下した唾は、熟れる直前の杏子みたいに、しっとり温かくて甘い。
「それじゃ、ホームルームを始めます。」
握り拳を開くと、たちまち溢れる緊張の証左。握手を求められなくて、本当に良かった。すぅと流れる安堵の息を、春風が横へ流してゆく。再び香ってくる香水に、また俺は生唾を呑み込んだ。




