異世界に転生したので静かに暮らします
大学を卒業して初めての就職。
やっと社会人になれたと胸を張ったのも束の間、私はすぐに壁にぶつかった。
それは「お局様」と呼ばれる存在。
「新人のくせに、何その顔!」「はぁ、私の頃はもっと頑張ってたわよ」
細かい粗探しと八つ当たり。部長でさえ彼女には逆らえない。
私は日々、胃を痛めて顔色をうかがい、休日も疲れ果てて寝込むばかりだった。
そしてある夕方。机に積まれた資料の山の前で、私の視界はふっと暗くなった。
「……もう、無理」
意識が途切れ、私は机に突っ伏した。
次に目を開けたとき、そこにあったのは見慣れた天井ではなく、木漏れ日揺れる森だった。
「……え?」
鳥のさえずり、甘い風の匂い。コピー機の音もしなければ、蛍光灯の白さもない。
ぼんやりと座っている私に声をかけたのは、通りがかった農夫風の男性だった。
「おや、大丈夫かい? 」
「だ、だいじょうぶです……ここは?」
「ここは〈フィロネ村〉さ。見たところ旅人でもなさそうだな」
その人に導かれて辿り着いたのは、小さな村。素朴で、けれど温かい場所だった。
──私は異世界に来てしまったらしい。
行く所もなく村に世話になりながら暮らしていたある日。
畑の隅でしおれた苗に手を触れた瞬間──芽が勢いよく伸びた。
「う、動いた……!?」
再び集中すると、枯れかけの葉が青々と蘇る。
村の人いわく、これは珍しい「植物成長魔法」。戦闘には向かないが、生活に役立つ力らしい。
地味? いい。派手さなんていらない。
「もう、人間関係で疲れるのは嫌。だったらこの力で、一人でできる仕事をしよう」
私は村の外れに小さな家を建てる許可を貰った。そして畑を作ることにした。
朝。露に濡れた畑を見渡す。
赤く実ったトマト、風に揺れるミント。
「今日も元気に育ってね」
指先から広がる淡い光に、葉が瑞々しさを増す。
収穫したハーブでお茶を淹れると、子供たちが駆け寄ってきた。
「お姉ちゃんのお茶! 今日も飲んでいい?」
「もちろん。今日はカモミールだよ。ちょっと熱いから気をつけてね」
湯気の向こうで子供たちが「はふ、はふ」と口をすぼめる。
隣に腰を下ろしたおばあさんが、ほっと笑った。
「あなたが来てから、村が明るくなったよ」
「そんな、大げさですよ。ただ畑をお世話してるだけで」
「いやいや。あんたの野菜はね、食べると心まで元気になるんだ」
物々交換で畑の作物を渡しているだけなのに……胸の奥がじんわりと温かくなる。
薬師に薬草を届けると、彼は目を丸くした。
「おお、もうこんなに育ったのか! 本来なら三年はかかるぞ」
「ふふ……ちょっとした特技なんです」
「助かるよ。これで村の病人も早く良くなる」
別の日には、旅の冒険者が立ち寄った。
「すまねぇ、怪我しちまって……」
「じゃあ、これをどうぞ。畑で採れた薬草とスープです」
「……うまい! 体が温まる。ありがとう、お嬢ちゃん」
彼は笑い、礼を言って去っていった。
私は思う。
「ここでは、私が誰かの役に立つんだ」
ある日、村に病で倒れた少女が運ばれてきた。奇妙な痣が全身を覆い、高熱が出ている。旅の途中らしい。
「娘を……どうか助けてください!」
母親が涙ながらに訴える。
薬師も医者も何も言わない。治療方法が無いのだ。しかし、村長が渋い顔で呟いた。
「昔、治療薬になるという噂の植物の種を手に入れたことがある。だが育つまで十年はかかると聞いてな……納屋に仕舞ったままなのだ。古いから、芽が出るかもわからん」
見せられたのは小さな木箱。乾いた種が数粒入っている。
普通ならとっくに諦めるしかない。
けれど私は、迷わず言った。
「──私なら、育てられるかもしれません」
「なんと……?」
「私の魔法は、植物を成長させる力なんです。試させてください」
その夜、村長の庭に種を植え、月明かりの下で魔力を注ぎ続けた。
土が揺れ、芽が伸び、葉が広がり──夜明けには、可憐な花を咲かせた。
「おお……! 一晩で……」
村長の声は震えていた。
薬師がその薬草を煎じ、私も見守る中少女に飲ませる。痣がゆっくりと薄くなる。
やがて彼女はうっすらと目を開け、弱々しく微笑んだ。
「……これは……」
「ふふ、これは薬草の香り。元気になったら一緒にお茶を飲もうね」
母親は泣きながら私の手を握り、村長は深く頭を下げた。
「お前は……この村の希望だ」
翌朝、私は畑に座り、朝焼けに染まる空を見上げた。
「もう、誰かに怒鳴られることもない。無理に笑う必要もない。私は、私の力で生きていける」
風に揺れる植物の香り。子供たちの笑い声。人々の働く姿。私はそこに溶け込んでいく……。
のんびりと、穏やかに、けれど確かに。
新しい希望の種は、この世界で芽吹き始めていた。