22. 進むべき道
意識が戻る感覚がある。波打っていた世界が、徐々に落ち着きを取り戻していく。気がつけば、俺は再び、現実の自分の身体に戻っていた。「俺自身の身体」という感覚がある。
「兄さんっ!」
視界に飛び込んできたのは、イーサの顔だった。
泣き腫らした目で、俺を見つめている。
「ここは……?」
「ピカホンタスの宿屋です……兄さん、三日も目を覚まさなくて。イーサの、私の魔法も全然効かなくて」
俺は胸の上に温かみを感じて見下ろした。ダーリャがちょこんと座っている。まるで、自分が何か大きなことをやった実感などないかのように、無邪気に。
「……ダーリャ」
「みゃ」
とだけ鳴いて、伸びをすると、近づいて俺の顎のあたりを舐め始める。その小さな重みに、小さな熱に、俺の魂はようやく地に足をつけたような気がする。
「……ただいま」
呟いた俺の声に、イーサの顔が崩れた。
泣き笑いのような表情で、俺の首にすがりついてくる。
「兄さん、もうやだよ……またいなくなるかもって、考えるだけで、怖かった……」
「ごめん……心配をかけた」
俺がイーサの方にだけそう言うのに、ダーリャは不満げな表情を浮かべる。
「……ありがとな、ダーリャ。お前が、俺を引き戻してくれた」
俺は左腕が微かな痛みに疼くのを感じた。感覚こそあるが、指先は震えていた。奴に喰われた部分に目をやると、痣のように黒く、不気味な紋様が、染み出すように広がっていた。……そうだ。魔王の身体は、まだ俺の中にいる。完全には消えていない。だが、俺の魂もまた──完全には喰われずに残っている。だけど……。
「いくらやっても、その痣が消えなかったんです」
「みゃあ」
ダーリャは今度、俺の左腕をぺろぺろと舐め始める。
変わらず確かな感触がそこにはあった。くすぐったい重みも、熱も、匂いも、微かな産毛の震えまで。しかし、その感触が果たして本当に俺自身のものなのだろうか? という疑念はこの胸を完全に去ることはなかった。
アイリッシュは、冒険者ギルドからあの怪物についての詳細な報告を求められ、ちょうど出向いているところだった。俺はイーサに眠っている間に自分の身に起きたことを語って聞かせた。彼女は俯きながら、俺の話を聞いていた。
「せっかくイーサたちがこの世界に俺を帰してくれたのに……。守れないかもしれない、傷つけるかもしれない。俺は兄失格だ……何のために……」
「兄さん、何度でも言います……兄さんは悪くない!」
イーサは俯いたまま声を荒らげた。
「でも……」
俺は小さくこぼした。
(俺がもっとしっかりしていれば。魔王の身体など抑え込める力があれば。もっと前世で準備を重ねていれば。身体じゃない、俺の心は、どうして俺はこんなにも弱いままなのだろう? そもそもここにいる俺とは何なのだろう?)
俺の脳裏にはそんな言葉が駆け巡っていた。イーサが何を感じ、何を考えて、俺のそばにいてくれたのか。俺は何をやっているんだ? そんなことを考えもせずに。俯いたままの彼女が、沈黙の中で震えていたことに気づきもせずに──。
ぴしゃりっ。
と音がした。その後で頬がジリジリと痛むのを感じた。何が起こったのか俺にはすぐに分からなかった。
突然立ち上がったイーサが俺の頬を叩いていた。
「兄さんのばか!」
彼女は叫ぶように言った。
「ちゃんと私を見て! 私たちを見て! 今の兄さんは自分だけしか見てない!」
俺は呆然としていた。
「私はここにいるんです。兄さんを見てる、今ここで」
優しい声を取り戻したイーサの瞳は、今にも溢れ出しそうな涙でいっぱいになっていた。
「私たちは、守ってくれる兄さんを好きなんじゃない。……兄さんが兄さんだから、大好きなんです。兄さんが強いことなんてとっくに知ってるんです」
「それは昔の話で……俺は強くなんてないんだ。お前たちの方がよっぽど強い。守られてるのは俺の方なんだ」
「……お互いの不足を補い合う、助け合うのが家族なんだって兄さんが言ってたでしょ。だから皆が努力して、みんなで強くなるんだって。兄さんが死ぬとき、言ってくれたあの言葉があったから、私たち兄妹はここまで生きてこられたんです」
「……」
「兄さんの言葉が私たちを震わせたから。私たちは折れずにここまで生きてこられたんです。兄さん自身がそれを否定しないで……」
彼女の言葉はとても静かだった。それでいてとても力強くもあった。
「みゃあっ」
俺の手を舐めていたダーリャもイーサの言葉に頷くかのように、短くも力強く鳴いた。
(俺は何をやっていたんだろう? 彼女の言う通りだ。俺はずっと自分のことしか見ていなかった。「守る」ことだけを考えて、それができない自分の姿だけを恥じて、一人で悔やんでばかりいた。兄妹たちの想いを度外視にして。ずっと……)
イーサは顔を俯けて静かに泣いていた。ただでさえ泣き腫らしていた彼女の顔がこれ以上涙に濡れるのを見たくなかった。でも、彼女を泣かせているのは、他ならぬ俺なのだ。俺の中で、怯えて、震えていた何かが、ようやく穏やかに静まっていくのを感じた。
「イーサ、ごめん。でも、やっぱり俺は弱い」
「アッシュ兄さん……!」
「でも、弱いからこそ、俺は俺のできることをやる。それが俺だ」
そうだ、元から俺はそうだった。
ビリーやクリスの方が腕っ節が強かった。ダリアやイーサの方が優しく才能に溢れていた。フェリムやグリムの方が規格外の力を宿していた。ハイネの方がよっぽど頭が良くて、ずっと頼りになった。
「こんなんだけど、皆がいてくれて初めて兄なんだ。弱っちい兄だけど、ずっと、そばにいてくれて、ありがとう。イーサ。これからも頼りにしてる」
それは俺の素直な言葉だった。
「兄さんは、兄さんは最強なんです! 強くて、かっこいいんです!」
そう言うとイーサは力強く俺の胸に抱きついた。
ダーリャもまた負けじとその顔をこれでもかと俺の頬に擦り付けた。
「俺は、どうせまたうじうじするぞ」
「どんとこいです、兄さん!」
どれほどの時間が過ぎたのだろう?
俺の中の迷いや葛藤、不安や、怯えが完全に消えたかと言えば嘘になる。それでも、俺は、二人を抱き寄せながら、彼女たちのなかに映り込む、俺自身の信じ「進むべき道」を静かに見つめ続けていた。
そんな最中、扉が開き、アイリッシュと共に見知らぬ青年が部屋口に立っていた。その存在に気がつくまで、俺には今しばらくの時間が必要だった。




