30. フェリムは全てを壊すのだ〈1〉
「無色の悪魔」と恐れられる存在がいた。
白髪の少女は触れるもの全てを破壊した。曰く──白い鬼がただ通った。そう誰かが言った。誰が言った? それは知れない。証言者不詳の証言。彼女の通り過ぎた後には、屍ひとつ、塵ひとつすら残らないのだから。
まるで遊戯のように彼女は通り過ぎる。その轍は、残酷なほど無色に染まる。散り積もった無色の上で、深紅の眼の少女は、悪戯な笑みを浮かべ、滅びの唄を歌う。喜びも、悲しみも、怒りも、慈しみも、その全てが意味をなさない。全てが、全てが壊れてゆく。祈りも、願いも、嘆きすらも呑みこんで──。
アッシュはまだ知らない。いつからか、人々はそんな彼女に底知れぬ畏怖を抱き、悪魔の一人として、その名を唱えたことを。フェリム・グエン・ローリー。その名は、誰の記憶にも残らず、もはや誰も語れはしない。遊戯の果て、知らずしてこの世界は、根源的な恐怖をその心奥に刻みつけられたのである。
❇︎
「お兄ちゃまなのだ!」
フェリムは俺の頬に手を当てると、押したり引っ張ったりした。
「本物なのだ! 本物なのだ!」
そう言って大騒ぎすると、はしゃぎながら空を飛び回った。俺は緊張感をめっきり失って「こら! フェリム。いちど降りてきなさい!」と思わず叫んでいた。
「俺との約束はきちんと守っていたか?」
目の前まで降りてきたフェリムの目を覗き込み尋ねた。
「ま、守っていたのだ」
フェリムは少し目を逸らして小声で言った。幼さはまだまだ残るが、随分と大きくなった。しかし、この子を前にすると、俺はどうしようもなく「お兄ちゃま」に戻ってしまうのである。
フェリムは無言のまま、跳ね飛ばした魔族の方をそっと指差した。原型もとどめているし、どうやら僅かに息もある。
「えらい、えらい」
俺はそう言ってフェリムの頭を撫でてやった。
「そうなのだ! わらわ、偉いのだ! とっても偉いのだ! ──ひとっつ。許可なくものを壊してはいけません、なのだ。壊すときは必ず許可をとりましょう、なのだ!」
「よく覚えていたな」
俺はもう一度褒めてやる。それに嬉しそうにしながら、彼女はようやく側にいるイーサたちの存在に気が付く。「ぎくっ」という音が聞こえるほどの驚きが表情に混じる。
「お、お姉ちゃまたちもいたのだな」
今度は飛んでダーリャに近づくと下からその顔を覗き込む。
「うぬぬ? 小さな猫ちゃま? うにゅにゅ……ダリアちゃまなのだ!」
ダーリャは髭を振るわせ「みゃあ」と鳴いた。
「フェリム、どうしてあなたがここにいるのかしら?」
イーサの言葉にはこれから始まるお説教の予兆が滲む。
「あ、あいつらが魔族のお家から飛び出して行くのを見つけたのだ。遊……じゃなくて、ていさつがてら、わらわ、追いかけてきたのだ!」
「ビリー兄さんたちやグリムは知っているの?」
「あ……なのだ」
「もう……」
呆れてしまい、それ以上イーサは何も言えないようだった。
「まあまあ。約束を守っていてくれて、またこうして会うことができた。俺はそれだけで嬉しいんだ。今回だけは大目に見てやってくれ」
「もう! 兄さんは昔からフェリムに甘いんです!」
「俺には、フェリムから得意なことを奪う資格も、何が良くて、何が悪いかなんて、物事の善悪を教える資格もなかったからな」
俺は遠い目をする。脳裏には何となくあの頃のガウル村での生活が浮かんでいた。そして、死んでいる間に、兄妹たちが家族の中で果たしてきたそれぞれの役割を垣間見ることができて、俺は無性に嬉しい気持ちにもなっていた。
「でも兄さん。フェリムったら兄さんとの約束を拡大解釈してやりたい放題だったんですからね。グリムが一生懸命に建てたガウルのお城を何回更地に戻したと思って……」
「うぬぬ、グリムが壊していいって言ったのだ!」
「そうか、そうか。グリムは相変わらず優しいな」
「うぬ! そうなのだ。グリムもたまにはいいところがあるのだ。だから、わらわ、お兄ちゃまとの約束やぶってないのだ……」
「そうか、そうか」
「兄さん、甘すぎます!」
イーサは頬を大きく膨らませた。
「お姉ちゃま。わらわ、お菓子みたいに甘くないのだ? それに変なのだ。わらわ、今は何だか、ちょっぴり、しょっぱいのだ」
フェリムの声は微かに震えて、目からは大粒の涙が溢れ出していた。
「よしよし。とにかく偉いぞ、フェリム。約束を覚えていてくれて。助けてくれて、本当にありがとう」
フェリムは涙を浮かべたまま、こくり、と頷いた。




