3. 待ち焦がれた再会
ずっとイーサのことを思い出していたからか、俺の鼓膜を震わせるように懐かしい声が聞こえた。
「アッシュ兄さん!」
遠い記憶となったその声が、まるで間近で発せられているかのように響いていた。思い出は隔たった距離を埋めてくれる不思議な作用を持っている。百歳となった俺が、生まれた直後のことを眼前に見るのもこの作用によるものだ。
「アッシュ兄さん!」
まただ。また、イーサの声が聞こえる。その声には色があった。形があった。まるで、どこかにいると確信させるような響きがあった。
「イーサ! いるのか、イーサ!」
俺は彼女の名を呼んでみる。しかし、応答はなく、その声は虚しく周囲の空白に吸い込まれて消えた。
俺は声のする方に向かって進んでみる。ここでは上手く距離が掴めない。いったいどれくらい進んだのか検討もつかない。……もしかしたら彼女もここに来ているのかもしれない。そう頭をよぎった。そう思いたかった。つまり、彼女の死を、身勝手にも願ってしまった。
だが、出会えたとして、俺は彼女に何と言えばいいのだろう。きっと寂しく悲しい想いをさせた。彼女がその後にどのような幸せな人生を送れたとしても、俺が彼女に背負わせてしまった負目が消えることはない。
俺のことなど忘れてしまっているだろうか。そうであれば、それが何よりだという風にも思えてくる。たまに思い出してくれたら。それでさえ欲張りな願いで、死者の傲慢であろう。
「あなたはだあれ?」
きょとんとした顔で彼女は言うかもしれない。俺は、何と言っていいか分からずに戸惑い、口をつぐんでしまうかもしれない。──それでも、いい。それでもいいから、もう一度、彼女をこの目に。俺はそんなことを胸に抱きながら進んだ。
しばらく進むと、強い光が遠くの方で輝いているのが見えた。声はその方向から響いていた。目に映るその光は、不思議と懐かしく温かい色を湛えていた。
「アッシュ兄さん!」
そして、声はどんどん大きくなり、俺の鼓膜をますます強く震わせる。俺が近づくよりも早く、むしろ光の方がこちらに近づいてくるようでもある。俺が懸命に進むよりもずっと速く、光は俺に迫りくる。
視界を覆うほど大きくなった光が、突如、俺の身体を包み込む。俺は無抵抗にそれを受け入れる。
「アッシュ兄さん!」
呼びかけるあの声と光とが完全に同調して、俺の胸の奥をじんわりと濡らしてゆく。暖かい、木漏れ日の下に寝転んだ時のような温もりに満たされる。俺はその光にその身の全てを委ねるかのように目を閉じる。
「イーサ、おいていってごめんな」
いつも彼女に言っていた言葉、そして、最期のときにも彼女に言った言葉。俺はそんな言葉を思い出して、もう一度呟いていた。届いてくれたら……そんな微かな祈りと共に──
少しして、朧げな意識にまた別種の光がさした。
……誰かが俺の胸に縋り付いて、声をあげて泣いている。胸の辺りに確かに感じるやわらかな重みと、温もりはどうやら気のせいではない。俺は重たく閉じられていた瞼を持ち上げた。窓辺からこぼれる日差しが、やけに眩しかった。
見慣れない天井。見慣れない景色。柔らかくも慣れないベッド。そのどれにも、落ち着きのある、明るく清潔な装いがあった。
そして、胸の上に感じた確かな重みと温もりの主に、俺の目線は辿りつく。甘く、懐かしい匂いがした。綺麗に梳かされた長い銀色の髪が震えるようにして揺れている。俺はゆっくりと右の手を動かし、その銀色の髪に優しく手を添える。
美しい毛先が揺れて、一人の少女がそっと俺の方を見上げる。
透き通った青い瞳が、たっぷりと涙に潤んで、それがゆっくりと溢れ落ちた。白い頬はほんのりと赤く、血色の良いぷっくりとした唇からは優しい吐息がこぼれた。懐かしく、けれど記憶よりずっと大人びた少女の顔が、俺を一心に見つめる。
俺は言葉を失う。自分自身の五感を疑う。
「おかえりなさい。アッシュ兄さん──」
少女は言葉とともに俺の手を力強く握りしめる。肌と肌とが触れ合い、やわらなか感触が彼女の体温をじかに伝えた。
俺は死んだ。死後の世界には、神も、女神も、天使も、精霊もいなかった。けれど、それ以上の喜びが、奇跡があった。彼女が、イーサがいる。この声が記憶でも、想像でもなく、今俺の目の前で確かに響いたのだ。