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ドレス・ロス・プロメッサ


 私はあの日、生まれて初めて人を殴った。

 私はとても弱かったのだ。

 私はドレスみたいに美しさも、誠実さも持っていない。

 私はプロメッサみたいに知識も、知恵も持っていない。

 私が持っているものといえば、お金持ちの父と、厳格な母と、息をするように嘘を吐く口と、浅い繋がりの大勢の友達だけだった。

 だからあの日、私は自分の空虚さに耐えられなくなって、愛すべき親友に手をあげた。

 私はあの日、怒りで我を忘れてしまったのだ。

 そして今日、あれ以来、ようやく彼女たちと話し合えたため、こうして文字にしてそれを記すのである。

 だって私の口は、本当に嘘ばかり吐くのだから。そんな軽薄な、汚い息で、この思い出を汚したくはないのだ。

 ただ、そんな風に、声ではなく文字なら嘘を吐かなくて済むというのは、あくまでも、嘘をついてしまう癖がある私だけの、日記の利点だろう。

 日記本来の利点とは、きっと、ごみ箱に捨てない限り、言葉がずっと残り続けることだ。

 だから私は、私が過ちを犯した後、それでもこんな私を包んでくれた親友たちの真摯な言葉を、きらきらとした宝石を、この日記帳という宝箱にしまい込み、明日からの人生の糧としようと思う。


 怒りで我を忘れるというのは、間違いだ。

 怒りでこそ、我を覚えるのだ。

 怒りのあまりの行動は恥ずべきであっても、怒ったという事実は、大事にするべきだ。

 だから、それを謝らないで。そこにこそ、あなたの心があるのだから。

 それを、勇気を出して伝えてくれて、ありがとう。


 ありがとう、ドレス、プロメッサ。

 二人とも、大好きだよ。

 そして私も、私が、好きになれそうだ。

                                         ロロス・バラマンの日記帳より 







 一 ドレス・ホーガンベア

 

 新品のチョーク、ソーダの空き缶、割りばし、いけすかねえ馬鹿の不細工な顔面。これらは、今日私が握りつぶしたものである。

 否、厳密には、最後のいけすかねえ馬鹿の不細工な顔面は、握りつぶそうとしたものである。本当は怒りに身を任せ、一思いに、あの汚らしい下品でドヘタな化粧が乗った顔を、二度と人前に晒したいとさえ思わなくなるくらいぐちゃぐちゃにしたかった。だが、すんでのところで馬鹿達の悲鳴を聞いて、先生が現れたのだ。

「……失礼します」

 そうして暴力沙汰だと騒がれ、引っ張りこまれた職員室を、私は奥歯で不機嫌をくちゃくちゃとガムのように噛みながら後にした。もちろんそんな私を見て、担任は睨むようにこちらへと視線を投げる。されど、そんなうざったらしく絡みつく眼差しを叩き潰すように、がつんと扉を閉めてやった。

 一体私の何が悪いと言うのだろうか。貧乏だからと不細工どもに囲まれ、ちょっと見てくれが良いからってスマして調子に乗ってるんじゃないと罵倒され、何よりも親友を侮辱されたから、やり返しただけだ。すると馬鹿達は途端にぴぃぴぃと鳴き喚き、それを聞いた先生たちは、まるで私を悪者のように睨んで、また、不細工達の「ドレスに校舎裏に呼び出されて」「ドレスがいきなり殴りかかってきて」という戯言を疑いもせず、そんな嘘を大きく振りかざして、私に「反省してないのか」と厳しく言うのだ。

 反省なんかするわけねえだろクソ野郎。

 きっと、小学生までの私ならそう言って、夜まで職員室で先生たちといがみ合っていただろう。だが中学二年になり、私はようやく、そんな風に私が何を言っても、あいつらは理解をしないのだということを理解した。

 先生は、真実を知りたいのではなく、ただ誰かに責任を押し付けたいだけなのだ。何事にも悪者が居て、そいつが全部悪い。だから、その悪者を叱りつければ良い。簡単な理論である。

「クソくらえ」

 廊下の窓より、暮れなずむ夕景が茜の輝きを流し込んでくる。校庭には運動部の掛け声と、かきんと硬球を弾く甲高いバッドの音。他にも、吹奏楽の管楽器の演奏が、上階より雨漏れでもするようにぽつりぽつりと落ちてくる。

 そのどれもが、いかにも青い春の煌めきのようで、きらきらとしていて、反吐が出そうなほど苛々した。

 なんだって、私はこんなにも悪者扱いされなければならないのだろうか。

 貧乏だから? 力が強いから? 目つきが悪いから? 愛想が悪いから? 友達が少ないから?

 そんな風に考えてしまえば、もう後は憂鬱になるばかりだ。私は苛立たしく、木造の階段を踏み割らんばかりにどすどすと踵を落とし、二階にある教室へと戻った。

 そうして扉を開ければ、そこには唯一の友人が待っていた。

「待たせたな、プロメッサ」

「ううん、全然。むしろ、読みたい本があったから丁度良かったよ」

 放課後の匂いが充満する教室の中で、幼馴染であり、外国人とのダブルでもあるプロメッサは、どこか異国風味漂う顔を、手元の本から持ち上げる。随分と分厚く、大きな本だ。紺色の表紙に書かれたぐにゃぐにゃとした外国語は、一つたりとも私には読めない。

「相変わらず難しそうなの読んでんな」

「面白いよ、ドレスも一緒に読む?」

「んな暇ねえだろ、ただでさえ私のせいでこんな時間になってんのによ」

 プロメッサの顔に光る、知性的な銀縁の眼鏡に向けて、私は言葉を吐きつけた。しかしプロメッサは意に介さぬように知的な笑顔を受かべるのみだ。そうして聡明そうな広い額にかかった黒髪を払い、本の下に広げてあった画用紙を一瞥した。

「いや、案としては良いんじゃない? 夏休みの自由研究でチャカメッチャ語の研究をしてみるって頭良さそうじゃん。もう馬鹿って言われなくなるわよ、きっと」

「そしたら今度は賢ぶって見下してんじゃないって言われるだけだ」

「ふうん、美人は辛いわね」

 茶化すようなプロメッサの言葉に鼻を鳴らし、私は彼女の前の席へと腰を下ろした。夕陽に背を焼かれるが、窓から吹き込む涼風により、暑さは感じない。

 私の苛立ちは収まり始めていた。もちろん自分の沸点が低く、怒りやすいというのは自覚しているが、それと同じくらい、プロメッサが聡明な人間で、友人であるということを理解しているのだ。彼女は何かと私をつつくような言動をするが、こんな時間まで文句を言わず待っていてくれたり、今回の件についても、私だけに非があるわけではないと理解してくれている。

 それがわかっているから、私はプロメッサと話すと、いつも気分が落ち着いた。飄々とした彼女と話していると、小さなことで苛ついてしまう自分が、神経質な細かい奴に思えてしまうのだ。そのため、苛立ちというよりも呆れを覚え、心が静かになるのである。

 また、そんな唯一の聡明な友人を、たかだか愚痴話に付き合わせるというのも気が引けた。それこそ私が、あの馬鹿で不細工な生徒たちや、愚かでうざったらしい先生たちと同じ、無駄に人の時間を奪う阿呆になってしまうからだ。

 だから私は、机の上の白紙を見下ろし、眉を寄せて悩んだ。再来週からの夏休みにおいて、自由研究の班学習の課題が出ているのである。もちろん班と言っても、私とプロメッサはいつもの通り、二人だけで組んでいる。私にはプロメッサ以外の友達がいないが、プロメッサも友達が多いわけではないのである。

 彼女はひどい気分屋なのだ。自分が本当に興味を持ったもの、つまり私のようなはみ出し者や、外国の難しい教養みたいな特殊なもの以外については、その時の気分だけで適当に対応してしまうのである。

 そんな彼女であるから、また、この自由研究の課題についても、宝石魚の飼育や、彫刻像の作成といったありきたりな題材は、笑顔で軒並み「あんまり乗り気になれない」と切り捨てた。だが、宿題には期限というものがつきものである。夏休みに入るまでに研究計画を纏め、提出しなければいけないのだ。もちろんまだ締め切りまではしばらくあるが、何かとこだわりが強く、熱中しやすくも冷めやすいプロメッサの気質を考えて、時間がかかると思い、私から「少し話し合いをするぞ」と提案したのである。

 こういった風に私がこの場を設けた経緯もあり、しかし、私の突発的な暴力沙汰で遅れてしまったため、言い出しっぺの私が何も案を出さないと言うのはおかしいと思い、今、悩んでいるのである。

「撥水蓮を使って、傘を作ってみるとかどうだ? あれなら中夏月の内に育つし、種も安くて、育てるのも簡単だろ?」

「うーん、そうねぇ。でもドレス、そういう細かい作業できるの?」

「それは……じゃあ、星座観察とかは?」

「あなた寝そうじゃない?」

「なら……ギガノス山に行って宝石でも掘るのはどうだ? なんか発掘体験のチラシ配られてたろ?」

「それってこないだのホームルームの? 面白そうだけどあれって三人一組の募集じゃなかった? 締め切りも明後日まででしょ? それまでに誰か呼べるの?」

「それは……」

 言い淀み、私は頭を抱えた。腕を組み、悩みで重くなる頭を、右に左と揺らす。

 すると、そんな私を見たプロメッサが、くつくつと笑った。

「ドレスって本当、こういうとこ、見かけによらず真面目よね」

 茶化すように言われて、私は思わずため息を堪え切れなかった。

「うっせぇ、んなこと言うならお前も考えろよ」

「ふふ、ごめん。そうね、どんなことをしようかしら」

プロメッサの言葉は、まさに悠長という言葉がよく似合う具合の、楽観的なものだ。どんなことをしようか、と言いながら、されどあの銀縁の眼鏡の奥の瞳には、迷いなど一つもないように思える。

 私はほとほと呆れた。あくまでもプロメッサにとって、私は友人ではあるが、それ以上に、”見ていて面白い存在”、いわば動物園で見るパンダや孔雀のようなものなのだ。もちろんそこにはしかと慈しみがあり、私に対する敬意もあるため、一概に獣扱いというわけでもないが、しかし、やはり、プロメッサのそんな眼差しには、まるで見ているだけで面白い、それだけで満足であるというような色が見られ、私は辟易とした。

 そんな具合だから、結局陽が落ちるまで話し合っても、何をするという明確な目的が定まることはなかった。やはり、早めに話し合いをしていて正解だったのだ。もしこれで、明日が研究予定提出の締め切りだとした場合、とり返しのつかないことになっていたのだから。

 そうして私達はいつも通り連れ立って教室を後にした。下駄箱までだらだらと喋りながら歩いて共にし、校門の付近まで歩いていっても、まさに親友という距離感で会話が尽きることはなかった。すでに陽は落ちて、目を覚ました街灯が、黄色い眼差しで通学路を見守ってくれている。校庭から聞こえる運動部の声も、練習中のものではなく、間延びするようなストレッチの掛け声になっていた。

 だからだろう。私は、こんな遅い時間に学校付近に残っている生徒など、殆どは部活生ばかりで、私やプロメッサのような帰宅部は、他に居ないものだと思っていた。

 しかし、ふと校門を抜けた時、道路を挟んだ向かいの塾の入口にて、生徒たちの人だかりができており、私は眉根を寄せた。

 その人だかりは、まさに異様であったのだ。彼女たちが身に纏う黒いセーラー服が夜の闇に溶け込み、ぞろぞろと塊のようになって蠢くさまは、端から見ていて無数の蟻が虫の死骸に群がっているようだった。特に、それが塾の入口にとどまらず、道路まではみ出しているのだから、とんでもない害虫のようでもある。それくらい彼女たちの一人一人は周りが見えておらず、ただ全員が、そんな群れの中心の方を見つめて、がちゃがちゃと口を動かしていた。

 そして、そんな蟻のような中学生の群れの真ん中に居る人物こそ、変な奴だった。

 なんと、その中心人物というのは至って普通の人間であったのだ。特筆すべきところなど一つもない容姿で、校則をしかと守った制服と頭髪は、群がっている連中となんら変わりない。目を逸らし、一度瞬きをすれば、瞼の重みで全ての印象が押しつぶされ、彼女について何も思い出せなくなるくらいだ。

 つまり、それはもう普通というよりも、むしろ個性がなさすぎると形容した方がぴったりなくらいだった。なんだか表情の作り方や、振る舞いの全てが滑らか過ぎて、眺めていると印象に残らないのだ。

 それくらい、何の特徴もない人物が、しかし、人の群れの中心にいるのである。その様は大きな湖の真ん中にぽっかりと穴ができ、次々と水が流れ込んでいって渦ができるみたいで、ある種目を惹きつけるような光景だった。

「なんだあいつ」

 呟いてみると、隣でプロメッサが眉を上げた。

「知らないの? 隣のクラスの転校生よ。先月街の方に大きな病院ができたでしょ? あそこの院長の娘なんだって。転校早々、あの通り人気者だよ」

「ふうん」

 適当に相槌を打ち、私は目を細めた。プロメッサの話を聞く限り、いわゆる金持ちというやつなのだろう。おまけに友人が大勢いて、人気者で、また、一目では目立たない容姿。おまけに愛想も良さそうで、口も達者そうで、人畜無害そうである。

 つまり、貧乏で、友達などプロメッサという変人くらいしかおらず、また、変に悪目立ちするほど整った容姿で、愛想が悪く、口下手で暴力的な私とは真逆の存在というわけだ。

「知らねえな」

 言い、私は踵を返そうとした。

 しかしその時、かの転校生が、一瞬だけ、ちらりとこちらを一瞥した気がして、視線だけが彼女の方に残ってしまった。

 地味な色の茶髪に、空虚そうな笑い方。瞳の色はすぐに忘れてしまいそうな、透明感のある水色で、肌の色は輪郭が朧げに見えてしまうくらいの白色。セーラー服を纏った蠢くような人影に包囲され、今にも飲み込まれてしまいそうな存在感である。

