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34. 非業の魔王の帰還〈2〉

「君は、どうして泣いているんだい?」

 少年は答えない。だが、声にならない声で、何かを訴えようとしていた。何度も言葉を飲み込み、ようやく震えた声が漏れた。

「……約束、したんだ……」

「約束?」

「太陽の……いっぱい降るところに……妹と、行くって……」

「……その妹さんは、今、どうしてる?」

 少年は目を伏せて、静かに首を振った。

「わからない……でも、あのとき……俺、最後まで、守れなかった……」

「そうか……」

 俺はそっと彼の隣に腰を下ろした。


「俺は、アッシュ。君の名前は?」

 少しの間があって、彼は顔を上げて答える。

「ごめんな、アッシュ。俺は自分の名前も忘れちまった。……わからない。思い出せないんだ。自分でも、なんでここにいるのか……」

 少年の声は少しだけ穏やかさを取り戻している。


「……俺、たしか妹がいてさ……でもはっきりと妹の顔も名前だって思い出せないんだぜ? 思い出そうとすると、突然悲しくなっちまってさ、すげえ好きだったはずなんだけど……」

 俺は言葉を挟まず、静かに耳を傾けた。


「花が好きで、誕生日にって……花冠を作ってくれてさ……でも……」

 彼は、ようやく絞り出すように続けた。

「……守れなかった。約束も、叶えられなかった。それだけはさ、何度も何度も思い出すんだ」


 長い沈黙のあと、俺は、彼の言葉の意味を反芻するようにゆっくりと繰り返した。

「妹を守れなかった……か」

 俺は遠くを見つめる。

「俺も、同じだよ」

 少年がこちらを見た。初めて、目が合った。


「俺も、昔。兄妹たちを……守れずに死んだ。何もできなかった。目の前で、妹たちが泣き叫ぶ中、俺は──ただ終わった」

 少年は目を見開き、ためらないがちに言う。

「……後悔、してる?」

「ずっと、してたさ。そして今もな」

 俺は正直に答えた。言い訳も、強がりもなく。

「でも、今は……やっとな、もう一度出会えた。彼らと。……それでも、怖いんだ。今度こそ、間違わずに守れるのか、何度も自問してる……俺は今でも怖い。あの日、何も救えなかった自分を、赦していいのか、わからない」


 それから俺は、兄妹たちとの思い出を話した。彼らを守ろうと死んで、妹たちの力で蘇り、目覚めたらみんな信じられないほど強くなっていて、俺は魔王になっていて、でも、ずっと守られているのは自分だった、そんなことを驚くほど正直に。


 少年はそんな俺の話に時々、質問や、「わかるぜ」と相槌を挟みながら、泣いたり、笑ったりして話を聞いた。俺たちは、初対面とは思えないほど打ち解けて語り合っていた。


「アッシュ、俺はお前が羨ましいって思っちまった」

 少年は泣き笑いするかのようなまま言った。

「羨ましい?」

「いや、ごめんごめん。別に嫉妬とかじゃないんだ。たださ、俺は何も守れなくて、何も残ってないから」

「ごめん……俺は君のことを何も考えず……」

「いいって、気にすんな! 大好きな兄妹について語りたがらない兄貴がどこにいんだよ!」

 少年は歯を見せて笑い、俺の背中を叩いた。


「それに俺の妹だって……」

 彼はそう言いかけて、突然言葉を失った。音もなく、小さな風が俺たちを通り過ぎていった。

「……ティーナ」彼の声は震えていた。

「……俺の大好きな妹。ティーナ! ……なんで忘れてたんだ、ティーナって名前だった……すっごく、可愛い子で……俺が守るって、約束したんだ。いつか晴れた花畑で……母ちゃんと、兄ちゃんたちと、笑って……」


 少年の目から、ぽろりと涙が落ちた。涙の一粒が花の上に落ちると、風が吹いてふわりと宙に舞った。


「でも、俺、何もできなかった。剣を振っても、歯が立たなかった。怖かった……妹の手を離して、無我夢中に挑んだけど簡単にやられて。あいつらに、連れていかれて……それから、身体が、冷たくなって、壊れて……」


 その肩が、震える。大粒の涙がいくつも、いくつも、流れ落ちてゆく。俺は何と声をかけたらいいかわからなかった。ただ、少年の肩を抱き寄せて、彼の言葉に耳を傾け、黙ったまま正面の虚空を見つめた。どれくらいの時間そうしていただろう? 随分と時間が過ぎたように思う。


