35. 非業の魔王の帰還〈3〉
俺は自分が泣いていることに気がついた。涙がとめどなく流れ落ちる。その涙は、俺一人のものではなかった。何百、数千もの非業の涙を俺が代わりに流している、そう思えた。俺の頬を伝うのは、そういう種類の涙だ。
洞窟の高い天井が見える。湿気で濡れた岩肌から、水滴のひと粒が滴り、俺の頬に落ちた。冷たかった。その冷たさに、俺は自分自身の体温を実感する。戻ってきたのだ。
俺はどれだけ眠っていたのだろう? 数時間、数日、数年もの時間が過ぎたように思える。同時に、たった一瞬にも満たない間の出来事であったようにも思う。魂の、奇妙な時間の感覚が、俺を満たしている。
傍には俺の上に覆い被さっていた、あの一体の魔物──ラマスがまるで眠るかのように横たわっていた。
「アッシュ兄さん!」
イーサが顔を涙で濡らして、俺の傷を手当てしていた。ラマスの爪が食い込んだ部分の傷はもうすっかり塞がっていた。
「……俺はどれくらい気を失ってた?」
「ほんの少しだけの間です。でも、私、すごく不安で」
「ごめんな、イーサ」
俺は何度この子を泣かせたら気が済むのだろう。何度救われたら気が済むのだろう。俺は手を伸ばし、今にも流れ落ちそうな彼女の目尻の涙を拭った。そして、ゆっくりと上体を起こした。
目の前ではアイリッシュが結界を張り、迫り来る魔物たちの動きを必死に防いでいた。俺の言ったこと守ってか、フェリムも魔物たちが傷つかないよう手加減をしながら、体当たりで彼らを押し返していた。ダーリャもまた同様だった。
「彼は……?」
俺はラマスの方に目をやって尋ねた。
「あの後、突然倒れたんです……兄さんの体に覆い被さって、まるで何かに安心して眠りにつくように……そしたら、兄さんも気を失ってしまって」
「そうか……」
(ラマス、随分待たせたな……)
「──ヘっ、気にすんなよ、アッシュ!」
そう言って、彼が笑ったように感じる。
俺は黙ったまま、横たわるラマスを見つめていた。イーサの言う通り、その姿は、何よりも安らかに見えた。今ならわかる。彼の中に感じていた懐かしい面影は、それを見つめる俺自身の面影だった。俺は彼の中に、自分自身の姿を見ていたのだ。
「兄さん、みな頑張ってくれているけれど、彼らを傷つけずに食い止めるのも、もう限界に近いです」
俺は再びイーサの方に目をやり、それから、必死に戦う妹たちと、迫り来る魔物たちに目を移す。
「このまま彼らがここを出たら、周辺の村や街は……色んなことを考えてみたんです。でも、私の力じゃもうどうすることも」
「ありがとう、イーサ。俺の言葉を聞いていてくれて」
「でも、でも……」
見境なく、当てどもなく、ただ出口だけを目指して、肉を切り、血を流しながら、迫り来る彼らの悲痛に満ちた声は、その嘆きと絶望を色濃くしていた。
「みんな……」
俺は静かに呟いた。
獰猛な呻きを発するその全てが、小さな魂を持っている。ラマスに託された道で、俺は皆の魂に触れた。ラマスと会話したように、途方もなく思える時間を、それぞれの声に耳を澄ませた。
今の俺には、不思議と異形となった何千もの彼らの顔が、一人ひとり異なって見える。その声のひとつひとつが全て異なって聞こえる。その一粒一粒の涙の色が、温度が、異なって感じられる。
どれだけ多くの涙が流れれば、世界は満足するのだろう? 彼らも、俺のように別の世を生きて、そこで何か大きな罪を犯したとでも言うのか。その罰を今世で受けているとでも? なぜ、こんな非道が許される? なぜ彼らの非業を無条件に受け入れねばならない?
──違う。俺は誰を裁くこともできない。誰の善悪をも問う能力も資格もない。でも……
「なあ、イーサ、アイリッシュ、フェリム、ダーリャ」
俺は静かに妹たち皆の名前を呼ぶ。皆が、俺の方に意識を向け、その耳を傾ける。
「俺はやっぱり彼ら全員を助けたい。だから協力して欲しい。みなの力の全てを俺に貸して欲しい」
「……でも、兄さん!」
傍らのイーサが叫ぶように言う。俺は彼女の言葉を止めるように唇に指を持っていく。そして、静かに、それでいて皆に届くようなはっきりとした声で言う。
「──俺はさ、今じゃ、この世界の魔王なんだよな?」
皆が固唾を呑み、一瞬の沈黙が訪れる。
「お兄ちゃまは、魔王なのだ!」
フェリムが溌剌と叫び、ダーリャが「みゃあ!」と大きな声で鳴く。アイリッシュも大きく頷く。俺はイーサの瞳にも回答を求める。その瞳が大きく頷くのを確かに感じる。俺は、そんな皆の目を、順に見つめる。
「だったら……」
俺はゆっくりと口を開く。
「俺は、魔王らしく、俺の望みの全てを叶えたい。俺の願いの全てを成し遂げたい。魔王らしく、我儘の限りを尽くして、全てを守りたい。そして、全てを助け、全てを救いたい。もう誰の赦しも求めない。俺が、この世界に魔王として帰還した意味を、身勝手に宣言する。だから──残虐に、破滅的に、嗜虐的に、彼ら全員を送ってやろう」
ゆっくりと腰を上げた。
次の瞬間、俺はただ一人の魔王として立ち上がっていた。──この世界の、全ての非業を断ち切って、俺がその全てを背負おう。罪も、罰も、その全てを俺が肩代わりしよう。俺は小さく呟く。魂の奥底から、みなぎり、溢れでるがままに──。
「俺が、非業の魔王だ」




