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15. 勇者ユウキ・ハヤマ

 目を開けた途端、吐き気が込み上げた。

 鼻腔を突いたのは、血と焦げた脂、乾いた土と草の混じった匂い。その全てが俺には不快だった。喉は焼けつき、呼吸もままならなかった。ざらついた灰色の石床。その冷たさが、頬にぴたりと張り付いていた。耳鳴りのような低い詠唱の名残が、まだ澱んだ空気の上に残されていた。


「成功だ……!」

「これほどの魂、見たことがない……!」


 誰かの声が、幾重にも重なって反響していた。嫌にリアルな夢だと思えた。いや、夢だと思い込みたかった。見上げれば、黒衣の男女が円を描くようにして立っている。異様な静寂のなか、彼らは無言のままこちらを見下ろしていた。


 俺を見下ろしたのは感情のない目──ただこちらを“確認”しているだけの目だった。この目には見覚えがある。就活の面接。失業手当の面談。派遣の登録、バイトの面接……ああ、何度も、何度も、何度も、人生を通して嫌になるほど俺に向けられてきた種類の視線だった。——この人間は、使えるのか。ただそれだけを性急に判断しようとする目。


「名は、ユウキ・ハヤマ。異界ニホンより召喚せし魂なり」

 連中は名乗っていないのに、俺の名前を知っていた。

「貴殿は神に選ばれし勇者。この世界に災いをもたらす魔王を討つために呼ばれた」


 勇者。魔王。選ばれし者。


 どこかで聞いたような単語ばかりだった。だが、実感はなかった。俺の中身が、そういうものに適応するとは、とても思えなかった。


❇︎


 端山ユウキ。三十歳。MARCH卒。経済学部。

 両親は堅実な人間で、俺の学歴にそこそこの誇りを持っていた。新卒では中堅商社の子会社に就職した。でも、二年ちょっとしか保たなかった。


 指示待ち人間だと揶揄された。逆に思ったことを正直に言えば、空気が読めてないと笑われた。上司と飲みに行けば、「お前は口だけは一丁前だな」と言われた。だから俺は沈黙を選んだ。その沈黙が、ストレスに変わり、いつの間にか、社内で問題になった。


 辞めた後は転職を繰り返し、非正規雇用になり、短期の契約がいくつか続いた。正社員の求人は、年齢で弾かれはじめていた。履歴書にあるのは、短い職歴と広い空白だけ。同年代が、結婚して、子どもを抱いて、家族を築いていた。SNSで流れてくる笑顔の写真を、皮脂の滲んだ指で何度もスクロールしながら、悔しさを通り越して、怒りが込み上げることすらあった。


 俺はもう、社会からはみ出した側の人間なんだと思った。


 彼女もいない。一度だけ、アプリでマッチした女と会う約束をした。浮かれた気分で集合場所に立った俺の元には一向に誰も現れなかった。

「ちょっと思ってたのと違った」と短文のメッセージが届き、そのままブロックされた。

 それ以来、アプリはやめた。


 素人童貞。もう、そんな肩書をどうこう言う歳でもなかった。

 でもそれは、ずっと誰からも「触れられことのなかった人間、触れることのできなかった人間」の証明のように思えた。誰にも望まれず、誰の記憶にも残らず、ただ一人で、三十歳になっていた。


❇︎


 与えられた部屋は、重厚だった。

 深紅の絨毯、天蓋付きの寝台、燭台の火。壁は分厚い石で、窓からは濃い霧と雨の音が入り込んでくる。だが、暖かくはなかった。灯りは蝋燭のみ。天井は高く、音はすぐ吸い込まれていった。


 風呂も、洗面台も、電気も、ない。トイレは廊下の突き当たり。仕切りも扉もなく、穴を穿っただけの椅子が置かれていた。布団からは、誰かの汗と獣脂のような臭いがした。


 ここには、清潔も、便利も、安心もなかった。かつての狭いアパートの方が、よほど“人間らしい空間”だった。


 食事が運ばれた。焦げた肉。香草のスープ。異様に硬いパン。銀の皿には、誰かの指の跡がうっすらと残っていた。水はぬるく、底には泥が沈んでいた。俺はスプーンを取った。だが、手が止まった。


 異世界——それは、別の文化ではなく、別の“時代”でできていた。


 異世界に召喚されたアニメの主人公たちのような、根気も知識も俺にはない。俺が何となく「持っている」と感じていたものの殆どは、日本にいて、何でも検索できるスマホを握りしめ、溢れる資材と技術に囲まれていることを前提にしていたのだと思い知る。


 ベッドに横たわる。目を閉じた。闇は来なかった。ただ、蝋燭の火が石壁に揺れて、近くで鼠が走り去る音がした。夜毎の癖で股間に伸ばした右手も、途中でその気力が失われた。


 ──中学生じゃないんだから、想像じゃ抜けない。


 エロ動画も、エロ同人も、何のおかずもないのが悪いのだと念じてみたが、それ以上に、体の怠さは欲求を減退させるのに十分なものだった。


 眠れ、深く眠れ、強く念じるほどに、眠りは遠ざかった。


 魔王を倒せ? 

 神に選ばれた? 


 この身体のどこに、そんな資格がある。磨耗したおっさんの魂にいまさら何を望む? 誰も説明しない。誰も、「俺がなぜここにいるのか」を語ってくれない。確かに連中は俺を「勇者」と呼んだ。でも、それは名前ではなかった。ただのラベルだった。その中身に価値はなかった。


 これまでの人生でも、同じだ。履歴書、学歴、職歴。どれだけ丁寧に言葉を選んでも、中身は必要とされなかった。──中身はどうなっているか? それすらも価値を示すための立派なラベル張りの作業でしかなかったのだろう。どうやら、ここでも、それは変わらないのだ。


(どうやってこれを現実と信じ、前を向けというのだろう? いや待て、これまでの現実だってそうだったじゃないか。異世界転生か……前の暮らしとそう変わらないのかもしれない)


「ふふ」ひとりでに笑いが溢れた。


 俺はまた目を閉じた。息をひそめるように。

 眠れなくたっていい──。

 ここで今だけは、誰の目からも自分を隠せる闇の中にいたかった。

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