 だが、一瞬、本当に一瞬だ。その時、けれども私たちは、視線を絡めたのである。

 辺りは薄暗く夜の帳が落ちて、街灯や店明かりがぽつぽつと遠い間隔で明かりを滴らせる。その明かりの一つの中央で、多くの人に囲まれている転校生と、道路を挟み、街灯の明かりの下にすらいない、暗い所に佇む私。

 対照的で、真逆の存在。しかしその時、視線が合った一瞬にて、私はなぜか、その転校生のことが気にかかってしまった。

 記憶に残らないような彼女の姿が、目に焼き付いてしまったのだ。

「なあプロメッサ、あいつなんて名前なんだ?」

 そんな一瞬の視線の邂逅の後、ミシン糸でも引き千切るように容易く目を逸らし、私は傍らの彼女に尋ねた。

 するとプロメッサは、呆れたように肩を竦めた。

「本当に知らないの? 学校の中じゃ多分ドレスと同じくらいの知名度よ? もちろん、良い方と悪い方で、同じくらい広まってるって話だけど」

 私達二人の背には、相変わらず、校門前の塾から聞こえてくる生徒たちの声が突き刺さる。がやがやと賑やかで、声がいくつも重なって、入り混じって、どれが誰の声かもわからない、ずさんな旋律である。

 プロメッサは答えた。

「ロス・バラマン、さっきも言った通り偉い医者の娘で、人望もある、口が達者な人気者よ」

 そうして、私は首だけで、塾の方を振り返った。

 しかし、もう、その転校生を見つけることはできなかった。

 それが私とロス・バラマンの出会いだった。




 

 

 

 二 プロメッサ・ランディ


 ドレス・ホーガンベアは、私の唯一の友達だ。

 否、訂正。私、プロメッサ・ランディが、ドレス・ホーガンベアの唯一の友達なのである。

 彼女はとても美しく、また、誠実でありながら、けれども素直過ぎるのだ。長い睫毛の下の、焼けつくような赤瞳なんかが、まさにそんな彼女を端的に表している。彼女の瞳に燃える清廉すぎる魂は、一切の汚れにも耐えられず、どんなものにさえも反発してしまう完璧な潔白を持っているのだ。故にそんな彼女の眼差しは、威圧感さえもひしひしと纏い、向けられた者の心に汚れがあればあるほど(本当に少し、家事に手慣れたお母さんが偶に洗い残す食器の油汚れくらいの汚点があれば)、みんな、彼女を気に喰わないと感じてしまう。

 特に、そんな彼女がすらりと超然とした抜群の肢体を持ち、非の打ちどころもない左右で完全に均一な顔面を晒し、春の小川のようにきらきらとした黄金の光沢を持つ長髪を靡かせていれば、誰もが、恐ろしいほど美しく、煌びやかな水面を覗き込んで、そこに映る自分の顔を見てしまうように、自分の醜さに気付いてしまうのである。

 つまりドレスは、全世界の人に嫌われる素質を持っているということだ。

 だが、私からすれば、それは全世界の人に好かれる素質を持っているということでもあるのだ。

 ドレスは完璧などでは断じてない。彼女はひどく怒りっぽく、また乱暴で、勉強だってそんなにできない。彼女には付け入る隙というのが山ほどあるのだ。彼女は、卸したての真っ白なシャツなどではないのだ。

 むしろそれは何度も汚されて、でもその度に何べんも綺麗に洗って、洗剤や漂白剤がいくつも層になって出来た、皺だらけの白さなのだ。

 だから私はドレスを恐ろしいとも思わないし、ドレスを親友だと思っている。彼女は、ただ不器用なだけなのだから。

 何せ、そうして何度も汚された結果、自らの白さを誇り、守るように、誰にも近づかなくなってしまったのが、ドレス・ホーガンベアという人間なのだ。ドレスは幼稚園の頃は、まだ他の子どもたちに交じって遊ぼうとしていた。だがそのたびに、遊んでいる誰かが、他の誰かに意地悪なことを言ったりすれば、過剰に目くじらを立てて反応し、相手を泣かせてしまっていたのだ。そして、怒られるのはいつもドレスだけだった。幼馴染として、私はそんなドレスの姿をずっと見てきた。

 もちろん私だって、全面的にドレスを肯定するつもりはない。むしろ、彼女はやりすぎることが殆どだと思う。だから彼女の下から、一人ずつ友達が消えていくのを、仕方がないと眺めていた。

 そしていつしか、彼女が自分で周りの人間の下を離れていきはじめた時、その美しい背を私だけが追った。

 それは私とドレスが親友で、幼馴染だからだ。

 だから私たちは、いつの間にか二人ぼっちになっていた。

 だから今日、そんなドレスが誰かのことを気にかけたことに、私は内心驚いていた。

 ロス・バラマン。隣のクラスの転校生が、ドレスの目にはどう映ったのだろう。

 正直に言って、私はロスには不思議な印象を抱いていた。それは、彼女が一目見ただけで他の人と違うと分かったからだ。

 私が初めてロスと出会った場所は、学校の図書館だった。確かあれは、ロスが転校してきて数日くらいの時だったはずだ。それでも彼女は数人の級友たちを、あたかも旧知の親友のように引き連れ、図書館に入ってきたのである。

 その瞬間、静かで、少しだけ埃臭かった図書館の空気が一瞬にして華やいだ。沈黙を良しとする本たちとは正反対に、おしゃべりな口がいくつも騒ぎだし、私と本の真摯な対話を邪魔し始めた。

 だから私はため息を吐き、静かに席を立って図書館を出ようとしたのだ。しかしそうして本から顔を上げた時、偶然、否、必然的にロスと目が合ったのである。

 彼女は、私のことを見ていたのだ。あの限りなく透明な水色の瞳で、表面だけはにこやかにしながらも、どこか虚ろな、それこそ骸骨とでも見つめ合っているような感覚を私に与えた。

 そして彼女はすぐに目を逸らすと、熱心に談笑する仲間たちの輪から一瞬だけはみ出し、”一番近い本棚の一番取りやすい所にあった小説を見もせずに引っ掴んで”、仲間たちに言ったのだ。

「これだよ、これ。”探してたんだ”。前の学校にも、本屋さんにも置いてなくてさ。みんな付いてきてくれてありがとう。すぐに借りてくるから、先出ててよ。次は音楽室に行ってみたいな」

 その言葉で、彼女が引きつれていた仲間たちは、すぐに連れ立って図書室を後にして、辺りには沈黙が蘇った。ロスは宣言通りに本を借り、仲間たちを追った。

 その時、私は思ったのだ。ためいきを聞かれていたのだろうか。だが、ロスはあの爆竹みたいにはた迷惑で喧しい輪の中に居たのだ。加えて、目が合ったのもほんの少し、私が顔を上げた一瞬だけだった。

 しかしその一瞬でロスはあれほど素早く、的確な”嘘”を吐いたのだ。私には、それが印象的だった。

 以来、私はロスが居れば、彼女の振る舞いを観察するようになった。だが、それも困難を極めた。観察しようとしても、ロスはすぐに存在感を消すようにし、全く別の所に行ってしまうのである。そしてどこでも愛想良く笑顔を浮かべ、軽快な話術で色んな人の笑顔を生み出していった。それは生徒にとどまらず、先生や保護者といった大人に対してもだ。

 だが、私にはそれが理解できなかった。それは、私にはロスがちっとも楽しそうに見えなかったからだ。彼女を意識して観察し続けるのは不可能に等しかったが、それでも、偶にふと、ロスの顔から全ての表情がなくなり、人形みたいな面持ちになる瞬間を見ることがあったのである。

 そんなロスの顔が、私の頭の片隅に張り付いて離れなかった。何よりも、そんな彼女と、楽しそうに笑うそれ以外の人たちの対比が、恐ろしいほど残酷なものにさえ見えてしまった。

 よって、私は気付いた。ロスはとかく視野が広い道化であるのだ。その場にいる大勢の人間の意識を水面下で掌握する術に長け、また、自分を自在に操り、滑らかに口を動かし、人の死角を作っては、そこに滑り込むのが上手かった。

 しかし、だからといって、それで誰かを騙してやろう、貶めてやろうといった気概が、ロスからは一切感じられなかったのだ。ただ純粋に、目の前の人が楽しめるよう、もしくは周りの人が気持ちよく過ごせるよう、ただそれだけのために嘘を吐いていたのである。

 私は思った。

 ロスは善人だ

 だから私は、そんなロスに対して、不思議な印象を抱いていた。

 彼女は一体、なんのためにあそこまで周りに気を配っているのだろう。

 彼女は一体、何を考えているのだろう。

 どうして彼女は、一切楽しそうではないのに、そんなことをしているのだろう。

 そんな疑問があるからこそ、ドレスがロスに興味を示したことに驚き、また、納得した。

「ねえドレス、今日の放課後時間ある?」

 木造の校舎の屋上で昼食をとりながら、私はドレスに尋ねてみた。校庭の方からは、蹴鞠をする生徒たちの、きゃあきゃあとした賑やかな声が聞こえ、また、頭上には息を呑む程の広い青空が広がっている。遠くの方に浮かぶ入道雲が、大きく身を震わせ、碧い夏の息吹を吐けば、校庭の蹴鞠の球が風に煽られ、より一層、火に風が吹き込んだように、賑やかな声が大きくなった。

 そんな盛んな青春を、端の方から眺めているのが、私やドレスといった少数派の生徒だ。それも私に関しては、ただ眺めているのではなく、上から見下ろすようにして、何がそんなに面白いのかと、冷めた目を向けてしまうのである。

「悪い、今日はバイトが入った」

 そして、ドレスが簡潔に答えれば、ますます瞳の熱が散ってしまった。私にとってドレスは最高の友人だ。なぜなら、見ていて世界で一番面白いからである。

 だが、ドレスは家が貧乏であり、生活費を稼ぐためにバイトをしているため、こうして、よく一緒に居れなくなるのだ。特にそれが、私が吐き気を催すほど暇を持て余している時なら最悪だ。私は自分でも信じられないほど気分屋になる時があり、そんな時に一人になると、命って何だろうといった哲学的なことを考え始めてしまうのである。

 だから私は、ため息をついてドレスを一瞥した。しかし彼女は床に座り込んで、私になぞ気付かぬ様子で一心不乱に白米ばかりの弁当を掻き込んでいる。毎日あんなに食べているのに、ドレスの体は神様が毎朝彫刻刀で削って整えているように美しく、ほとほと不思議である。

 もちろん、そんなぼんやりとした考えは、暇によるものだ。だって私は、ドレスの体が引き締まっているのは、みんなが遊んでいる休日の昼間も、外で汗を流して働いているからであると知っているのだから。

 そんな風に、私はふとした時にドレスを眺めてしまうのだ。幼馴染として、また、親友として、外見だけではない彼女の美しさを、私は誰よりも知っている。否、唯一知っていると言った方が良いかもしれない。

 だから彼女を一瞥すれば、私の目は途端に陽に焦がれる向日葵のようになって、空に独りだけ浮かぶ太陽に、君は一人じゃないんだと訴えるように、この世界に一人なのは君だけじゃないんだと叫ぶように、ドレスを見てしまうのだ。

 ドレスは本当に、太陽みたいな人間なのだ。夏のように近ければ近いほど、暑く、眩しくて鬱陶しいと疎まれ、冬のように遠ければ遠いほど、暖かくて、明るくて美しいと眺められる。ある意味では、彼女のようなぼっちこそ、本当の意味での陽キャというやつなのかもしれない。

「じゃあ部屋で待ってるね」

 言うと、ドレスは頬に詰め込んだ白米を大きく咀嚼しながら、「おう」と相槌を打った。

 それを見て、私はようやくドレスから視線を外した。すでに飲み干した缶のソーダの飲み口を噛み、ぼんやりとしながら、手すりに肘を置いて、校庭の方を眺める。

 するとその時、真っ赤な蹴鞠の球が、ひと際大きく空に跳ね、歓声が上がった。

 それはまるで、まるまると太った鯉が全霊を以て池の水面を盛大に粉砕し、飛び上がったようだ。一瞬の、躍動の芸術。私は思わず、その蹴鞠の球を目で追った。

 そして、それだけ高く上がった蹴鞠の球を受け止められる者などおらず、実際に下に居た生徒は、てんでわけのわからない方に球を蹴り飛ばしてしまった。

 その生徒こそが、ロスであった。一緒に遊ぶ仲間たちに笑われながら、しかし、一緒に笑い、小さい背丈でぴょこぴょこと球を拾いに行く。

 それを眺めていると、ロスが丁度球を拾い上げ、顔を上げた際、目が合ってしまった。

 もちろん、屋上と校庭で距離は遠く離れている。ロスの限りなく透明な水色の瞳も、ここからでは見えない。もしかしたら、私が一方的に目が合ったと思っただけかもしれない。

 そう思ったからこそ、私はなんともなしに右腕を持ち上げ、軽く、手を振ってみた。

 すると、ロスも一拍置いて、一度だけ、手を振り返して、笑ってくれた。

 ロスは、ちゃんと私のことを見ていた。もちろんはたから見てわかるほど気遣いしいで、愛想のよい彼女だ。ただ手を振られたから、手を振り返しただけなのかもしれない。

 しかし、私とロスは図書館での出会い以来、何度も目を合わせていた。それは私がロスを観察していたためだ。そして、私の思い違いでなければ、ロスも偶に私を眺めていたためだ。

