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21. 美味な魂

 俺は喰われるのだろうか? うつ伏せに倒れた俺を、黒い波がじっとりと浸してゆく。そして、次第に全身を浸したそれは、再びあの頃の兄妹たちの姿に変貌して俺の周囲を取り囲んだ。


「やめろ……やめてくれみんな」

 呻くように俺は言う。

「悪いのは兄さんよ」

「そうだぜ、アッシュ」


(そうだ。悪いのは俺だ。彼らには俺を喰らう権利がある)


「お兄様もわかってくれたのだし、皆でいただきましょう」

「そうね、アッシュ兄に感謝を」


 身体は動かない。俺はここで彼らに喰われる。彼らに喰われるのなら本望なのかもしれない。背後では、奴の──魔王の身体の薄ら笑いが聞こえる。


「わらわも食べるのだ!」

「僕も、もらう」

「ぜーんぶ、全部。お兄ちゃんが悪いんだよ」


 兄妹たちの無邪気な笑い声が響き、左腕に強烈な痛みが走る。皮膚が裂け、血が流れる。肉が千切れて、骨が砕ける音がする。声を出すこともできない。痛みに悲鳴をあげる力もない。


「おお、なんという美味!」

 奴が絶叫する。

「これほどの魂であったか! 熟成されている。()()()()()()()()()()()()……いやはや私の見込み違いであった。なんと、なんと美味な魂! 喰らっても、喰らっても、涎が滴るぞ」


 奴は無我夢中で俺の左腕を貪り喰らっている。美味そうに喰らう奴の顔は、形容し難い狂気に満たされている。


「……俺を、喰っているのか」

 完全にもぎ取られた左腕の、奴がまだ口に運んでいない指先の感触が不気味に残されている。それも、奴が口に放り入れて、ぼりぼりと噛み砕くと同時に消えてゆく。まるで、自分という存在が脈略もなく細々と切り分けられていくようだった。

「さて、次はどこを頂こうか」


「……?」


「それでいいの? それで。お兄ちゃん」

 ふと、耳元で誰かが囁いた。まるで幻聴のように近くて遠くから聞こえた。だが、その声には確かに、聞き慣れた、温もりが宿っていた。


「ダリア……?」

 かすれた声が漏れる。黒い波の中から、今度はひときわ小さな人影が浮かび上がった。暗闇の世界に一際白く輝く、青髪の少女──いや、猫の形をした、小さな影。


 ダーリャだった。


「お兄ちゃんは、こんなとこで終わらない。あたしは知ってる」

 猫の瞳が、俺をまっすぐ見つめていた。だがその奥に、見慣れた炎が灯っている。ダリアの──その魂の欠片。


「ちっ。食事中だというのに」

「来ちゃった。あたしの魂の欠片が、勝手に引っ張られたみたい」

 ダーリャは小さく笑った。

「兄さんの魂が……泣いてたからかな?」


 その言葉とともに、足元の波がわずかに退いた。否、波の内部にいた“兄妹たちの姿”が、一瞬たじろいだようにも見えた。

「ふざけるな! 小娘ごときに……!」

 魔王の身体が怒声を上げる。

「失せろ。この私が食事の途中だろうが。貴様のような前菜にも足りぬ欠片の分際で、我が饗宴を邪魔されてたまるか!」


 ダーリャ──ダリアの魂は、ぴくりと耳を動かした。

「そうか……あんた、あの時の魔王ね」


 すると猫の足元に、漆黒の魔法陣が展開された。その漆黒は暗闇の中ですら美しく輝く。彼女の中で燃え盛った静かな怒りが、漏れ出してきたかのようだった。

「お兄ちゃんはね、あたしたちの大切な人なんだ。誰にも食べさせたりはしないよ」

 ダーリャの声は、どこまでも静かだった。

「消えろ」


 その凄みに、黒い波が揺らぎ、やがて逃げ出すのかのように引いていく。魂の亡骸たちが散り、兄妹たちの幻影は音もなく崩れていく。魔王の身体はまだ残っていた。だが、その影は薄れ、先ほどまでのような存在感も失われている。


「……これで終わりじゃ、ないぞ……」

「うん。知ってる」

 ダーリャはうなずいた。

「けど、今は、あたしのお兄ちゃんに触るな」

「いずれお前の慕う兄は私が喰らってやる。お前たちが何をしようと……」

「あたしさ、消えろって言ったよね? それにお兄ちゃんは、あんたなんかに喰われない。喰われるのはあんたよ」

「お前たちはこの魂をわかっていない。この魂の由縁を。……私をここに閉じ込めたお前たちの愚かな判断を、後悔する日がやがてくるだろう。それに左腕は喰らった。いずれその全てを私が食らい尽くして……」


「だからさ、消えて──」


 どのような力を使ったのか俺には分からない。けれどダーリャの言葉で奴は跡形もなく消えた。沈黙、それがどこまでも空間を満たした。そこに微かな残響のみを残し、沈黙がそれを鋭く浮き立たせていた。


 魂の空間が静かに収縮を始める。


 ダーリャが俺の耳元で「みゃあ」と小さく鳴いた。もう言葉を発することはない。そして放心する俺にすり寄ると、頬をペロリと舐めた。


「塩辛いだろ。泣いてたから」

「みゃ、みゃ」


 ダーリャの、そのざらざらとした舌の感触が、この時の俺にとって何よりも確かなものに感じられた。

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