26. 勇者の身体〈1〉
道中は厳しかった。森は深く、濃い霧に覆われて、嫌な匂いで当たり一面が満たされていた。鼻のいいダーリャはずっと気分が悪そうにしていた。
「ユウキ殿、大丈夫か?」
ユウキは匂いにやられたのか、それとも昨晩の酒が残っているのか、青白い顔をしていた。彼は昨夜の飲みすぎたことを謝った。しかし、自分の話したことをあまり覚えていない様子だった。
「戦いの前はいつもこうなんです」
そう付け加えると、彼は脇道に逸れて派手に嘔吐した。イーサは「勇者のくせにだらしないです」と言いたげな顔で俺を見た。
出発前に各々の力について共有する時間をつくった。もちろん妹たちの力はあくまでその一部だけを開示した。勇者には、その名の通り「勇者の剣」が与えられている。彼の戦闘はそれを振るうのみとのことだった。
目的地に近づくにつれて、霧の濃さが増してきた。
空気が粘り気を帯び、肺の奥に何かが絡みつくような重さを感じる。
俺たちは警戒心を強めた。
すると、ダーリャが何かを嗅ぎつけ「みゃあ、みゃあ」と何度も鳴いて注意を引いた。ダーリャは俺の頭から飛び降りると、森の茂みに入った。
「……これは」
「こいつは、たぶん……」
追いかけてきたユウキが口元を押さえながら呟いた。微かにその手が震えていた。
見るも無惨な姿だった。
肉は食いちぎられて、臓器は余さず食い散らかされていた。骨が突き出し、原型を留めていないが、傍に残されている装備や武器から、ギルドで見かけたことのある上級冒険者のパーティーのものであることが伺えた。
「兄さん、今の私では……」
イーサは俺の耳元に近づき小声で言うと、亡骸に手を合わせ祈りを捧げた。俺もまた手を合わせながら、生唾を飲み込んだ。奴が近くにいる。
「後でゆっくり供養してやろう……」
(冷静になれ。皆がいる。進むべき道、俺は今の自分にできることをやるんだ)
俺は自分自身に語りかけるように、心の中で呟いていた。
その中で、低く唸るような気配が跳ねた。
──来た。
突如、霧を裂いて現れたのは、灰色の毛並みを持つ獣人型の魔物。
奴だった。しかも今回は三体。前回同様、異様な強者の覇気がひしひしと俺の肌を焼いた。
いずれも巨大な人の骨格を持ち、筋肉だけを異様に肥大化させたような異形。腕は地面に届くほど長く、背骨が盛り上がって狼のように湾曲していた。灰色の毛並みの中に二つ、真っ赤に光る目が、薄暗い霧の中に怪しく光った。
俺は息を呑んだ。
剣を握る手が震えている。左腕が激しく脈を打って疼く。
まるで、殺せ、殺せと唸るかのように。
しかし、俺は以前より冷静に奴らを観察していることにも気がついた。イーサとアイリッシュもすでに身構えており、ダーリャも毛を逆立て威嚇の態勢をとっている。ユウキもまたすでに勇者の剣を抜いて、濃霧に濡れるその切先を奴らに向けていた。
「……ユウキ殿、俺たちが遭遇したのは奴だ!」
俺が叫ぶや否や、何故だか奴らはまるで俺たち兄妹を無視するかのように、全ての敵意をユウキに向けて襲いかかった。
最初の一体が地を蹴る。
音もなく、獣のような加速でユウキに飛びかかる。
ユウキは先ほどとは豹変していた。その顔には焦りも、怒りもなかった。ただ、勇者としての本能が剣を構えさせているような出で立ちだ。しかし、その目の奥に静かな恐れと僅かな躊躇いのようなものが見えたように、俺には感じられた。
彼は一歩も退かず、逆に半身を捻って斜めに転がるように避けた。そのまま剣を横に薙ぎ払うと、刃が魔物の背中を浅く裂いた。血飛沫が霧に混じる。
返す刃を受けるように、二体目が腕を振り下ろしてきた。ユウキは剣を立ててそれを受け止める。金属が悲鳴を上げ、彼の足が一瞬沈む。腕が痺れるのが、遠目からでも分かった。
「耐えた、のか……?」
三体目が背後に回り込む。
(まずい、死角だ)
俺が声をかけようとした瞬間、ユウキは足を滑らせるように地を蹴り、斜めに跳んだ。倒れ込む勢いのまま、逆手に持ち替えた剣を突き上げ──そのまま魔物の喉を貫いた。咆哮。肉の裂ける音。膝を折って崩れる。致命傷だった。
彼は肩で息をしながらも、決して剣を下ろさなかった。残る二体は慎重に間合いを取っている。だが彼の視線は揺れない。疲労はある。痛みもあるだろう。それでも、崩れない勇者の矜持のようなものが、あの小さな背に宿っていた。勇者の身体が、まるでその魂を牽引し、その動きを先導しているかのようだった。
「これでも一応、勇者なんでね──」
息を切らしながら、ユウキは言った。