 私たちは、いわゆる顔見知りな仲であった。直接的な言葉を交わしたことはなくとも、互いを認知し、見つめていた。

 そこまで考え、しかし、私はかぶりを振ってため息を吐いた。

「いや……考えすぎね」

 呟き、それを聞いたドレスが顔を上げてきた時、肩を竦めて誤魔化して見せる。

 それから、私はドレスと他愛ない言葉を交わし、予鈴のチャイムが鳴るとともに、屋上を後にしようとした。

 その時、ふと、校庭の方を見下ろしてみると、私達と同じように教室に戻ろうとする生徒たちが見えた。

 もちろん、その中にはロスが居た。

 だが彼女は私のことなど、見てはいなかった。





「あ、プロメッサお姉ちゃんだ!」

 ドレスのあばら家の敷居をまたぐと、庭の方から元気な声が聞こえた。小学校低学年のドレスの妹だ。

 彼女は庭先で泥遊びをしていた。手や足は剥き出しの素肌で、それをどろどろに汚し、ひどくおかしそうににこにこと笑っていた。無邪気な少女だ。割れたトタン板と、鬱蒼とした庭木に囲まれたドレスの家は、茜色の夕陽により退廃的に染め上げられていた。そんな廃れた家屋の中央で、されど、一切着飾らず、無垢なる少女が笑っていれば、それだけで、この家が最高に幸せそうに見えた。

 だから私は彼女に声をかけられるなり、自然と頬を緩ませ、タイを解き、私も靴と靴下を脱ぎ、それらを学生鞄と共に開け放たれた軒先へと放ると、彼女に向き直った。

「お、”ポンポン”泥だらけだね? よぉし、ならお姉ちゃんが綺麗に洗ってあげよう!」

「きゃー!!」

 ポンポンというのは、ドレスの妹のあだ名のことだ。理由は二つあって、一つは頭の両側に、ドレスと同じ金髪を纏めて、かわいらしいお団子を作っているため。もう一つは、寝るときにいつもお腹を出してしまうためだ。

 そんな風に、ポンポンは活発な少女であるのだ。私のように本を読むというより、ドレスのようにとりあえず体を動かすことを好んでいた。ポンポンの愛らしさや元気の良さは姉と正反対ではあるが、そういった根本的な所は、やはり姉妹で似通っていた。

 そのため、私とポンポンが遊ぶときは、彼女に合わせて、どうしても追いかけっこや捕まえっこが主になった。今だって、わざとらしい大魔神の声を出し、泥だらけのポンポンを素手素足で追いかけまわしているのだ。するとポンポンはきゃあきゃあと駆けまわり、幼く、血色の良い生足で泥を踏んでは、跳ね回り、小さな足の指の間に入り込むひんやりとした泥の感触にはしゃいでいた。

 既に初夏へと入り、やはり陽射しが暑い季節だ。そんな風に泥遊びをするのは、ドレス家、もとい私達幼馴染の間では、定番の夕涼みだった。

 だからいつも通りひとしきり遊んでも、見事に私の制服には泥なぞ跳ねておらず、しかし、足や手は見事に泥にまみれていた。これこそが熟練の技である。

 そうして遊び終わり、ポンポンの手や足の泥を庭の井戸水で流してやっていれば、私はふと、そんな彼女の目線が、いつの間にか近づいていることに気が付いた。

「ポンポンまた背伸びた?」

「そう?」

「うん、伸びてる伸びてる」

「やったぁ!」

 だが、やはりポンポンはまだ小学生である。ドレスの妹ということもあり、既に手足が長く、美人になる兆しが体の随所から見受けられるポンポンだが、まだ、ポンポンはポンポンであるのだ。

「お姉ちゃんみたいになれるかなぁ?」

「どうだろう、まずは寝る時にお腹出す癖を治さないとね」

「わざとじゃないもん!」

「ふふっ、ごめんごめん」

 汚れを落とせば、私達は家に上がった。ドレスとポンポンには両親がおらず、忘れっぽい祖母が、いつも家の奥の方に、ぽつんと一人いるだけだ。おまけに貧乏であるため、ゲーム機や本の類も少なく、あるものは大体表紙が剥がれたり、色褪せたりした、年季のある遊び道具ばかりである。だからポンポンの遊び相手と言えば、小学校の友達を除き、私くらいしかいなかった。

 だから家に上がってもなお、ポンポンは私の後ろをついて歩き、私も彼女を連れた。特に、ポンポンは学習意欲が高く、地頭が良い子であったのだ。だから私達はいつもの如く、陽が暮れるまで外で遊ぶと、今度は狭い居間の煎餅座布団の上に座り、勉強をした。

 もちろんそれは勉強と言っても、教科書や問題集に向き合う面白みのないものではなく、私が様々な科目の話を身振りや手ぶりを用いて話す、雑談じみたものだ。

「じゃあ今日は、世界の歴史の話をしよう。これはね、東の方にずうっと、ずっと海を越えた先にある大きな国、チャカメッチャで実際にあった、かもしれない話なんだ。時は今から千年前、そう、千年も前の話。その時世界には星月夜が満ちていたんだ。星月夜っていうのは、月が出ていないのに、月が出ているくらい明るい夜のことさ。そんな星月夜が一日中続いてた。そう、千年前、太陽はどこにもなかったんだ。それを昔の人は、太陽がとうの昔に砕けてしまって、その破片が星となり、空を漂っているからだろう、この大地もその破片の一つなんだろうって信じてた。そんな風に、世界が夜に包まれて、真っ暗で、でも優しい星の、銀色の明かりで、仄明るく人々が暮らしていた時、チャカメッチャの港街に住む一人の子供がね、こう言ったの」

『太陽は砕けたんじゃなくて、この大地の裏側にあるんじゃないかな。だって太陽が砕けて、その破片の星たちがあんなにも光っているなら、この大地が、こんなにも暗闇に包まれているのはおかしいじゃないか。星たちは、自分で光ってるんじゃないんだよ。ただ、この大地の裏側にある太陽に照らされて、光ってるように見えるだけなんだ』

「当時ね、そんな風に暗闇ばかりの世界では、光忘病っていう恐ろしい病が広まってたんだ。それは罹れば最後、体の節々から黒い痣やぶつぶつが出てきて、最後には全身が真っ黒になって死んじゃうって病気なんだ。そして、その病気を治すためには、体に光を当てなきゃいけないんだけど、世界には火と星しか光がなくて、それくらいの光じゃ、病気の悪化を遅くするくらいしかできなかったんだ」

「だからね、その子供は、友達の親が光忘病に罹ったことをきっかけに、そんな自分の持論を確かめなきゃと思って、行動を起こすんだ。まずは引退した漁師の娘と友達になって、船を準備した。次に学校の中でとびきり頭の良い娘と友達になって、計画を立てた。最後に病気の親を持つ友達を勇気づけて、みんなの結束を強めた。そしてね、そうして集まった子供海賊団は、みんなを集めた船長を筆頭に、たった四人で、地球の裏側から太陽を取り返すために、大海原に漕ぎだしたんだ。そして、一年かけて見事に太陽を奪い返し、世界に光を持って帰って、この世には昼が出来上がった。港町のただの子供、たった一人の船長が言った、大地の裏側に太陽があるっていうのは、本当だったんだ。太陽が昔砕けてしまっていたっていう常識こそが、間違いだったんだ」

 語り終えると、ポンポンは目をきらきらとさせながら、前のめりになっていた。もちろん授業の最中、いくつも悲鳴が飛んできたが、それだけ感触があると、かえって私も話しやすかった。

「じゃあ、ここで一つ質問。このお話で一番すごい人は誰でしょう」

 尋ねると、ポンポンは勢いよく手を上げて、当てられるよりも先に答えた。

「船長さん!」

「それはどうして?」

「それは……えっと……みんなと友達になれたから!」

 言い淀んだポンポンに向けて、私は、頬を緩めながら、次の質問をした。

「じゃあ、どうして船長はみんなと友達になれたと思う?」

 尋ねてみると、ポンポンは頭を抱えてしまった。腕を組み、うんうんと唸りながら、眉に皺を寄せている。

 しばらくそれを見て、私は口を開いた。

「正解はね、船長が人の為に頑張っていたからよ。最初ね、船長が太陽は砕けたんじゃなくて、大地の裏側にあるって言った時、ものすごく周りの人に笑われたんだ。でも船長は自分を信じ続けた。それが、沢山の人を助けることに繋がると思っていたから。そしてね、船長は頭も良かったんだ。自分は、他の人と違ったものの見方ができて、他の人が気付けないものには気付けるけど、それ以上に、自分にできないことが沢山あるって考えられるくらい、船長は頭が良かった。だから自分に足りないものがわかっていて、それを補うために、友達を作った。だから船長には友達が出来たし、太陽を取り返すことだってできたの」

 言って、私はポンポンの頭を撫でながら、続けた。

「自分を信じる。これは重要なことね。でも、自分にできないこと、自分の弱い所もちゃんと理解して、それを周りに理解してもらう。これも同じくらい重要なことで、すごく難しいことなの。そしてこれをするための秘訣はね、自分にも、他人にも、正直でいることなのよ」

 伝えると、ポンポンは真摯に私の言葉を受け止め、頷いた。正直で、頭が良くて、優しい子だ。日頃のドレスの教育の賜物だろう。彼女は、妹に尊敬される、とても良い姉であるのだ。

「じゃあ、そろそろご飯にしましょうか」

 勉強もひと段落着き、私は立ち上がると、小さなキッチンに立った。するとやはりポンポンもついてきて、私達はいつも通り、手早く料理を行った。

 基本的な役割として、刃物や火を扱うのはすべて私だ。ポンポンはそれ以外の、皿を運んできたり、道具を洗ったり、味見をしたりという、こまごまとした作業を手伝ってくれる。そういう気概があるだけで、ポンポンはやはり素晴らしい子供だ。

 そうして、私達はオムライスを作った。もちろんお米は白米にケチャップを混ぜただけで、ただ特売品の卵だけをふんだんに使用した、なんちゃってオムライスである。しかしだからこそ私は卵の味付けや焼き加減にこだわりを持っていた。

 きっとオムライスを作らせたら、私に勝る学生は中学校に一人もいないだろう。まるまると太り、孕んでいる鮭のようにふっくらとした楕円の卵からは、きらきらとした白い湯気が砂糖の甘い匂いを絡め、ゆらゆらと立ち上っている。つやつやとした黄色い卵の肌は、今にもはち切れそうで、皿を少し動かすだけで、ぷるんと震えた。

 ポンポンはそれをみて、ぐるぐると大きく腹を鳴かせた。お手をされている犬みたいだ。お利口さんではあるものの、やはり本能的な衝動を抑えきれず、今にも抑止の暗示を振り払って、ご馳走に飛びつきたいという心意気がありありと見て取れる。

 だから私は、「まずは」とポンポンに祖母を呼んでくるように伝えた。するとポンポンは弾かれたように駆けだし、すぐに祖母を連れて戻ってきた。その間に配膳を終わらせて、私達は三人で、狭い居間にてちゃぶ台を囲み、手を合わせた。

「いただきます」

 それからは、幸福な時間の始まりだ。ナイフを使って卵の腹を裂くと、とろとろとした黄色い内臓が溢れ出してくる。同時に、熱々とした香ばしい匂いが、サウナストーンに水をかけた時のように、一息にして部屋の中に広がった。

 そんなご馳走の吐息を胸いっぱいに吸い込めば、もうポンポンは止まらなかった。スプーンを必死に握りしめて、口いっぱいにオムライスを頬張った。熱いのか、時折はうはうと口の中に空気をためてみたり、水を一口含んだりしているが、それだけのことをしてでも、止まらずに食を進めていた。

 これが私達の日常である。週の半分くらいは(これはあくまでも基本的な頻度の話であって、今日のように、ドレスに突発的にシフトが入ることも多々ある)ドレスがバイトで家に居ないため、大体は私がポンポンと遊んでやったり、料理を作ってやったりしているのだ。

 そうして夕食が終われば、私とポンポンで洗い物をし、少し遊んで、学校の宿題を終わらせて、ポンポンを寝かしつける。もちろん風呂や歯磨きや明日の準備も忘れてはいない。それだけのことを綺麗に済ませ、ポンポンが部屋で布団に入り、私の手を握って眠りにつくまでが、私とポンポンの日常である。

 そしてそこからが、私とポンポンではなく、私とドレスの日常である。

「ただいま」

「ああ、おかえり、ドレス」

 家が小さく、部屋が少ない為ポンポンとドレスの部屋は同じだ。そのためいつも、バイト帰りのドレスが静かな声でそう言って入ってきて、私も同じように、ポンポンを起こさないように注意しながら、そっと返すのだ。

 そして私はゆっくりとポンポンの手を解き、キッチンに戻れば、オムライスを新たに作り、彼女に振る舞う。基本的に手間のない料理なら、作っておくのではなく、ドレスが帰ってきてから改めて作るようにしている。それは、やっぱり作り立てが一番おいしいからだ。

「明日は?」

「休み」

 ドレスが静かに夜飯を食べる様を、向かいに座ってぼんやりと眺める。この時の私のこだわりは、あくびをしないことだ。もし一度でも眠そうにすれば、それだけでドレスは私に引け目を感じ、ポンポンの面倒を見たり、家のことを手伝ってもらってることに対して、罪悪感を感じてしまう。

 だから私は、ドレスの家では努めて平静を装い、飄々と全てをこなした。もちろんそれは無理をしているわけではない。元々私には、顔見知りの同級生はたくさんいても、やはり、友達と言える相手はドレスくらいしかいないのだ。もう何年も、こうして暮らしてきた。勿論、私の両親も何かとドレスとポンポンのことを気にかけていて、まだ私が小学生くらいの頃は、母が料理を作りにきたりもしていた。

