10. 次女ダリア・グエン・ローリー〈2〉
「蒼白の悪魔」と恐れられる存在がいた。
彼女は無垢な笑みを湛えながら、血に飢えた獣や異形の魔物どもを従え、ゆっくりと、だが確実に破滅を撒き散らした。その後に残るのは、巨体の群れが残した轍と、肉が裂け、血が飛び散り、悲鳴すら呑み込まれた沈黙の痕跡──屍すら残さぬ饗宴の果てであった。
死者はやがて死霊と化し、かすれた嗤い声を上げながら彼女にまとわりつく。まるで戯れるかのように、まるで恋い焦がれるかのように。荒野をゆく彼女の足音が遠くから響けば、人々はその音だけで凍え、膝をつき、ただひとこと「死のパレードが来る……」と、蒼白の表情で呻くしかなかった。
アッシュはまだ知らない。いつしか、人々はそんな彼女に恐れ慄き、悪魔とその名を唱えたことを。ダリア・グエン・ローリー。それは血に刻まれる呪詛のように、魂を引き裂き、肉を震わせ、逃れ得ぬ恐怖を植えつける名だった。
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「あたしね! アッシュお兄ちゃんに会ったら、お兄ちゃんの匂いをいっぱい堪能するって決めてたの」
ダリアは、アイリッシュが用意してくれた部屋に向かう道中も、ずっと腕を組み、俺から離れず、ぴったりとくっついていた。頭部を擦り付けて、何度も匂いを嗅いだ。
「嬉しいな、嬉しいな」
彼女の声は終始上機嫌だった。
前を歩くイーサは何度も振り返り、冷たい視線をこちらに向けてくる。その横顔には、明らかに面白くなさそうな気配が滲んでいた。まるで「そこは私の場所なのに」とでも言いたげに。
「ほんとはね、起きたらすぐにでも会いたかったの。枕元にずっといたかった。でもあたし、お仕事があってね」
ダリアはまるで気にする様子もなく、会話を続けていた。
「ダリア、その気持ちだけでも嬉しいよ。それに……自分の役割をしっかりと果たしてくれてたんだな」
「うん!」
彼女は俺の言葉に鼻を鳴らした。
「あたし、ずっとこの匂いを探してたんだよ。あの日に突然消えちゃってからずっと、お兄ちゃんの匂いがどこからもしなくて……。それがね、ある日突然、ふわって、お兄ちゃんの匂いが漂ってきたの! あたし、それがどんなに嬉しかったか!」
俺は自分の体臭を気にして思わず身を引いてしまう。確かにモーリス・スウェンとして死ぬ間際、俺は寝たきりで水浴びもろくにできていなかった……だが、そのおかげで彼女が俺を見つけ出してくれたのなら俺は幸運という他ない。
俺は足を止めた。ダリアの小さな頭に手を置いて言った。
「俺を見つけてくれて、ありがとう。ただいま、ダリア」
「うん! おかえり、お兄ちゃん!」
彼女は目を潤ませて、そう返事をするのだった。イーサとアイリッシュも足を止めて振り返り、言葉もなく微笑んだ。
「……それと、もう一度聞くが、ダリア。あのエンペラーガーゴイルたちは本当に安全なんだな?」
「大丈夫だよ! あの鳥さんたちはみんなあたしが街を守ってもらうために呼んだお友達なの、今は、イーサちゃんが書いてくれたお手紙を持って、みんなの元に飛んでいってもらったよ! さっきは驚かせてごめんね、お兄ちゃん」
そう言って、ダリアは屈託なく笑った。
「それにしてもあいつら、鳥さんというにはあまりに厳つい顔をしていたが……」
「お兄ちゃんも後で頭を撫でてあげて! お前たちも偉いなって。すっごく優しくて、かわいい子たちなんだよ!」
無邪気なダリアに、あの「鳥さん」たちの禍々しさを思い出して俺は思わず苦笑していた。しかし、ダリアもまた、俺がいない間に途轍もない努力を積み重ねてきたであろうことを想像して、熱く込み上げるものがあった。
「さあ、こちらです!」
少し歩いて、俺たちは皆が執務室と呼ぶ部屋に到着した。道中、怪しげな玉座を戴いた大広間も目に入ったが、今はあえて触れないことにした。
「こちらも、街全体がよく見える位置にあるんです。機能としては執務室ですが、お仕事でお疲れの際にすぐ休めるよう、ベッドとソファも最上のものを揃えました! あくまで仮の寝床なので、毎日お家に帰られることを、私はおすすめしますが──」
アイリッシュは丁寧に説明した。よく整えられた部屋の窓からは街全体がよく見えた。彼女が説明を終えぬうち、ダリアが一目散にベッドに駆けていって勢いよく飛び込んだ。
「ふっかふかだよ、お兄ちゃん!」
「こら、ダリア! 兄さんのベッドなのよ!」
イーサが思わず声を荒げる。それからも続いたイーサのお小言にも、ダリアは笑って誤魔化しつづけていた。
それにしても、この二人の関係性は昔から変わっていない。ダリアの方が半年ばかり早く生まれているだけで、同い年の姉妹は小さな頃からずっとこんな感じだった。背丈も伸びて、少し女性らしい体つきになったが、中身はあの頃の小さな二人のままだった。
「アイリッシュ、素敵な部屋をありがとう!」
俺がそう言うと、アイリッシュは嬉しそうな表情を浮かべた。俺はまだこの子のことをよく知らない。それでも、みんなが家族として認めたんだ。これから彼女のことも知っていかないとな、俺は強くそう思った。
俺はソファに腰を下ろす。どっと疲れが押し寄せ、一気に腰が沈む。
イーサ、ダリア、アイリッシュ──三人の妹たちが何か言い合っている姿を見ながら、「夢じゃない。本当に、帰ってきたんだな……」と、胸が熱くなる。
と──ダリアが再び俺のもとに駆け寄ってきて、ぴたりと寄り添い、俺の匂いを嬉しげに嗅ぎ始めた。
「ダリア! あなた、また!」
イーサが叫ぶ。
「……ダリア、ちょっと、俺はそんなに臭うか?」
「うん、すっごく!」
屈託ないダリアの言葉に俺はがっくりと肩を落とす。
(七年経って、俺はまだ二十二歳のはずだよな? 前世の娘たちが父親の匂いを避けるようになったのはまだ先のはずだが……)
「……うーん、なんかね、魂って、匂いがするんだよ。それでね、お兄ちゃんのは他とは全く違う特別な匂いなんだ! お兄ちゃんと初めて会った時から、それまでに会ったどんな魂とも違うつよい匂いがしてたの!」
「魂の匂い?」
「そう、魂の匂い!」
その言葉の真意を聞こうとした時、ダリアの表情が急に変わった。
突如、窓辺に顔を向け、眉を寄せる。
「……嫌な匂い。西門のほう。来る」
静かな声だった。だが、俺の胸にも同じように嫌な予感が押し寄せていた。




