1. モーリス・スウェン男爵が生まれて死ぬまで──
前世のことはこの歳になった今でも思い出すことができる。
私、アッシュ・グエン・ローリーは、前世にまだ幼い弟や妹たちを残してきた。そんな痛切な心残りが、記憶よりも鮮明にこの胸に焼きついている。血のつながりこそないが、私にすれば血のつながり以上の深いつながりを彼らとの間に感じていた。彼らの流した涙の温度が、今でもこの身体に染みついたままだ。
「ごめんな……守りきれなくて」
私の言葉に彼らはどのような反応を示したのだったか。霞んでゆく視界の中には、ただ彼らの悲痛に満ちた表情だけがあった。
大陸北の辺境にひっそりと佇む寂れた村──ガウル村が、私たちの故郷であり、世界のすべてだった。七人の兄妹。ビリー、クリス、ダリア、イーサ、フェリム、グリム、ハイネ……。みんな、今はどうしているだろうか。彼らに二度と涙を流させないと強く誓ったのに、結局は私のせいで彼らに涙を流させてしまった。
「ごめん、みんな。俺の力が足りなかったから……」
「もう、喋るなアッシュ」
弟のビリーが言ったのを覚えている。私はどんな顔をして、どんな言葉で応えたのだったか。それは今も曖昧にぼやける。
きっとあの世界は苦しいままに続いているのだろう。あの世界は私たちには厳しい世界だった。厳しすぎる世界だった。
魔王、東の帝国、西に広がる諸王国、俺の知らない南方の国々──つねに争いは絶えなかった。辺境に暮らす私たちは魔王の顔など見たこともなかったが、そんな私たちでさえも、そのあおりを受け続けていた。家族たちの境遇の全ては、何かしらの争いに端を発していた。まだ小さかった彼らがあの世界で生きてゆくには、あまりにも厳しい現実が立ち塞がる。
「守りきれなかった……それでも、どうか──」
彼らが彼らなりに幸せで、尊ぶべき人生を送れたことを祈るしかなかった。もう私はあの世界にいないのだから。
私は後悔と失意のまま、十五年の生涯を閉じ、息絶えた。
死んだと思った。死の先には、無音の暗闇が広がると思っていた。……けれど私はふたたび目を覚ました。そして、見慣れない光景がそこには広がっていた。──そう、私は異なる世界に、モーリス・スウェンという名の赤子として転生していたのだ。
(生きている! 俺はまだ戦える)
目を開けた瞬間、私はそう思った。感情が昂った。
「あぁあ、あ!」
しかし、発した叫びは意味をなさなかった。何故か、身体も思うように動かせなかった。
(動け。動け! ──俺は一刻も早く兄妹たちの元へ戻らなければならないんだ)
私は訳もわからず泣き叫んでいた。……それからアッシュ・グエン・ローリーの死を、モーリス・スウェンとしての新たな生を、それらの全てを理解するまでには随分と時間がかかった。
「よく泣くのは、健康の証ですわ」
誰かが言った。後に乳母になる女性の言葉だった。
「モーリスよ、兄たちを支え、立派に生きるのだぞ」
「あなた、言ってもわかりませんわよ。まだ赤子なんですから」
「私たちのモーリスが健やかに育ちますようにと、そう言いたいだけなんだがな──なに、祈りのようなものだよ」
穏やかな父と母の声だった。
しかし、私の内から溢れる叫びは止まることを知らなかった。抱えたままの、あの世界での記憶がそうさせた。彼らの悲痛に満ちた表情と涙の記憶から、私のこの人生は始まったのだった。この時に知ったのだ。すべての赤子の無垢な涙には、前世の後悔がにじんでいるのだと。
モーリス・スウェン。伯爵家の三男。それが私の生まれ落ちた場所だった。前の場所には「もう帰れない」ということに納得できるまで、数年を要した。
この世界に魔法はなかった。悪人は変わらずいるが魔王も、魔物たちもいない。国同士の小競り合いこそあれ、大きな争いのない平和の時代が広がっていた。この世界は、「人が人として生き、人として死ねる世界」だった。しかし、平和な世界を生きようと、前世での後悔は片時もこの胸を去らなかった。