「ドレスちゃんと、ポンポンちゃんは、私達の娘だから」

 これが私の両親の口癖の一つだ。こんな風に、私の両親は器量が広く、優しくて、豪快であった。このオムライスだって、手早く、包丁を使わずに作れるからと、母が一番に教えてくれたものだ。父だって、偶に家族を遊園地や動物園に連れていくとき、当然のようにドレスとポンポンを誘う。

 そして、ドレスはそんな私の両親に対して、真摯な礼を示していた。彼女は本当に誠実で、そういう人間なのだ。例えば母が力仕事に困っていればすかさず腕まくりをして立ち上がり、父が酒を飲めば昔話に付き合ってくれる。まず間違いなく、ドレスは私より、私の両親に親孝行をしているだろう。

 だが、それは私と違い、無理をしてのことだ。けれども、一見超然とした雰囲気を纏うドレスは、ロスとは正反対ではあるものの、逆にそのままの振る舞いで、なんでもできそうな威風を漂わせてしまうのである。だから端から見れば、何を苦しいと思っているのかわからないし、どれだけ疲れているかもわかりにくい。それは、この世で一番ドレスと共に居る私でさえわからないのだから、相当のものだ。

 ドレスはそうやって、自らが義を貫き通す相手に対しては、恐ろしいほど強固な自制心を持ち、自分を律していた。それは普段、周りのことなど一切気にしていないように振る舞う彼女からは考えられないものだ。ドレスは、自らが心を許した相手に対しては忠誠心が厚く、それ以外の人についてはそこらの小石や虫くらいにしか思っていないのである。

 だから私は、彼女がバイトから帰ってきて、夜飯を食べている時、あくびをしないのである。

 それは間違いなく、私だって、ドレスに対する尊敬と忠誠心があるからだ。

 もし私がドレスと同じ立場だった場合、きっと、いや、絶対、こんなに真っすぐ誠実に育つことなどできなかった。小手先の悪事を働き、真っ当に働いて家族を支えるなんてこともせず、夜の闇に溺れていっただろう。

 そう思えるから、ドレスの正しさと逞しさに尊敬が溢れるのだ。

「それで、自由研究はどうする?」

 静かな食卓にて、ドレスが思いついたように言えば、私は眉根を寄せた。

「うーん、ピンとくるものはなぁ」

 言うと、ドレスは相変わらず、恐ろしいほどの美貌で頷いた。彼女は、私の根本にある気分屋な面を理解し、偶にこうして立ち止まるようなことがあっても、急かしはしない。ただそれを見越して、早め早めに手を打つのである。

「明日の昼休み、図書室で調べてみるか?」

「そうね。逆にドレスは、何かやりたいこととかないの?」

「私はなんでもいい。いつも通り、お前がやりたいことを手伝うぞ」

 オムライスを米粒一つ残さずに平らげれば、ドレスは行儀よく手を合わせ、私に言った。

「ご馳走様。ありがとう、今日も旨かった」

「ふふっ、どうも」

 細かい所ではあるが、ドレスがこうして、食事の際、いつも「ありがとう、旨かった」と言ってくれるところも、彼女が根本的に悪人ではないことを示す証拠である。

 私はドレスのそんなところが好きだ。

 そしてドレスが手早く洗い物を済ませ、私達は連れ立って外に出た。家の中ではポンポンや祖母を起こしてしまうかもしれないため、私達はよく庭先で話すのだ。

 二人でいつものように庭の端の、塗装の禿げたベンチに座れば、夜空を見上げた。特にこれと言って特筆することもない星空だ。砂みたいに小さな星がぽつぽつと瑠璃色の夜にまぶされていて、黒ずんだ雲がその下をゆったりと流れていく。

 それを見ながら、ドレスは懐より煙草を二本取り出し、私に一本手渡した。私はいつものようにそれを咥えると、ポケットから取り出したライターで火をつけ、ドレスの口元にもそれを差し出した。

 そうして、私達は静かに煙を燻らせた。これが私たちの、ささやかな楽しみだ。夜になり、ポンポンとドレスの祖母が寝静まれば、互いに一本だけ煙草を吸う。ドレスにとっては貧乏で、また他人との摩擦が多く、私からすればつまらないことばかりで、興味が湧きにくい、互いにとって息がしづらい世の中で、この一本だけの煙草は、ある意味呼吸器のように、私達の肺の深くまで空気を落とし込み、心を落ち着かせた。

 もちろん、この紫色に汚れた煙が体に悪いことは知っているし、中学生が煙草を吸ってはいけないことも知っている。だから、こうして私達が煙草を吸っていることは、みんなは知らない。私の両親もだ。

 私たちだけのヒミツだ。

 最初はドレスが一人で吸い始め、私が気付いたのだ。それが、ドレスが実は無理をしていることの、何よりもの証拠だろう。彼女は私にすら隠そうとしていた、つまり、それが悪いことだと分かっていながら、しかし、手を伸ばしてしまった。

 だが、ドレスは口下手で、嘘を吐くのが苦手であり、また、私に対して隠し事をすることに引け目があったのか、日ごろの振る舞いがおかしくなり、私はすぐにドレスが煙草を吸っていると気付けたのである。

 そこで私は、彼女をとがめるのではなく、共に過ちを選んだ。それは本当にささやかな、世界への反抗だった。ドレスのことを知った気になっている人が多すぎる中、確実に私だけが知っている彼女の秘密が、毎夜一本だけの煙草に詰まっていた。

 それから私たちは、煙草を吸い終わっても、しばらくの間だらだらと話し、いつものようにベンチを立った。そして路地を少し歩いたところにある家だと言うのに、私の家の玄関まで律儀に送ってくれるドレスに親しみを感じながら、私はその日も、家に帰った。





三 ドレス・ホーガンベア


 昼休み、図書館へと向かえば、そこはひどく閑散としていた。

 なんだか耳が痛くなるほどの静寂だ。胸の奥の辺りがそわそわして、本から香る、紙やインクや、少しの埃の匂いが気になってしまう。私はプロメッサと違い、こういう風に、いかにも知恵と知識の匂いが充満している所が苦手だった。

 だが、肝心のプロメッサはといえば、外国語の教師に呼び出されて職員室に行っている。身内に対しては飄々とした知恵者である彼女だが、それ以外の、外の連中からは変り者と称されているのがプロメッサだ。学年でも頭抜けて頭が良く、人当たりも悪いわけではないのに、私のような不良とだけ仲良くして、その他の人間に対しては気分屋らしく気ままに振る舞うのである。

 特に、そんな気分屋プロメッサを象徴する話として、三日ルールというものがある。

 彼女は明晰なる頭脳で自分が気分屋であることを自覚しているため、三日以上先の約束を取り付けないのだ。それは家族に対してもそうで、プロメッサを「週末遊びに行こう」と誘う場合は、週末から三日以内の日に誘わなければならない。

 また、この三日ルールにはもう一つ別の意味も含まれており、それは、プロメッサに質問をした場合、答えを出すのに三日間の猶予を要求すると言うものである。もちろんこれは質問の度合いにもよるが、例えば新聞を読んでいた時、取り扱われている社会問題について彼女に質問した場合、プロメッサは殆ど必ず、「ちょっと考えたいから三日頂戴」と言うのだ。

 このように、プロメッサには明確な自己ルールというものがあり、それを徹底しているのである。そして、その自己ルールというものが、私にさえ偶によくわからない基準で定められている時があるため、端から見れば、おかしなこだわりのように見え、結果、変人と言う孤独の烙印を押されてしまうのである。

 だが、私は三日ルールを筆頭にするプロメッサの自己ルールが、彼女なりに編み出した処世術であるということを知っていた。

 彼女は、自身が誠実ではないことを理解しているのだ。気分屋でわがままな所があり、先の予定を立てた時、いざその日になると、自身の気分が、必ず、約束をした日とは全く違うものになってしまうことを知っていた。そしてそんな気持ちで、例えば遊びに行ったりすると、必ず途中で飽きてしまい、耐えられなくなって、逃げ出してしまうのである。

 また、彼女は自分が他者に「頭の良い人」と見られていることも知っていたため、自分に対する質問には、正解を要求する意図が多分に含まれていることも理解していた。そのため、気分屋な自分の、その時の感情で答えてしまうのではなく、三日間時間をおいて、ちゃんと考えた答えを返そうとしているのだ。

 それが、彼女なりの誠意の示し方であるのに、しかし、他者はそれを変だと決めつけ、彼女を遠ざける。

 もちろん、それは仕方のないものだ。だって実際、プロメッサは少し他人と違うのだから。それはきっと本人もわかっている。

 他人と違うということと、悪であるということを、同じものとして考えている人間が多すぎるだけだ。

 大勢の人が言う変という烙印は、尊重ではなく、ただの疎外である。

 だが、私に言わせれば、それこそが悪である。人と違うことを、悪いと言うことが、一番悪いのだ。

 だから私は、そんな静かな図書室にてプロメッサを待っている時、入ってきた生徒たちが囁いていた言葉を聞いて、目くじらを立ててしまった。

「さっきの授業のプロメッサさ、マジぶっ飛んでたよね。ガイジンの先生に、なんだっけ、チャカメッチャとかいう、変な国のこと聞きだしてさ。さすがガイジン混じりって感じ。わけわかんないよねぇ」

 その言葉に、私は一瞬にして、かぁっと頭に血が上るのを感じた。そこには明らかに、誹謗中傷を意図した、ざらざらとした質感の、意地の悪い感情があったからだ。そして、その二人組は、互いにざらざらとした感情をすり合わせて、聞いていられないほどの酷い不協和音を出した。なんと、けらけら、けらけらと笑い出したのだ。 

 私は、そんな汚い言霊に耐えられなかった。奴らは一人では、ただざらざらとした、意地の悪い感情を隠すことしかできないのに、他に人が居れば、途端にそれをすり合わせて、結託したようになり、いかにも自分たちの方が正しいのだという顔をしだすのだ。

「おいお前ら、今のどういう意味だよ」

 本棚の影から顔を出して尋ねる。すでに私の言葉は、臨戦態勢を整えているようにぎらぎらとし、彼女たちを見下ろす目の奥は燃え上がるように熱くなっていた。そしてそんな私を見て、二人の生徒は、肝を抜かれたように後ずさったのだ。

「あ、えっと、ドレスさん、居たんだ」

「居たら何なんだよ?」

 詰め寄ると、二人は完全に委縮したようになった。それが私には、自分勝手な立てこもりのように見えて、益々と苛々した。力づくで彼女たちが引き籠る壁を破壊し、その薄汚れた魂を掴み上げて、白日の下に晒してしまいたくなる。

 それでも、私はまだ、暴力はいけないと心の中で自制心は持っていた。そもそも、手を上げたところで連中の考えが変わらないなんて、自分がよくわかっていることだ。私だって多くの陰口を叩かれてきた。そして私が出した結論は、陰口を叩くやつらの考えを変えるのではなく、それは仕方のないことだと、自分の考えを変え、無視することだった。

 だが、そう決めていても、私は怒りをあらわにしてしまう。それは、プロメッサのように個性的で、面白くて、頭が良くて、子供と遊ぶのも、料理も上手い、自分に正直な人間など、他にはいないと思っているからだ。

 そんな親友が侮辱されていることが、どうしても、耐えられなかった。

「おい、質問に答えろよ」

 そのため、もう一歩詰め寄ってしまう。体の奥の方でめらめらと踊る炎が、私の神経を擽るように逆撫でする。努めて呼吸を深くするが、その度に、新鮮な風が炎に触れ、怒りが燃え上がる。

「ごめん、そんなつもりじゃなかったって言うか」

「はぁ? じゃあどんなつもりだったんだよ」

 その場しのぎの、誠実さなんてかけらもない言葉に苛立てば、更に一歩、彼女たちに詰め寄る。もう壁にまで追い詰め、逃げようもない具合だ。すると彼女たちは、顔を恐怖に真っ青にし、震え出した。

 そして、その時、意識の外から声がした。

「あ、二人ともこんなところに居たんだ」

 低くもなく、高くもない、印象に残らないような柔らかい声音。どこか空虚で、しかし、だからこそ親しみやすい、落ち着いた言葉。

 振り返ると、丁度、ひょこりと本棚から顔を覗かせた、限りなく透明な水色の瞳と目が合う。

 そこにはロス・バラマンが居た。

「もう、”探してたよ”。この間教えてくれた小説のタイトル、ド忘れしちゃってさ。もう一回教えてくれないかな?」

 ロスはにこやかに、素晴らしく愛嬌のある笑顔でそう言った。すると、私に詰められていた二人は、どこか安堵したようになり、ロスに何かの小説のタイトルを伝えると同時に、逃げるようにして図書室を去ってしまった。

 その背中を見送り、ロスは、こちらを振り返った。

「もしかして邪魔しちゃった?」

 ロスに見つめられると、なんだか不思議な感じがした。まるで人形や絵画の中の人物と目を合わせているような、掴みどころのない感覚がするのだ。

「……別に」

 そのため俄かに怒りも霧散し、私はぶっきらぼうにそれだけ言い残てし、踵を返そうとした。

 しかし、その時手を突如握られ、引き留められる。

「や、待って待って。じゃあさ、私、邪魔じゃない?」

「あぁ? 何が」

「いや、この間、校門から出てくるときにさ、私のこと見てたでしょ? あれ気になってて」

 言われて、私は数日前の光景を思い出した。

「別にわざとじゃねえよ。あんだけ喧しかったら見るだろ」

 答えると、ロスはくつくつと喉を震わせて笑った。

「そうだね。でも私も、貴女のこと見てたから。ずっと、いつか話したいなって思ってたんだ」

 そうして、ロスは私の手を引いた。

「邪魔じゃなければ、少し、どう?」

 言われて、しかし私は引かれた手を弾いて振りほどいた。

「悪い、先約がいるんだ」

「それって、あの頭が良さそうな、銀色の眼鏡の人?」

 言い当てられて、私は眉根を寄せた。もちろん、私とプロメッサは基本的に行動を共にしているため、言い当てられたこと自体に疑問はない。

 だが、ロスはいかにも「丁度いい」とでも言いたげな様子で、嬉しそうに、そう、私の怒っているところを見て、また私に手を振り解かれたというのに、そんなこと気にせず、心から嬉しいですとでも言いたげな顔をしたのだ。私やプロメッサを阻害するような感情は欠片もないように思えた。