 少年はようやく少し落ち着いて口を開いた。


「それとな、俺さ、自分の名前も思い出したんだ。──ラマス。俺は世界一かわいいティーナの兄、ラマスだ!」

 彼ははっきりとした口調で言った。涙はすでに乾いているが、目の周りは真っ赤なままだった。

「ありがとう、ラマス……」

「礼を言うのは俺だぜ、アッシュ。名乗れもしないなんて王国戦士の恥だからな!」

 彼は無理して笑っているように見えた。


「帰ろう、ラマス。きっと妹さんが待ってる。方法は今はわからないけど、俺が絶対に考える。絶対に何かあるはずなんだ、だから……」

「ありがとうな……でも、いいんだ、アッシュ」

 彼は静かな声で言った。

「たぶん、俺はもう駄目だ」

「待ってくれ、まだ何か方法あるはずで──」

「なあ、アッシュ。聞いてくれるか? 俺がここに来てずっと呟いていた言葉って何だと思う? ()()()だ。ずっと俺はそう言って泣いてたんだぜ」

「そんなの、当然じゃないか!」

「俺はな、妹や母ちゃんを守りたいって、それだけで生きてたつもりだった。でも、最期に出てきた言葉は、()()()()()()()()一心の言葉だったわけさ」

 俺は言葉に詰まる。

「でもな──最期に気づけて良かったんだ。守ろうとしてたはずのティーナや母ちゃんに、守られて、救われてたのは、俺自身だったんだって。……馬鹿だよな、俺は」


「そんなことは……」

 言葉が、それ以上出てこない。


「最期にお前と話せて、本当に良かったよ」

 その言葉に、胸が締めつけられる。


「違う、違うんだ! 俺はお前の、お前たちの声を遠ざけて、それで……お前たちの叫びを聞くのが、ただ怖かっただけで。ここに来たのも偶然で」

「まあ、難しいことは俺にはわかんねえ。でも、俺はお前に会えて、話せて良かった。俺がただそう思った。俺と比べてもお前は強いんだ。自信を持てよ!」

「違う、俺は弱い……」

 俺は情けない声を出していた。


「真面目すぎだ、アッシュ!」

 ラマスは俺の背中を再び強く叩いた。

「お前って兄貴がいる、お前の兄妹たちが羨ましいよ。ちょっと堅物すぎる兄貴だけどさ。──もしさ、俺がまた生まれ変われるなら、お前の家族に入れてくれよ!」

 そう言うとラマスは立ち上がった。


「──もう、行くよ。ティーナに、ちゃんと謝らなきゃいけないしな」

 黄色い花が風に舞う。その中央で、ラマスの姿は、やわらかな光に包まれていった。

「……本当に行くのか?」

 彼は俺の目をしっかりと見据えて力強く頷く。


 そして、深く息を吸い込み、呼吸を整える。

「俺は、ルーランド王国、ロー伯爵領、パニサ村のラマス。いずれ、王国一の戦士になる男」

 ラマスは声を張り上げた。やわらかな陽射しが彼の全身を照らしてゆく。少年──ラマスは、そっと目を閉じた。そして、再び開かれた瞳には、力強い輝きが灯っていた。


()()アッシュ・グエン・ローリー! 貴殿に命ずる! この声が聴こえるだろう! 救いを求める、数百、数千の声、名すら忘れた無数の魂の声を! 彼らは、お前を待っている。お前は、確かに俺を救った! だから、どうか、あいつらのことも救ってやってくれ」


 俺は知らず知らずのうちに涙を流していた。ラマスの言う通り、まだたくさんの声が俺のうちには響いていた。


「へへ、こういうの一回やってみたかったんだ!」

 ラマスは、微笑んだ。少しだけ、花冠を押さえる仕草をして。


 風が吹いて、花々を揺らした。少年の姿が、光の粒となって舞い上がる。その光のひとつひとつが、俺の胸の奥で、何かを打つ。


「……ありがとう。俺、お前に会えて、よかった。託したぜ、アッシュ」

 最後に、彼は、俺の名を呼んだ。

「ラマス!」

 そんな声もろとも、世界は静かに光へと溶けていった。


 やがて、俺は立ち上がった。強く唇を噛みしめながら。

 俺はもう、耳を塞がない。──その覚悟が、魂の奥に根を張る音がした。俺は、静かに目を閉じた。そして、聞こえ来るそのすべてを、胸の奥で聞いた。再び目を開けると、世界は、また暗闇に満たされる。


()()()


 俺は無数の声のもとへと、その一歩を踏み出そうとしていた。それは数百、数千の魂へと向かう、長い歩みへの一歩に過ぎなかった。それにはどれほどの時間がかかるのだろう。どれほどの困難が待ち受けているのだろう。


 情けない俺でいい。

 惨めで、みっともない俺でいい。

 迷いながらでいい。


 けれど、託されたのだ。──ラマス、俺、この道を行くよ。俺は少しだけ振り返り、小さく呟いた。

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