Ep.0 春風は柑橘の香り
新作のライトノベルです。どうぞ、末永くお付き合いいたしましょう。
「それじゃ、軽く挨拶してもらえるかしら。」
「……キャサリン、ウィリアムズ、デス。ヨロシク、オネガイシマス。」
一呼吸おいて、ぺこり。人形みたいなぎこちなさとは裏腹に、玉のような汗が白い額を光らせていた。
「それじゃあ、空いているところに座って。」
隣の空席を、横目でちらり。俺の額にも、たちまち水滴が滲み始めた。シャツで軽く拭って、もう一度彼女へ視線を戻す。
規則的な足音を立てながら、キャサリンは既に目の前まで来ていた。編み込まれた髪が、日差しを吸って少し眩しい。けれども、目を離す気にはなれない。
机の前で、くるり。ふわりと揺れるブロンド、そして香ってくるシトラス。緊張はとうとう、握った手をも強く濡らした。
「いろいろ、ヨロシク。」
「っ、ああ……よろしくね、キャサリンさん。」
「キャサリンでいい。キャサリン。」
真赤な唇から紡がれる、滑らかな英語の発音。田舎者の俺にとっては、ラジカセでしか知らない声色だった。
「よ、よろしく……キャサリン?」
背伸びした発音に、くすりと微笑む少女。蒼い瞳は、ただ俺だけに向けられている。
――ドン、ドン、ドン。号砲のような胸の鼓動と、依然漂う柑橘系の香り。くっと呑み下した唾は、熟れる直前の杏子みたいに、しっとり温かくて甘い。
「それじゃ、ホームルームを始めます。」
握り拳を開くと、たちまち溢れる緊張の証左。握手を求められなくて、本当に良かった。
安堵の息を、春風が横へと流してゆく。再び香ってくる香水に、また俺は生唾を呑み込んだ。
ハマってしまったあなた。ノクターンノベルスにて、「ジャンとマルグリット」も同時に連載しております。
あちらはこちらとは違い、硬派な文体を貫いておりますから、交互に読んでジェットコースター気分を味わっていただければ幸いです。