「……ああ」

「やった! 私さ、あの人とも話したいと思ってたんだ。あの人、一緒に居て、すごく楽しそうだから」

 そうして、ロスは私にも完璧に微笑んだ。

「もちろん、ドレスさんも、ね? ねえ、駄目かな?」

 ロスの軽快な語り口調はなんとも当たり障りの良い質感で、ふわふわとしていた。彼女が操る声音も、彼女が選択する言葉も、一つ一つが柔らかくて、こちらのことを気遣っているように心地よいものだ。

 だから私は、そんなロスを無下に扱うことが、とてつもなく不誠実で罪悪的な行為のように思えてしまい、つい、答えてしまった。

「勝手にしろ」

 するとロスは、華やかに笑顔を咲かせて、私の隣に並んだ。彼女の肩と、私の二の腕が、今にも触れそうなほどの距離感だ。けれども、絶対に触れはしない絶妙な距離感である。

「そういえば、ドレスさんは私のこと知ってる?」

「偉い医者の娘で、人気者だってことぐらいは知ってるよ」

 答えると、ロスは面白可笑しそうに声を立てて笑った。

「人気者、なんて程じゃないよ。でもそう言ってもらえるのは嬉しいな」

 そうして彼女は、私にはいっと右手を差し出してきた。

「私もドレスさんのことは、少しだけ知ってるよ。滅茶苦茶強面だけど、すごく誠実で、絶対に嘘なんてつかない、真面目な人だって。改めて、私はロス・バラマン。よろしく」

 差し出された右手を一瞥し、私は眉を潜めた。

「誰に聞いたんだ、そんなこと?」

 私に対する周りの印象は、基本的に不愛想で、口が悪く、スマしてる気に喰わない奴だ。今ロスが言ったような印象とは、明らかに真逆である。

「色んな人にだよ。みんなはドレスさんのこと、不愛想で、口が悪くて、スマしてる気に喰わない奴だって言ってたけど、私はそうは思えなくて。さっきだってさ、大切な人の悪口言われたから怒ったんでしょ?」

 限りなく透明に近い水色の瞳が、まるで私の内側を見透かすようにして、じっとこちらを覗いてくる。そこには他の生徒や先生のように、私を”そういう奴”として見る偏見は一切なかった。

「……”変な奴”だな、お前」

 そうして、私は何の気もなしに続けた。

「そう言ってくれると、助かる。ありがとな」

 ロスが今まで出会ったことのない類の人間であることは間違いなかった。彼女は一見普通であるが、その実、話してみるとなんだか独特な雰囲気を纏っていたのだ。

 だからか、私の中ではロスに対する警戒心と言うものが、目に見えて弱まっていた。それは、あまりにも気さくで、愛嬌があるロスの振る舞いに油断してしまったというより、ロス・バラマンという人間が、根本的には悪人ではないと思えたからだ。

 これまでプロメッサ以外の学校の人間は、みんな私のことを、乱暴者で、不愛想で、”そういう奴”としか見てこなかった。それは小学校でも同じだ。話したことがない先生すら、私のことを、突き刺すような恐ろしい目で見るか、腫れ物にでも触れるような怯えたような目で見るかのどちらかだった。

 だが、ロスは違った。私がどんな人間かをちゃんと考察し、その上で、そうだと決めつけるのではなく、私が本当はどんな人間だろうといった、知ろうとする眼差しを向けてくるのだ。

 そして私は気付いた。先ほどまでの私こそ、そんな周りの奴らのように、ロスについて”そういう奴”だと偏見じみた見方をしていた。

 私は差し出されたロスの手を握った。

「さっきは手荒くして悪かった。ああいうところがいけねえんだろうな」

 言うと、しかしロスは手を握り返すでもなく、どこか唖然とした様子で、面食らったように私を見ていた。

「どうした?」

「え、ああ、うん、大丈夫だよ。痛くなかったし、気にしないで。ドレスさんとも話したことないのに、いきなり馴れ馴れしすぎたよね」

 取り繕うように笑うロスを見て、私は、彼女の笑顔は、きっと癖なのだろうと思った。ロスはよく笑う人なのだ。だから、私とは真逆である。

「ドレスで良いぞ、別にこっちも気にしちゃねえから、気にすんな」

「……ははっ、ありがと、ドレス」

 答えて、ロスは私の手を握ったまま言った。

「ねえ、ドレスは何か調べに来たの? 手伝おうか?」

「……なんで私が調べものしに来たって知ってるんだ?」

「だって普段図書室に居ないじゃん。それに図書室に入ってから、ずっとそわそわしてたし。慣れてないんだろうなって。だから、じゃあ逆にどうして来たんだろうって思ったら、調べものとかかなって」

「なるほど……お前、頭良いな」

「あははっ! そんなことないよ」

 言って、ロスは私の手を引いた。

「で、何探してるの?」

「まあ、別に何をって決まってるわけじゃないんだが、自由研究の課題に、何か良いものがないかと思ってな。プロメッサ……後から来る奴と同じ班なんだが、何かとこだわりが強い奴で、課題探しに手間取ってるんだ。そもそも二人でやれることなんて限られてる上に、私は色々忙しくて、そこまで長期間手間がかかるものもできねえし……」

 ロスに連れられるまま、私はただつらつらと現状を述べた。調べものを手伝ってくれるというのなら、最低限の条件の共有は必要だろうという、それだけの理由だ。

 すると、ロスは肩眉を上げて尋ねてきた。

「うーん、確かに難しそう。こだわりが強いのに、手間がかけられないって言うのが厳しいね」

 一瞬だけ間があって、今思いついたように彼女は続けた。

「そうだ、例えばだけど、他にも人が居たら出来そうなこととかはあるのかな?」

「他にも人がいれば? あぁ……確か……」

 ぼやいて、先日、教室に居残って話し合いをしたとき、プロメッサにいくつか案を出したときのことを思い出す。

 あの時、一つ、人数の問題で却下されたものがあったはずだ。

「少し前に、ギガノス山での宝石堀り体験が、三人からの募集で、二人だと応募できないってなったことがあったな。プロメッサも面白そうとは言ってた」

「……ふうん、そこでもう一人探そうとはならなかったの?」

「締め切りが明日までだし、そもそも私達にんな気軽に誘える相手はいねえんだよ」

 若干呆れながら答えると、その時、本棚を適当に眺めながら歩いていたロスが足を止め、こちらを見上げた。

「じゃあ、私とか、どう? 実は私、結構好きなんだ、宝石」





四 プロメッサ・ランディ


「プロメッサ! 君は素晴らしい!」

 外国語教師が、いかにも大げさな、誇張したような仕草で私を褒めたたえた。その甲高い声は、昼休みの職員室内に大きく木霊して、四方の壁に取り付けられた扇風機の羽に吸い込まれていき、ばらばらに切り刻まれる。

 そうして生じた温い風は、汗ばんだ私のうなじをいたずらに吹いた。そして外国語の教師は、そんな私に、一冊の本を差し出した。

「これ、さっきの授業で話してた、私の国でのチャカメッチャの歴史の本。私の宝物の一つなの。でも、君にあげる」

「良いんですか?」

「勿論だよ! プロメッサ、君はとても賢い人間だ。だからね、もしかしたら、賢過ぎて、色んなことを無理かもしれないって考えてしまうかもしれない。でもね、君は賢いという以前に、若いんだ。だからまずは、やりたいことをすると良い。そして、私はそんな君の先生なんだから、その手伝いをするのは当たり前だ。だから、気にせず受け取っておくれ! ほらほら、遠慮しない!」

 言って、外国語教師は半ば強引に私の手にチャカメッチャの歴史の本を握らせた。ずっしりと重く、表紙の具合から大分年季が入っているものだと分かる。きっとこの重さは、ただ紙の量が多いというだけではなく、この本に関わった多くの学者の思いや、この本に夢を馳せたこの先生の、尊い情熱が詰まっているために重いのだ。

 だからそれを受け取り、私の胸には純粋な感動が湧いた。そうして先人たちの知の伝達のバトンを握りしめ、抱きしめると、そこに渦巻く情熱に胸が熱くなるのだ。私は、勉強が好きだった。

「ありがとうございます、先生。大事にしますね」

 答えると、外国語教師は深く微笑んでくれた。そもそも彼女の故郷と、私の親の片方、父親の故郷は、なんと同じ場所であるのだ。そんな風に私が外国人とのダブルであるから、時にはそう言った側面で馬鹿にされることもあることを理解し、この外国語教師は、進んで私に話しかけてきてくれるのだ。

「もし読めないところがあったらいつでも聞いて。言葉っていうのは、世界各地の知恵、知識が詰まった宝箱を開けるための鍵だから。たくさん言葉を知ってれば、たくさんの宝物が手に入る。何事も、話し合って理解し合うのが重要ってこと。プロメッサのためなら、いくらでも、秘密の合鍵を教えちゃうよ」

 くしゃりと顔を崩して、底抜けに明るく、おどけるように笑う外国語教師に、私は耐えられなくなって、声を立てて笑ってしまった。彼女もドレスのように面白い人間だ。賢くて、親しみやすくて、発想の懐がとにかく深いのだ。

 そうして職員室を後にすれば、私は貰った歴史本を大事に抱え、図書室を目指した。外国語教師との話に花を咲かせてしまい、ドレスを思った以上に待たせてしまっている。勿論それくらいで怒る彼女ではないと分かっているが、何よりも今は、気分屋らしく、新しい宝物を獲得できて、胸がわくわくしていたのだ。

 なんなら、鼻歌だって歌っていたかもしれない。廊下を歩き、階段を上り、同じクラスの二人の生徒(何故だかあからさまに顔をそむけられた)とすれ違い、滑りの悪い図書室の扉を開く。

 だが、そこで目にした光景に、私は思わず足を止めてしまった。図書室の奥の方の机の所に、ドレスが座っているのは一目でわかった。何せ、彼女は恐ろしいほどの美人であり、その存在感は、雲の上から世界を見下ろしても、すぐに見つけられるほど鮮烈なものであるのだ。

 だが、その隣に人が座っており、また、それがあのロス・バラマンであることに驚愕した。しかも二人の距離は、今にも肩が触れ合いそうなほど近く、なんなら同じ本を間に開いて、一緒に読んでいるのだ。

 一体全体、私が居ない十数分の間に何があったのか。チャカメッチャの歴史本を抱えなおしながら近づくと、ロスが先に気が付いた。

「あ」

 その声に、ドレスも振り返る。

「遅かったな、プロメッサ」

「ああ、うん、ちょっと話しこんじゃって。遅れてごめん」

 答えて、私はロスを見ると、そのまま質問をぶつけた。

「えっと、ロス・バラマンよね? 転校生の。どうしてここに?」

 するとロスは、あの限りなく透明な水色の瞳で答えた。

「丁度さっき色々あって、ドレスと話すようになって、成り行きで」

「色々?」

「ああ、さっきお前の陰口を叩いてる奴らが居たんだよ。私がそいつら詰めてたら、ロスが間に入って、なんかなあなあになって。それからはこいつが私たちと話してえって言うから」

 ドレスの簡潔過ぎる説明を聞いて、私は再び驚いた。それはドレスがロスに対して、すでにある程度警戒心というものを解いているように見えたからだ。

 そうして私が驚いている隙に、ロスが相変わらず柔和な、少しだけ空虚な笑い方で言った。

「昨日さ、プロメッサさん、屋上から手振ってくれたでしょ?」

 言われて、昨日の記憶がよみがえる。昼休みに蹴鞠をする生徒たちを見下ろしながら、その中に居たロスに、確かに手を振った。

「ごめん、別に深い意味があったわけじゃないの」

「ははっ、私も。目が合ったら、なんか、手振りたくなっちゃうよね」

 にこやかなロスの言葉に、私はなんだか困惑した。自分やドレスのような、端の方にいる人間と、彼女のように全ての中心にいる人間は、決して交わらないものだと思っていた。しかし、ロスは愛想を振りまいて楽しそうに話すのだ。

「それで、何読んでるの?」

 言い、とりあえずと二人の間にあった本を覗き込んでみると、そこには数々の宝石の写真があり、それぞれに簡易的な注釈が付いているような、鉱物の図鑑があった。

「宝石?」

「ああ、この間、ギガノス山の宝石堀り体験の話があっただろ? お前さえ良ければ、ロスが一緒に行きたいって言いだしてな。確か、応募は三人からだっただろ?」

「そう、私結構宝石とか好きなんだ。だからずっと気になってたんだよ。それで、良い機会だと思って」

 二人から見上げられ、私は目を白黒させた。なんだかロスが、いつのまにか、ずっと昔から友達でもあるような距離感で振る舞うものだから、頭の中がごちゃごちゃとしているのだ。特に、それにドレスがさらりと対応しているのが受け入れがたい。

 こう言った時、私が言うことは決まっていた。

「ごめん、三日考えさせて」

「締め切り明日だぞ」

「ははっ、ドレスが言った通りのこと言ってる」

 なんだか独特の空気である。自分だけがおかしいような、取り残されているような不思議な違和感。だが、それを不快には感じない。

 よって頭のどこかでは、これはロスの仕業だろうと理解していた。

 彼女は、水面下で色々と手を回すことに長けているのだ。私はこの一か月、影から彼女を観察していて、それに気付いていた。そして今、私の目の前にある笑顔の裏には、人形や絵画のような、ひどく無機質な素顔があることも、私は知っている。

