20. 魔王の身体
視界は暗く、感覚すら曖昧だった。重力のない水の中に沈められたような感覚。耳鳴りのような静寂が広がり、心臓の鼓動さえ自分のものでないような気がした。ここが現実なのか、夢なのか、それとも死後の世界なのか──判然としない。ただ、沈黙の奥から微かに、誰かの“気配”が近づいてくるのを感じた。
そして、そこに冷たく奇妙な声だけが浮かび上がった。
「──やあ、初めまして」
「お前は誰だ!」
俺は闇雲に叫んでいた。
「ああ、すまない。これでどうだろう?」
暗闇の中に淡い輪郭の男が現れた。それは見覚えのある相貌をしている。それは俺自身の姿だった。だが違う。目が違う。笑みの奥に沈む光が、獣のように濁っている。相手は俺の姿で、芝居がかった軽薄な笑いを浮かべた。
俺は本能的に身構えた。
剣はなくとも、拳がある。
身体はもう、思うように動いた。
「何者だ。妹たちをどこにやった」
「焦るなよ、アッシュ・グエン・ローリー。そうだな。あえて言えば、ここは私の中で、君の中だ」
「……どういう意味だ」
「ようやく話を聞く気になったか」
「お前次第だ。まず名乗れ!」
俺は身構えた。
「名か。私自身、名前を必要としたことがないから困る。強いて名乗るなら──魔王の身体そのもの、とでも言おうか。そして、私はお前を喰らうものだよ、アッシュ殿」
「魔王の……身体?」
(ハイネが手紙に書いていた……まさか)
「そう。私は肉体。意志を持ち、ここに訪れた幾多の魂を喰らい、私は私であり続けてきた。強き者も、誇り高き者も、正しき者も、邪悪なものも──喰らって、血肉とした」
「じゃあ、俺を喰いにきたってわけか?」
「まだ、だ。君の魂が昂った今──その瞬間の隙を突いて接触した。ただそれだけだよ」
「……隙?」
「ああ。君は、兄妹たちを守りたいという意志が強すぎる。だがその意志が昂る一瞬──魂に“空白”が生まれる。その瞬間が私が付け込む隙なのだ」
俺の脳裏をよぎるのは、つい先ほどの情景だ。あの怪物を前にして、俺は激しく感情を昂らせた。魔族を目の前にしたあの日も、そうだ。あの瞬間、俺は確かに感情に突き動かされていた。だが、その感情が燃え上がった次の刹那、内側にぽっかりと穴が開いたような感覚があった。
何かを叫ぼうとした声が引きつり、筋肉が凍る。まるで自分の“意志”だけが、どこかへ滑り落ちていったようだった。そこに、こいつは入ってきたのか──。
「……あれはお前の仕業か」
「仕業というより、本能だ。私は魂に生じる空白を喰う。魂が自我を手放した刹那に、喰らう。そして、支配する」
「だが、今はできない。そうだろう?」
「ああ。今回はちょっとばかり想定外。そう、厄介なことになっていてね」
魔王の身体──奴はゆっくりと口元を歪めた。
「何故だか知らないが厄介にも、君本来の魂の器に、私の器の一部が溶け込んでしまっていてね。完全に分離できず、融合もできない。おかげで私も君を喰らえず、君も私を制御できない。今は拮抗状態。互いを“喰らい合っている”」
「ふざけるな! これは俺の身体だ。そして、この魂も喰らわせはしない!」
「君がどう思おうと自由だ。だが、今この瞬間も、君は私の中にいる。そして私は君の中にいる。私たちは、互いを喰らい合っているのさ」
「くだらない。俺は俺だ。誰にも喰われはしない」
「……そう思うなら、それを証明してみせろ。怒れ、怒るんだ。魂が昂るその刹那、私は“主導権”を奪える」
空間に軋みが走る。奴の影は、禍々しく歪み、胸の奥に焼きついている光景を演じ始める。
崩れ落ちる村、傷だらけで逃げる兄妹たち……何もできずに死んでいったあの日の自分──。俺を断罪するかのように過去が押し寄せる。あの時、俺はただの無力な兄だった。叫びたいのに声が出ない。拳を振るいたいのに身体が動かない。悔しさと怒りが交差する。
……その隙を、黒い波が嗅ぎつけた。
影がふたたび形を変える。
兄妹たち……そして、無数の手。顔。呻き声。過去に喰われた魂たちが、黒い濁流のように現れる。魂の怨念は兄妹たちを次々と呑み込んでゆく。
「やめろ!」俺は叫ぶ。
「これは“私の記憶”だ。喰らってきた者たちの残響。さあ、アッシュ・グエン・ローリー。存分に怒るがいい。怒れ。激情に身を任せよ!」
黒々とした波が迫る。
その中心で、込み上げる怒りを胸に、俺は無力にも立ち尽くしていた。
身体が、動かない。
魂が、俺が、揺らぐ。
また、あの感覚だ──俺の中に生まれる“空白”。
激情のあとの虚無。憤りが過ぎ、何も感じられなくなった一瞬。
動けない。
俺は、また──




