6. 新たなる妹、アイリッシュ・グエン・ローリー
イーサが泣き疲れて眠ってしまった後、彼女を寝台に寝かせると俺は窓の外に目を向けた。
「ここはどこなのだろう?」
そんな疑問が自然と湧き上がった。窓の外には広大で鮮やかな草原が広がり、その外縁には深い森が見えている。静けさの向こう、遠くからはさざ波のような音がかすかに聞こえていた。青々とした空から落ちる日差しが、緑を浸し、美しく輝いた。
七年前。俺が過ごしていたガウル村は、寂しい場所だった。冷たい海、曇った空、乾いた砂地、尖った岩場──この大陸で「忘れ去りたいもの」が最終的に辿り着く、そんな終着点のような場所だった。
少し寂しい気もするが、俺の死後、兄妹たちが「家」を移したのだとすれば、それは正しい選択だ。あの場所は今も、寂れた漂着物の終着点として、その役割を果たしているのかもしれない。
健やかなイーサの寝息が心地よく響く。それを聞いているだけで微笑みが溢れてきた。まさか、またこんな日が来るなんて、モーリスとして生まれたばかりのあの日の自分にに言ったら信じてくれるだろうか。
その音に耳を澄ませながら、モーリス・スウェンとして生きた日々を思い出す。リーザ、ロゼ、シャサ──娘たちも幼い頃、俺の部屋に遊びに来ては、いつの間にか眠ってしまったものだ。
そんな穏やかな時間が流れる中、唐突に背後の扉が叩かれた。それは、どこか気品を感じさせる音だった。
「どうぞ」
俺は咄嗟に返事をしていた。
「失礼いたします」
扉を開かぬまま声だけが聞こえる。緊張で少し引き攣った調子の声だった。ゆっくりと扉が開き、メイド服に身を包んだ見覚えのない一人の少女が姿を現した。
歳はイーサより少し下に見えた。狐のような耳と、尻尾、それは彼女が妖狐族であることを端的に示していた。妖狐族は、自身の姿を自由に変化させる力を持っているはずだ。いわゆる「人間族」しか存在しなかった前の世界を思えば、亜人種と呼ばれる存在に会うのは、百年ぶりということになる。
少女はこちらを見て、明らかな動揺と驚きの表情を浮かべた。
「君は? どちら様かな?」
俺もまた少し緊張して声をかけた。
「た、大変失礼いたしました!」
耳がぴくりと動き、少女は慌てて深々と頭を下げた。
「お初にお目にかかります。魔王……いいえ、お兄様! 私はアイリッシュ、アイリッシュ・グエン・ローリーと申します」
彼女が途中で言いかけた言葉も気になったが、それ以上に、その名を聞いた瞬間、俺は驚きで目を丸くした。
「来てたのね、アイリッシュ……」
目を覚ましたイーサが背後で目をこすりながら言った。
「イーサ……この娘は?」
「アッシュ兄さん、アイリッシュはね、兄さんが死んでしまった後で、帝国の奴隷商で売られていたところをハイネが見つけて……いろいろあって、今は新しい家族としてここにいるの」
まだ寝ぼけているのか、イーサの説明にはいくつかの重要な部分が抜け落ちているように感じられた。
俺は深く息をつき、怯えて見える少女に、まずは声をかけるべきだと思った。唐突に「君は?」と尋ねたのは、あまりにも礼儀を欠いていた。
「アイリッシュ、顔を上げてくれるか」
俺は可能な限り優しい調子で言った。
「驚かせてしまってごめんね。俺はアッシュ・グエン・ローリー。こちらこそ初めまして。我が家へようこそ……と言いたいところだけど、俺自身も、ここに来たばかりなんだよな」
俺の言葉にアイリッシュはようやく顔を上げ、安堵の表情を浮かべた。もふもふとした耳と尻尾が心地よく揺れる。
「お目覚めになっていたなんて……! 私、ずっとお会いしてみたかったお兄様とこうしてお話できるなんて……信じられなくて……」
今度は彼女の目から涙があふれ出す。イーサが寝台から立ち上がり、アイリッシュのもとへ駆け寄った。
「ごめんね、アイリッシュ。私がもっと早く兄さんが目覚めたって伝えていれば良かったのに」
そう言って、彼女は優しく頭を撫でてあやし始める。
「イーサお姉様のせいじゃありません!」
アイリッシュはそう言いながら、力が抜けたようにその場に座り込み、わんわんと泣き始めた。
「ごめんな、二人とも。俺が突然戻ってきたばかりに……」
そう詫びたあとで、二人が落ち着くのを少し待ってから、何より気になっていたことを口にした。
「ビリー、クリス、ダリア、フェリム、グリム、ハイネ……みんなも元気にしているのか? ここで一緒に暮らしているのか?」
その質問に、イーサがアイリッシュと一緒に床に座ったまま、振り返って答える。
「ごめんなさい、アッシュ兄さん! 兄さんがきっと気にしているって知りながら、私は何の説明もせずに……」
イーサは伏目がちに言った。
「……実は、今ここにいるのは、私とダリアだけなんです。ビリー兄さん、クリス姉さん、フェリムとグリムは、制圧した魔王領にいて、たぶん、しばらく戻れそうにありません。ハイネもハイグランド帝国に留学していて……でも、みんな元気です! これからダリアの召喚獣たちに頼んで、兄さんが目覚めたことをみんなに急ぎ伝えるつもりです」
「そうか……みな元気に生きてるのか……良かった。本当に良かった。それが聞けただけで、俺は……」
また幾つか気になる言葉があったが、俺は安堵していた。皆の無事が何より嬉しかった。過去の自分の死が少しだけ報われたような気がした。
「それに、紹介したい家族は他にもいるんです。いずれみんなを兄さんに紹介します」
「アイリッシュの他にも何人かいるのか?」
「はい! それはまた追々話そうと思います……」
「あと少しだけ。ガウル村の人たちの消息はわかるか? 世話になったみんなのことも気になってな」
「アッシュ兄さん? それは後ほど、ぜひご自身の目で確かめてください! きっとみんな喜びますから」
「ここはガウルに近いのか?」
外の風景を見ても、とても近場には思えなかった。気候も違うし、何より、空の色が違った。ここは大陸の南側だろう。ガウル村のある北側までは相当の距離がある。彼らに会いに行くには難儀するだろうと思った。
「近いというか……たしかに少しだけ様子は変わったかもしれませんけど、ここはガウル村です!」
「……え?!」
俺は素っ頓狂な声を上げていた。
しかし、イーサは笑いを浮かべながら平然と続けた。
「今は村というより、ちょっとした都市になってしまい……外では勝手に“魔王と悪魔たちが巣食う都”、なんて呼ばれてるんですよ。“魔都ガウル”って……馬鹿みたいな話ですよね!」
先ほどから妹たちの言葉の端々にあった違和感が積み重なったところに、イーサからの聞き慣れない言葉の羅列がトドメとなって、俺は戸惑い驚くというよりむしろ、混乱しきってしまうのだった。