 しかし、だからと言って彼女が悪人ではないだろうという推測もあったため、私は最終的に、頷いてしまったのだ。

「……まあ、別にいいんじゃない? 私、当日になったら行かない可能性あるけど、それでいいなら」

 答えると、ロスは目に見えて大袈裟に喜び、ドレスは「その時はその時だ」と、いつも通りに理解を示した。

「じゃあプロメッサさんも、ほら、座って。どんな宝石があるか勉強しようよ」

 隣の席を示されれば、私はまだどこかもやもやとしながらも、言われたとおりに着席した。そうしてドレス、ロス、私の順に並び、私に合わせて、ロスの前に移動した鉱物図鑑を三人で覗き込んだ。

「私、この宝石好きだな。星翠石ってやつ。二人は何が好き?」

 ロスが示した宝石は、透明感のある翠色の宝石の中に、星が散りばめられたみたいにきらきらとした砂のようなものが混じっており、まるで緑色の夜空を砕いた、その破片を見ているみたいだった。

「私はどれでも良い。所詮全部石だろ」

「もう、ドレスってば。プロメッサさんは?」

 話を振られ、私は眼鏡を整えながら、図鑑を捲っていく。そうして目当ての宝石を見つけた。

「この樹剛石ってやつ」

 私が指さしたものは、古代の樹木が化石のようになり、若干黒ずみながらも、鉱物とも、植物ともとれない、曖昧な雰囲気を醸しているものだ。私はその中途半端さが自分に似ているようで、また、深い歴史も感じることができて、好きだった。特に、巨大な樹木であったのに、それが気が遠くなるほどの時を経て、たった手の平程度の大きさに濃縮され、硬く、深い皺を沢山抱えている所なんかが、美しいと思えた。

 だが、きらきらしたものが好きな他の中学生からすれば、樹剛石はただの黒ずんだものである。アクセサリーになんて到底できないし、誰かに贈ったところで、炭と間違えられて暖炉に放り込まれるのが関の山だ。

 しかし、ロスは楽しそうに微笑んだ。

「これも綺麗だね。プロメッサさんは、昔から好きなの?」

「……うん」

「ははっ、流石だね。物知りだ」

 笑って、ロスは再度ドレスに対して、「もっとちゃんと見てみなよ」と図鑑を広げて見せた。そうして面倒くさがるドレスと、愛想よくそれを受け止めるロス。端から見ていれば、見事に仲が良い友達のようだ。

 ただそんな二人を眺めていると、遠くの方から、こそこそとした人の声が聞こえた。

「え、あれどういう状況?」

「なんでロスが、あの二人と仲良くしてるの?」

 声は、図書室の入口の方からだ。そこには、ちょうど一か月ほど前、ロスが引き連れていた数名の生徒たちが居た。あの喧しい奴らだ。私は目玉だけを動かし、視界の端で彼女たちを捉えた。

 そして、彼女たちの小言に、意識して耳を傾けた。

「最近、ロスって付き合い悪いよね」

 そんな陰口に目を細めれば、しかし、それと同時に、ロスがこちらを振り返った。

「プロメッサさん? どうしたの?」

 きょとんとした、いかにも純情そうな表情。本当に作り物のようで、穢れがなく、清らかな雰囲気さえある彼女だが、しかし、それはあまりにも理想的すぎて、少しだけ気にかかる。

 だが、そこに悪意がないことだけは、なんとなくわかる。

 そして、そんな彼女の周りに居た人間たちに悪意があるのは、知っている。

 私は、悪意と言うものがどんなものなのかを、理解している。

「お友達、きてるけど?」

 小さな声で言うと、ロスはほんの一瞬だけ頬を震わせた後、滑らかに優し気な笑みを浮かべた。

 その一瞬の表情の変化を、私は見逃さなかった。

 そしてその時、ぞろぞろと足音が近づいてきた。

「あれ、ロスじゃん、こんなとこで何してんの?」

 振り返ると、そこにはロスの取り巻き達が居た。

「あ、リンリン。ちょっとこの二人と話してただけだよ」

「友達なの?」

「それは、えっと」

 ロスが珍しく言い淀み、何とも言えなさそうな顔をして視線を泳がせた。それを見て、私は言った。

「友達だよ」

「ふうん」

 答えると、リンリンと呼ばれた、少しいじわるそうな雰囲気を醸す生徒は、眉間に皺を寄せた。

 そして、彼女が再び口を開こうとしたとき、ロスを挟んだ向こう側から、低く、鋭利な声がした。

「何か用があるなら、外で話すか?」

 ドレスの眼差しには、ぎらぎらとした炎のようなものがあった。彼女は潔白なる魂を以て、薄汚れたリンリンの、いじめっこの気配を本能的に悟ったのだ。

 その眼差しに、リンリンは顔をしかめ、「別に」と言い残し、ロスを見下ろすように一瞥して、図書館から出て行ってしまった。

「なんだあいつら」

 ドレスが呆れたようにため息を吐くと、私はロスへと目をやった。彼女はどこか申し訳なさそうな、委縮したような顔をしている。

「ロス?」

 声をかけると、しかし、彼女はすぐにいつもの笑顔を張り付けて私を見た。

「なんかごめんね。リンリンってば、悪い子じゃないんだけど、時々機嫌が悪い時があってさ。もしかしたら、何か誤解しちゃってるかもだし、ちょっと追いかけてくるね」

 言って、慌ただしく席を立ち、ロスはその場を後にしようとした。だが、その背にドレスが呼びかけ、引き留める。

「放課後、校門で待ってる」

 その言葉に、ロスは驚いて振り返った。もちろん私もだが、しかしすぐにドレスが、根は誠実で、真面目であることを思い出した。

「え、どうして……?」

「どうしてって、これ、やるんだろ? 一緒に。まだ話し合いの途中だ」

 逞しいドレスの指に差された鉱石図鑑を見て、ロスは、一拍置いて、心の底から、柔和に微笑んだ。

「ありがとう。でも、ごめん、今日塾があるから。またね」

 言い残し、ロスはリンリンを追って、図書室を出ていった。




五 ドレス・ホーガンベア



「私、聞いたの。リンリン達が、最近ロスの付き合いが悪いって陰口叩いてたの」

「付き合いが悪い? ロスって友達多いんだろ? ならそういうこともあるんじゃねえのか?」

「でも、なんかそう簡単な話じゃない気がするの。リンリンが来たってわかったら、ロス、なんか、こう、なんていうか、怖がってる顔? してたから」

 言われて、私はプロメッサの目を見た。先ほどまでの苛立ちなどなくなり、ただ感心だけが湧いてくる。

「よく見てんな、お前」

 そうして長くなった灰を、私とプロメッサの間に置いた灰皿に落とす。同じところに座り、同じ時を過ごしているはずなのに、プロメッサは私よりも多くのものを見つけて、多くのことを考えている。

「でも、怖がってる、か……確かにあの野郎、結構めんどくさそうだったからな」

「そう。だから私、ロスが私たちの所に来たのは、ただ話したいからとか、宝石に興味があるからとかじゃなくて、あいつらと一緒に居るのが嫌になったからなんじゃないかって思うの」

 プロメッサの言葉を、けれども私は本質的には理解できなかった。一緒に居るのが嫌ならば、ただ離れればいいというのが私の考え方だからだ。それで今、結局友達がプロメッサだけになってしまってはいるが、それを不幸だとは少しも思わない。むしろ、一緒に居て苛つくような奴らといる方が不幸なように思えてしまうのだ。なのにロスは、最後、リンリン達を追いかけた。

 だから私は、何ともなしに、深く考えず答えてしまった。

「そういうもんなのか」

「わからないけどね」

「なら、直接本人に訊いてみるか」

 ぼやけば、しかし、プロメッサは肩を竦めてかぶりを振った。

「きっと素直に答えないわよ」

「どうして?」

「そういう奴だからよ、ロスが。私、ちょくちょく見てたから知ってるの。ロスは、多分ドレスが思ってる以上に色々考えてる」

 言われて、ロスのことを思い出してみた。最初、学校の前の塾で多くの生徒に囲まれていた時のこと。また、今日の昼休み、私が怒ってるところに、仲裁でもするように割り込んできたこと。それからの、私やプロメッサと話したいと言ったことや、宝石が好きだと言ったことや、誤解を解きにリンリンを追うといったことや、最後に、今日は塾があると言ったこと。

 そのどれもが、私にはごく自然で、滑らかなようなものに見えていた。ロスはこの世の全てのものに微笑みかけ、快活に笑い、誰に対しても理解を示すような、物好きな奴だと思っていた。

 だが、そんな私の認識が間違っているのだろうか。

「なあ、プロメッサ」

 そうして、私は遠い夜空に溶けていく紫煙を眺めた。

「ロスは何を考えてるんだ?」

 言葉が何の抵抗もなく出てくる。それこそ、まさしくただ息でもしているようだ。私のロスに対する認識は、この一日で次々と更新されていった。

 それはやはり、私がどこか、ロスを気に入ってるところがあるからだろう。彼女は他の、私を「こんな奴だろう」と決めつけていた生徒や先生とは、根本的に違うのだ。彼女はあくまでも、私という人間を見ようとした。そしてもしそれが、プロメッサが言うように、本当に、誰かから逃げるためのものなのだとしたら。避難場所を探すように、目を凝らしていたからなのだとしたら、それは、無下に扱っていいものではないのではなかろうか。

「珍しいわね、ドレスがそこまで誰かのことを知ろうとするなんて」

 煙草を少しだけ啜り、肺の中に、仄かに甘く味付けされた煙を流し込む。その甘さは肺の中から、酸素に混じり、血液の中へと忍び込んで、体中へじんわりと巡っていく。何とも言えない、独特な多幸感だ。体から余分な力や凝りや疲れが分解され、心がひどく落ち着く。最初は日々の労働や、学校でのストレスから、何ともなしに始めてみた煙草であるが、こうやって夜に一本、ゆっくりと吸うだけで、なんだか体が楽になる気がするのだ。貧乏による抑圧や、容姿に関する注目や、言動に対する反感や、私という存在に対する一種の偏見から、この時だけは解放される気がした。

 だから、ロスについてのことも、深く考えられる気がした。まだ彼女と言葉を交わして、友達になって一日目だ。

 だが、友達になったのなら、相手が困っている時、助けてやるべきだ。

 特にそれが、私を知ろうとしてくれた人間ならば、私だって、相手のことを知ろうとしなければいけない。

「誰かじゃねえよ、友達だ」

 言うと、プロメッサは両の眉をぴくんと上げて、しかし、ゆっくりと微笑みながらため息を吐いた。

「本当、ドレスってそういうとこ真面目よね」

「んだよ、お前が友達だって言ったんだろ?」

「はいはい、そうだったわね」

 プロメッサの薄く、桃色の唇が、煙草の白い吸い口を食む。するとほんの僅かに口先の明かりが強くなり、綺麗な橙色が、闇の中に瞬く。

 同時、私も煙草を吸えば、その火がじんわりと色めいた。

 二対になったその光が、まるで逞しい獣が力強く瞳を輝かせているような、はたまた、聡い人間が知と徳をそれぞれに灯した眼差しを煌めかせるような具合で光を放つ。

「ねえドレス、暑いんだけど」

「知らねえよ」

 静寂の中、言葉を交わせば、その弾みでぽとりと、灰が落ちる。

 それからも、私達はいつも通り言葉を交わし、共に、昨日と同じ、昨日とは違う夜を過ごした。




六 プロメッサ・ランディ

 

「あれ、確か隣のクラスの、どうしたの?」

「プロメッサよ。ちょっとロスに用があって」

 雑踏と、雑音と、雑談と。三者三様な音が雑多に掻き混ぜられ、混沌としたように喧しい休み時間、私はギガノス山の発掘体験のチラシを抱え、ロスを探していた。

 すると、丁度ロスの教室の前の辺りに居た生徒が気付いてくれたのだ。気さくで、人の良さそうな生徒だった。

 そしてそんな彼女は、私の言葉を聞くなり、なんだか申し訳なさそうな顔をした。

「ごめんね、今日あいつ学校休んでるんだ」

「休んでる? なんで?」

「なんか体調不良? とかで」

 言って、彼女は隣に居た生徒に確認するように目をやった。するとその生徒も頷いて返す。

「そっか……これ、提出しないといけないんだけど」

「何それ」

「ギガノス山の発掘体験のチラシ、前配られた今月末のやつ。私とドレスとロスで行こうって話してて」

 答えると、その気さくな生徒は何とも悪気なしに、驚いたような、疑うような顔をした。

「マジ?」

「マジだけど……そんな信じられない?」

 私が聞き返したのは、ロスが私やドレスみたいな少数派の生徒と友達であることについて、まさか驚きを通り越して、疑うような目を向けられたからだ。

 もちろん私やドレスは、殆ど二人でつるんでおり、華やかな青春時代の隅の方で鎖国でもしているような関係だ。端からどう見られようとかまわず、そもそも、どう見られたいかといった発信さえしていないため、周囲に好き勝手陰口を叩かれることだってある。

 だからきっと、目の前の彼女もそういった印象の持ち主で、偏見まがいに驚いたのだと私は推測した。

 しかし、どうやら私の推測は間違っているようだった。

「いや、だって月末って確か、ロスの奴、リンリン達と旅行するとか話してたからさ」

「……旅行?」

 全く予想外の返事に、私は自分の耳を疑った。確かドレスの話では、あくまでもロスから、私達とギガノス山の発掘体験に行きたいと申し出てきたはずだ。しかし、その本人であるロスが、すでに全く同じ月末の時期に旅行の予定を入れているというのなら、おかしな話になってくる。