「父上、私は剣の道を修めたいと思います」
「モーリス、お前はまだ小さい。それに、世は平和だ。剣などこの時代には必要ないのだぞ」
「それでも私は、家族を守る力を手にしたいのです」
五歳になった時、父に懇願し、剣聖のもとでの修行を認められた。父や兄たちは俺の早熟な決意に驚きを見せたが、結果的には私の熱意に折れることとなった。前世での過信はすぐに明るみに出て、剣聖を前にして簡単にへし折られた。私が家族たちに教えた戦い方が、いかに粗雑で彼らのことを守り切れぬものだったかと痛感させられた。
剣の道の他にも、学べることの全てを学ぶことを欲した。貴族としての立ち振る舞い、政治、経済、宗教、理科学、哲学、文学……恐らく全ての学問が以前の世界より発達していた(あの世界で学問などしたことがなかったから、この感覚が合っていたのかは不明だが)。もう彼らのもとに戻れることはないとわかってはいても、せめてこの世界では後悔のないように生きたいと思った。
「あの時こうすれば良かった……」
そんな風にこぼしてしまう夜もあった。人生を振り返れば、そんな後悔に苛まれる時間も短くはなかった。決して晴らすことのできない後悔ほど、辛く苦しいものはなかった。
剣聖のもとで全ての学びを修めた。領地に戻ると、免許皆伝の実績から国王より男爵位を賜った。父の領地のほど近くに小さな領地を与えられた。領内の者はみな優秀で、私の出る幕など殆どなかったと言ってもいい。だからこそ、領地経営の傍ら、手にできるあらゆる書物を読み漁り、剣の研鑽も日々続けてくることができた。しかし、結局、この平和な世界では、実戦で剣を振るう機会には巡り合うことはなかった。
「鞘から抜くことのない剣こそが最も強い剣である」
平和すぎるほどの世界と時代の中で、長い人生を生きた私の、何よりの実感だ。
❇︎
百度もの季節がめぐり、愛しい者たちと出会い、その成長を見届けながら──私はまた、終わりの気配を感じていた。振り返れば、モーリス・スウェンとしての人生は決して悪いものではなかったように思う。もうずいぶんと長く生きた。この人生に思い残すことはない。そばには愛おしい家族がいる。
最愛の妻ナターシャ。
明るく芯の強い長女リーザ、
優しく賢いロゼ、少し気の強い末娘シャサ
──そしてその子どもたち、さらにその孫たちまで。
彼女たちが生まれたとき、最初の泣き声を聞きながら、私は心の中でそっと誓ったのだ。
「この子たちの人生は、できるかぎり穏やかで、幸せなものでありますように」
今、彼らが私の最期を見守るように集まり、静かに涙をこぼしている。だがその涙は、前世のあの時のような絶望に染まったものではない。もっと温かく、やわらかい、感謝と慈しみに満ちた涙であった。
……周囲に集まった家族たちの表情をひと眺めにする。
頭を動かすのも、霞んだ眼球を動かすのも、もうやっとだが、これで見納めなのだ。けれど、この世界に何も思い残すことはない。
小さい子らは何となく親たちの表情を見て、不安げな表情を浮かべている。私の生きたすべては彼らの中に託した。彼らの中に、この世界で満足げに生きた私の表情が生き続けることは願おう。
これで終いだ、笑って別れようお前たち。
「ああ、いい人生だった──」
私は自然とかすれた声で呟いていた。
大いなる光が眼前に広がる。この耳はいまだに働き、鼓膜を震わせ、皆の声を伝えている。でも、別れだ、ようやく皆のもとへ行けるのだ。
こんな俺を、皆は、待っていてくれるだろうか。随分と待たせてしまった。満足な生の先に、本来の死が待っているはずだ。天に登ろうと、地に堕ちようと、俺はようやく訪れる広く、平和な死後の世界で、彼らのことを探し求めるのだ。そして、誰を敵に回そうと彼らのことを何度でも守るのだ。
それが俺の最期の誓いである。皆が、遠く懐かしい皆の声が、今も俺のことを呼んでいる。
「さあ、そろそろ旅立とう」
こうして、百年のときを生きて、私、モーリス・スウェンは死んだのだ。