「それ本当?」

「本当だよ。だって私らも誘われたし。ただ、部活してると中々参加できなくてさ」

「ふうん……じゃあさ、ロスの家の電話番号教えてくれないかしら? 私知らなくて。やっぱり、なんか色々確認しないといけないみたいだから」

 ロスの予定被りについて訝しみながら言うと、しかし、その生徒はまたもや申し訳なさそうな顔をしながらかぶりを振った。

「ああごめん、ロスの家の電話番号、私も知らないんだ。なんか前聞いた時、ロスの奴、引っ越す前の家の番号教えてきてさ。あいつ、そういうとこあるんだよ。だからその予定被りも、あいつの間抜けかもしれない」

 彼女は笑いながら言い、隣に居た友人もそれにつられて笑った。しかし、私はなんだか胸の辺りにもやもやと引っかかるものを感じており、彼女たちに礼を言うと、教室内に居た顔見知りの生徒たちに、ロスの家の電話番号について尋ねて回った。

 しかし、不思議とロスの家の電話番号は誰も知らないというのだ。その中には何度か、特にロスと親し気に話していた生徒もいたが、彼女でさえ、「前聞こうとしたら、丁度ロスが用事思い出したって居なくなっちゃって」と答えた。

 彼女の答えを受けて、私の中のもやもやはさらに膨らんだ。それはロスに対する疑念だ。私は彼女が天才的なまでの瞬発力と、口の上手さと、人当たりの良さを持っていると思っており、そのため間抜けという言葉が、あまりにもロスには当てはまらないと思ってしまったのだ。

 だってそうだろう。ロスは常に広い視野で周囲を観察しており、目の前の人を喜ばせるためや、周りの空気を整えるために、人知れず手を回し、嘘を吐き、それを秘匿し続けるほどの賢さを持っているのだ。

 だから彼女は友達が多く、人気者で、有名なのである。

 そして、そんな人間関係の天才のようなロスの家の電話番号を、誰もがその時々の”ちょっとした理由”で聞きそびれているのだ。それもそのほとんどが、ロスの些細なミスや、突発的なアクシデントによるものだ。

 故に、ロスはもしかして、”誰にも電話番号を教えないようにしているのではないか”という疑問が湧いてきたのだ。

 予測し、生徒に聞くことを止め、私は職員室へと向かった。確かあの外国語教師がロスの教室の副担任だったはずだ。彼女なら、必ず電話番号を知っているだろう。

「ロスの家の電話番号? 勿論知っているとも。何か用があるの?」

「このチラシのことで。一緒に発掘体験に行こうって話してたんですけど、今日締め切りで。なのに、ロス、今日学校休んでるじゃないですか。色々確認しておきたくて」

 言うと、外国語教師は「それは大変だ」と快く番号を教えてくれた。それからその番号が書かれたメモを握り、職員室前に設置されている公衆電話へと小銭を入れると、受話器を持ち上げて番号のダイヤルを回そうとした。

 しかしその時、なんだか言いようのない抵抗感が私の指を引き留めた。

 それは、本当に電話をしても良いのだろうかという思いが、ふとついて出たからだ。

 ロスが本当に、他人に電話番号を教えないようにしていたのだとしたら、それは彼女が、そこまで力を尽くして隠したい事があるからではないだろうか。

 私はずっと、ロスがどうしてあそこまで他人のために振る舞っているのかがわからなかった。彼女は視野が広く、振る舞い方も完璧で、多くの人を騙せるほどの力があるのに、なぜかその全てを人の為に費やし、自分はふとした瞬間に、誰にも見えない死角で、まるで人形か絵画とでも言うような無機質な表情を晒し、空虚で、薄気味悪いほどの生気のなさを漂わせるのだ。

 つまりロスは、自分の稀有な嘘の才能を、自分が富むために使っていないのである。

 彼女はそんな鬼才を、”自分を隠すために使っている”のだ。

 そうなれば、彼女がひた隠しにしようとしていた電話番号をこのような形で入手し、使用してしまうことに対して、抵抗感のようなものを感じてしまった。

 あのロスの対人的な巧みな振る舞い。まるで他者にパンをやりすぎて餓死でもするような、やりすぎた献身のようなものの真相を暴いてしまうことは、善いことなのだろうか。

 それが本当に、彼女の為になるのだろうか。

 だがしかし、私はそう思いながらも、ゆっくりと電話のダイヤルに指を触れてしまった。

 私は知りたかったのだ。あの独特な雰囲気を放つロス・バラマンという人間に、根本的に興味を引かれていた。知らないものを知りたいという知識欲と、隠されているものを暴きたいという探求心という、私という存在にとっての脳と心臓が、神秘的とさえ言えるロスの真実を魂から欲していた。

 一体彼女は何者なのか。何を考えているのか。そもそも私がこの一か月、ロスを眺めていたのも、そんな考えによるものだ。

 私は、ただ私の為に、ロス・バラマンという人間を知りたかった。

 そんな衝動に突き動かされて、一つ一つダイヤルを回していった。かちゃり、かちゃりと音が鳴る。その回転音がまるで心臓の鼓動のように思えて、自分の手で絡まった謎を解いていく興奮と、迫ってくる真実に対する緊張感に息を呑む。

 そうして最後の番号を入力し、私は、受話器から聞こえてくる音に意識を傾けた。

 一つ、二つ、三つ。ぷるると無機質な呼音が鳴る。それが聞こえるたびに、私は息すらも潜め、まるで周りの誰にもこの秘密を悟らせてはいけないという風に、じっと静かにした。

 変に鼓動が早まった。職員室周りの独特な、聖域じみた静けさが息苦しいとさえ感じてしまう。むしろ私は普段、生徒たちの喧しい肉声が飛び交う教室の中の空気こそが、三十人すべての吐息が混じりあってひどく汚染されたように思ってしまい、憂鬱になるのだ。

 逆に、私が息をしやすい場所と言えば、それは断然ドレスの隣か、彼女の家である。勿論自宅でも気を抜くことはできるが、いかんせん私は姉妹がおらず、両親はべたべたいちゃいちゃくっついてばかりで、つまらないのだ。

 その点、ドレスの家ならばポンポンやドレスが居て、会話や遊びに困ることはない。むしろ中学生になってからは、ちょっとした家事なんかも手伝い始めたりして、ドレスの家は居心地が良いのだ。だから好きな勉強や読書も、自宅でするより、ドレスの家でする方が捗るのである。

 ちなみに、そんなドレスは現在上級生に呼び出されて校舎裏に行っている。いつものことだ。彼女は呼び出されたら、「一人で来いって書いてある」と律儀に言い、私を置いて行ってしまうのである。本当に、馬鹿みたいなほど真面目な人間だ。だが、そんなドレスに、毎度のように多くの生徒がこてんぱんに叩きのめされているのに、懲りずに呼びつける周りも周りである。

 そして、そんな風にじっと何かを考えること数分。

 いつまで経っても誰も応答する気配がない受話器に、私はなんだか肩透かしでも喰らったような気分になった。

「番号間違えてるかな」

 呟き、それから二度、三度と電話をかけなおしてみるも、誰も出ない。

「……まあ、寝込んでるならしょうがないわね」

 呟き、私は諦めて受話器を置いた。ドレスの父は偉い医者であり、また、母親も働いているのだろう。そうなれば、体調不良でロスが寝込んでいた場合、昼間の電話に誰も出られないのはしょうがないことだ。

 そう思いながら戻ってきた小銭を摘まんだ時、しかし、私の頭の中には、ふと別の疑問が浮かんだ。

 そもそも、ロスは本当に体調不良なのだろうか。

 妄想の域の話ではあるが、何故だか、私はそんな風に考えてしまった。すでに私にとって、ロスに関する全ての事柄は疑うべき対象になってしまっていた。

 だから私はなんともなしに、自分の教室に戻ると、顔見知りの中から、ロスと同じ塾に通っている人間を見つけ、尋ねてみた。

「ねえ、今日ってロス休みなんでしょ? 昨日の塾で体調悪そうだった?」

 すると彼女は、さらりと答えた。

「ごめん、昨日塾休みだったからわかんない」





七 ドレス・ホーガンベア


 私はバイト先で、折りたたみ式のテントを一人で持てるという理由で、一人前と認められていた。

 もちろん最初、中学に入りたての頃の私は、ただ親戚の伝手でイベント運営会社に飛び込みバイトをしに行っていただけの半人前以下であったが、それでも職場の大人たちはみんな私の家の事情を理解しており、また、私が文句ひとつ言わず、汗水たらして働いているのを見て、色々なことを教えてくれた。

 例えばテントの持ち方だってそうだ。あの見上げるくらい大きな折りたたみ式のテントを筋力だけで持ち上げることは難しい。何せ取っ手のような便利なものはなく、抱きかかえる形で持ち上げなければいけないのだが、まるで巨大な樹木にしがみついているように、テントが大きすぎて、どれだけ腕が長くても向こうの方まで指先が回らないのだ。そのため満足に力が籠められず、握力が弱まり、テントを持てなくなるのだ。

 だが、コツさえつかめば、そんなテントでも一人で持てるようになるのである。そのコツとは、テントを腕で持とうとするのではなく、腰で持つということだ。

 腕を使うのは最初の一瞬、テントを持ち上げる時だけである。しっかりと二本の足で踏ん張り、肺の奥に息を詰め、両手にぎちぎちと力を入れれば、テントを持ち上げること自体はできる。そこから歩くのではなく、若干仰け反るようにして、へその上あたりにテントの重心を置く要領で、腰を落とすのである。

 これが、自分よりも大きくて、重いものを持つときの技術であった。テントに限らず、例えば大きなワゴンや木板、長机など、イベント設営の時に使う諸々の大道具は、こういった技術を持っていれば、一人で素早く、疲れず運ぶことができた。

 だから、一人で折りたたみ式のテントを持てれば、私のバイト先では一人前であったのだ。

 そうして、私はあくる日もあくる日も、熱心に働き続けた。そもそも中学生をバイトとして雇うことはできないため、あくまでもそのイベント運営会社で部長をしている親戚の親族として、手伝いという名目で私はバイトをしていたのだ。ただ、そこまでして私を働かせてくれる親戚のおばさんや、会社の人たちには感謝しかなかったため、私は手を抜かず、愚痴も零さず、ただひたすらに汗水を流した。

 もちろん、こうして私が働いていることは学校にも秘密である。家族以外で私がバイトをしていると知っているのは、プロメッサの家の人たちくらいなものだ。だからこうして、重いものを持ち続けたために力や体力がついている私に対し、少し部活をしたり、日常生活の片手間に鍛えている程度で喧嘩を売ってきたような奴らは、文字通り歯が立たないのである。

 そのため、今日も私は、自分を呼びつけてきた上級生の集団を片っ端から張り倒していた。しかもこれが、昼休みだけではなく、放課後にもやってきたのだから、本当に懲りない奴らだ。

「……かったりぃな」

 呟けば、喧嘩の途中、殴られた際に切れた頬の内側が鋭く痛んだ。顔をしかめ、血が混じった唾を吐けば、鼻を鳴らして、上級生たちが伸びている校舎裏を後にする。

昨日に引き続き、今日もバイトは休みであったのだが、この通り呼び出されてしまい、結局帰るのが遅れてしまった。もうすでに陽は落ちて、辺りは薄暗くなり始めている。きっと今頃、先に帰らせたプロメッサはポンポンと遊んでいる頃合いだろう。

 ならば、帰った辺りは丁度飯でも作っている頃だろうか。考えれば、腹の虫がぐぅと鳴き始めた。

 プロメッサの料理は本当に旨いのだ。それが何故かと言えば、味付けが全て私とポンポン好みであるからだ。そもそも彼女は、私達に振る舞うために料理を始めていた。またずば抜けて頭が良いため、どんな食材を組み合わせればどんな味になるといった理屈的な考え方を得意とし、まるで数学の式を作るみたいに、足し算、引き算を駆使して私達が好きな味を作ってしまうのである。

 だが、だからこそ、そんな聡明で、手先が器用で、何でもできるプロメッサの弱点である気分屋というものが偶に牙をむくのだ。

 プロメッサは料理が上手いが、レシピのメモを取らないため、本当に美味しかった料理の再現性が低いのである。そのため、ごくたまにオムライスでさえも卵がろくに膨らんでおらず、普段とは比べ物にならないほど粗末なものが出てくることがある。

 はたして今日はどちらだろうか。今日のプロメッサの気分を思い出せば、なんだか色々と考え事をしていたような記憶がよみがえった。

 確か、あれは昼休みを終えてのことだ。私が上級生を返り討ちにして教室に戻り、ロスにチラシの確認をしてくると言っていたプロメッサに首尾を尋ねたところ、なんとロスが学校を休んでいたということを聞いた。

 その時私は、昨日まであれだけ元気が良かったのに、急に体調不良だなんて災難な奴だとしか思わなかったが、しかし、プロメッサは違ったようだった。じっくりと考え事をする時の目つきになり、ロスについてああでもない、こうでもないと呟きながら、先に帰路を辿ったのである。

「……こりゃ、考え事しすぎて色々焦がしてる日か?」

 過去のプロメッサの料理記録をもとに頭の中で調べてみれば、そんな推測が立つ。彼女は聡明であるが、気分屋であるため、一度こうだと思ったことにはひどく頑固になる瞬間があり、ものごとの切り替えというのが下手になる時があるのだ。

 そうして鞄を背負いなおし、喧嘩の為にできたいくつかの傷跡に顔をしかめながらも学校を出ようとすれば、けれどもその時、校舎の方に小さな人影が過ったのが見えた。

「……ロス?」

 ほんの一瞬視界にとらえただけだが、それでも、ぴょこぴょこと蛙が跳ねるような歩き方と、それに合わせて髪の毛や服が溌溂に舞うような影が、頭の中でロスと重なった。

 気のせいだろうか。一瞬足を止めるが、しかし、私はすぐにその人影を追って校舎の方につま先を向けた。迷ったなら確かめればいいだけの話だ。私はプロメッサと違い、考えるよりもまずは行動をするタチであるため、大股で中庭を横切り、下駄箱を抜けると、階段を上がっていくような足音だけが聞こえ、それを追った。

 すると四階の、美術室や音楽室が並ぶ廊下に辿り着いた。すでに生徒たちは全員下校しており、学校に残っている人間と言えば、先生か、部活生か、何か委員会をしている生徒か、喧嘩をしていた生徒くらいだ。

 そのため、ずうっと奥の方まで続く誰もいない廊下が、まるで怪物があんぐりと口を開けているようで、薄暗く見える化け物の喉奥が、今にも私を飲み込んでしまいそうな不気味さを訴えた。なんだか薄気味悪い吐息が辺り一面に漂っているようだ。昼間賑やかだった生徒たちの声がすっかり腐ってしまって、異臭でも放っているような静寂である。 

 そしてそんな中、最奥の突き当りにある音楽室から、一つ、控えめなピアノの音色が聞こえてきた。随分とゆったりした曲調で、まるで録音された曲を半分の速さにして流しているような、良く言えば一切の間違いのない完璧な演奏で、悪く言えば、生気を感じない無機質な演奏だった。

 私は、そんな旋律に手招きされるように、怪物の喉のような無人の廊下を進んだ。辺りは相変わらず不気味で、ピアノの演奏自体も骸骨が演奏しているようにオカルトチックなのに、何故だかそれが寂しそうに思えてしまい、情が揺さぶられるような感覚があった。

 だから私は、何の躊躇もなく、音楽室の扉を開いた。

 そうして中を覗き込むも、しかし、そこには誰もいなかった。

 防音加工が施された穴あきの壁に、一面に敷かれたマットレスと、蓋が開け放たれたままのグランドピアノ。薄暗く、人気のない、夜の音楽室。

 奥の壁にかけられた音楽家たちの絵画が、まるで睨むように私を見つめる。されど私は、睨まれただけで臆するようなタチではなかった。

「誰かいるのか?」

 声を投げると、私の声は、防音の壁の中に吸い込まれていった。満ちる静寂は色濃く、私の瞳を塞ごうとする。

 返事はない。私は目を細め、グランドピアノの方まで歩いていくと、真っ白い、綺麗な歯並びの鍵盤を見下ろした。

 そしてその上に指を置き、押してみると、綺麗な低音が響いた。

 私は呟いた。

「綺麗な演奏だったから、続きを聞きたかったんだが……」

 言って、私はそっと鍵盤の蓋を閉めようと手を伸ばした。

 しかしそれを、突如、横から伸びてきた白い細い手が掴んで引き留めた。

「それ、本当?」

 言われて、その手を辿って視線を動かすと、そこには、ロスが居た。

 薄暗くて顔はよく見えないが、なんだか、あの限りなく透明な水色の瞳が、不思議に輝いているような気がした。それはまるで黒い水面の下で揺れる夜光虫の煌めきのような、もしくはガラス一枚隔てた向こうの店明かりのような、透明な壁のようなものを隔てた輝きだった。

 そんなロスを見て、私は自分の目を疑った。

「ロス? お前、今日体調不良で、学校休んでるんじゃなかったのか?」

 彼女は闇に紛れるような、うちの学校の黒いセーラー服を着ていた。首元の赤いスカーフだけが鮮烈に目に焼き付くようで、彼女の出で立ちは、まるで健康そのものだった。

 だが、私が尋ねた途端、ロスは本当に体調でも悪いように顔を陰らせて視線を落としてしまった。

「おい、どうした? 大丈夫なのか?」

 俯いた彼女に尋ねるが、しかし、ロスは答えなかった。なんだかそのロスは今にも消えてしまいそうに儚かった。

「ロス? やっぱどっか悪いのか?」

 繰り返し尋ねると、彼女は微かに首を横に振って答えた。その返事に、私は眉を潜めた。

「じゃあどうしたんだ? なんで学校休んでたんだ?」

 言うと、ロスはようやくぽつりと答えた。

「……ごめんね、ドレス。今日がチラシの提出日だったのにね」

 その言葉は震えており、まるで怒られることに怯えている、弱弱しい幼子のようだった。そんなロスの姿を見て、私は昨晩のプロメッサの言葉を思い出した。

 ロスは、私が思ってる以上に色々考えている。

 そして、素直には答えない。

 だがそうなると、私は一体ロスになんて声をかければいいのかがわからなかった。ロスに何かがあったのは明らかに見ればわかるが、それをどうやって聞き出せばいいのかが浮かばない。

 そのため、私はもしこの場にプロメッサが居ればと思った。

 そうして、ならばと閃いた。

「なあ、ロス、ウチ来るか? チラシのことも、プロメッサと話し合えばいい。だってそうだろ? 発掘体験に行けなくなったなら、次なにするかを考えればいいだけだ。自由研究、一緒にするんだろ?」

 言うと、その時、ロスは顔を覆って肩を震わせた。彼女は泣き出したのだ。だが、それがどうしてかは、やはりわからなかった。

 だから私は思わず、ポンポンが泣き出したときにするように、不意に、そんなロスの頭に手を置き、彼女の髪を梳いてやった。

 するとロスは、くしゃくしゃな嗚咽を吐きながら、何度も鼻を啜り、何度も口を開いては閉じた。まるで彼女の内側で感情が爆発し、その痛みに苦しんでいるようだ。そこには、複雑に絡まった悲しみのようなものがあった。

「ありがとう、でも、ごめん、行けない。私帰らないと。帰らないといけないの。帰らないと」

 繰り返すように言い残し、ロスはそのまま音楽室を飛び出そうと踵を返した。しかしその手を掴んで引き留める。

「待てよロス。お前本当にどうしたんだ? 話なら聞くぞ」

「離して、ドレス。ごめん、ごめんなさい、ごめんなさい!」

「おい、落ち着けって。何があったんだよ」

「離して!」

 半ば錯乱したようにロスが怒鳴れば、私はとうとう我慢ならなくなり、腹の底から怒鳴り返してしまった。

「落ち着けって言ってんだろ! 昨日まであんな笑ってたのに、どうしたんだよ! らしくねえだろ!」

 言った瞬間、しかし、私はすぐに己の怒り癖を呪った。それは私が怒鳴り返した途端、ロスが顔を上げ、涙で崩れた顔を晒し、私を睨んだためだ。

 そんなロスの顔が瞼に焼き付いた。彼女の常に明るい面の皮が剥がれ、醜く、夜の闇の中で銀色に輝く涙が、まるで血のようにして顔を汚すさまは、それこそ人間離れしている化け物みたいだった。

 そして次の瞬間、私の右頬を、強い衝撃が襲った。

 音楽室の中に響く乾いた殴打音。殴られ、先ほどの喧嘩でできた口の中の切り傷が鋭く痛む。

「らしくないって、じゃあ、私らしいって、なんなのさ」

 突発的な反撃と、ロスの無機質で攻撃的な声音に呆気にとられ、一瞬だけ、私は彼女の手を離してしまった。

 するとロスはその隙を見て私から逃れ、ピアノの下から真っ黒な学生鞄を引っ張り出し、音楽室を出ていこうとした。

 しかしその時、先ほどの騒ぎを聞きつけた先生が、扉を開けて入ってきたのだ。

「誰だ! こんな時間まで残って騒いでるのは、」

 先生が言いかけた時、しかしロスが真正面からぶつかってしまい、二人は悲鳴を上げて倒れ込んだ。

 同時、ロスの学生鞄の中身がぶちまけられてしまい、また、殴りかかられたと勘違いした先生が、ますます声を荒げてロスに掴みかかろうとした。

 その時、咄嗟に、私は駆けだしていた。

 そうしてロスの身代わりになるように先生にも殴られると、奥歯を食いしばって耐え、叫んだ。

「早く行け!」

 私の声を聞いたロスは、すぐさま搔き集めるように鞄の中身を回収し、立ち上がると、取っ組み合いをする私と先生の横を通り抜け、廊下を走り、階段を駆け下りていった。

 それから私は、興奮してしまった先生に押し倒される形になり、舌を打った。

「痛ってぇな、この!」

 怒鳴り、思わず拳を固めれば、けれどもその時、視界の端の床の上に、何やらノートが一冊落ちていることに気が付いた。

 きっとロスが落として、拾い忘れたものだろう。拳を解き、咄嗟にそれを拾い上げると、力任せに教師を押し返し、起き上がった隙に自身の鞄の中にノートを押し込んだ。

 そしてそのまま、先生が落ち着くまで組み合いを続けた後、職員室へと連行され、事情を聞かれた。

 その時、私はなんともぎこちなく嘘を吐いた。

「呼び出されて行ったら、その、いきなり殴りかかられて。暗かったから、誰かはわからねえ」

 だが、そんなぎこちない嘘でも教師たちは信じた。なぜなら、私が”そういう奴”だからだ。

 そしていつも通りたっぷりと説教を受けた後、解放されれば、私は帰り道、鞄の中に隠したロスのノートを引っ張り出した。

 二度の喧嘩を経て、ロスに殴られ、先生と取っ組み合いをし、さしもの私でも、心身ともに疲弊していた。しかし、それでも何故だか、あのロスは他人に知られてはいけないような気がしたから、無理をしたのだ。

 だから嘘をつき、ノートも隠した。

 私は、ロスのことを何も知らない。

 そうしてノートの表紙に目を落とせば、そこには”日記帳”と書かれてあった。

 暗闇の中、それを開いてみると、一ページ目の一行目には、こう書かれていた。



 誰も、私のことなんて理解してくれない。






八 ロス・バラマンの日記帳



 誰も、私のことなんて理解してくれない。

 今日から新しい学校での生活が始まった。クラスのみんなは普通だ。でもどこかから、私の父が医者であるという情報が洩れていて、質問攻めにされてしまった。

 本当は全部隠すつもりだったのに。そうすれば前の学校みたいに、変に持ち上げられたり、お金持ちだから、とか、良い育ちしてそうとか、色々言われなくて済みそうだと思ったのに。

 そして、やっぱりこの口が喋り過ぎた。一冊前の日記帳を見ればわかると思うけど、私は本当は、この学校じゃ静かに過ごしたかったんだ。もう友達なんて一人も作らずに、隅っこの方でひっそりと過ごしていたかった。だって私は前の学校から転校することになると聞いた時、悲しさよりも、安堵が先に湧いてきたような人間なのだ。

 これで、ようやく今まで吐いた嘘を忘れられる。

 だから、さっきは一冊前の日記帳を見ればわかると書いたけれど、一冊前の日記帳は捨ててしまった。だって私にとっての日記帳なんて、ただその日どんな嘘を吐いたかを書き連ねて、忘れないようにするだけのものだったのだから。

 でも、それは私にとって、ただ面倒なことだ。みんなに愛想を振りまいて、望まれることをやって、楽しそうに笑って、でも、ちっとも楽しくない。

 だけど、やっぱりこの口が、反射的に嘘をついてしまうのだ。見栄っ張りで、お調子者で、達者な口だ。針と糸があれば、今すぐにでも縫い付けて、二度と喋れないようにしたい。

 でも、それはできない。きっとお母さんが許してくれないからだ。

 お母さんは、まだ、毎日私に色々と期待をする。

 沢山勉強して、必ずお父さんが行ったところと同じくらいの大学に行きなさい。

 毎日ピアノを弾いて、コンクールで賞を取りなさい。

 友達をたくさん作って、多くの人に認められなさい。

 だって一番目のお姉ちゃんは、医大でも一番の成績だから。

 だって二番目のお姉ちゃんは、歴史あるコンクールの賞を取ったのだから。

 だって三番目のお姉ちゃんは、芸能人としていつも色んな所に引っ張りだこなんだから。

 だから、貴女も、そんなお姉ちゃんたちみたいに、素晴らしくなりなさい。

 ねえお母さん、だからって、何?

 私は私だよ。私はお姉ちゃんたちみたいに頭も良くないし、ピアノも上手くないし、素の振る舞いで人を惹きつけるような魅力もない。

 もちろん小さい頃からお母さんが言う通りに勉強してたし、ピアノもしてたし、人付き合いもしてきたから、全部、少しはできるよ。

 でもね、お姉ちゃんたちくらいまではできないよ。私はそんなに完璧じゃないもん。私は私だもん。そんなにたくさんのことできないよ。

 でも、どうして私は笑っちゃうの。頷いちゃうの。無理だよって言えないの。

 どうして、お母さんをもっと期待させてしまうようなことを言うの。どうして、周りのみんなに好かれようとしてしまうの。

 どれだけ頑張っても、お姉ちゃんたちみたいにはなれないって、わかってるじゃん。

 みんなもう私の歳で、学年で一番頭が良かったし、コンクールでいくつも賞を取ってたし、芸能人になってたじゃん。

 でも私は、なんにもできてない。

 なのにどうして、私は「頑張るよ」って言っちゃうの。

 もう頑張りたくないよ。

 もう嘘なんて吐きたくないよ。

 もう、家に帰りたくないよ。

 勉強も、ピアノも、たいして好きでもない友達と話をするのも、全部嫌だ。

 でも、やらないと。

 じゃないと、怒られる。

 なんでこんなことをしたんだ。なんでこんなこともできないんだって、怒られる。

 だから、嘘を吐かないと。

 勉強しないと、ピアノをしないと、友達を作らないと。

 わかってる。しなきゃいけないとは、わかってる。

 でも、嫌だな。




 今日はお母さんに叩かれた。なんでこんなのも弾けないのって、楽譜を投げつけられた。

 そして二番目のお姉ちゃんにも、こんなの私なら小学生の時に弾けたよって笑われた。

 でも、そんなの当然じゃないか。だって二番目のお姉ちゃんには才能が有って、音楽家のお母さんに、ずっと付きっきりで教えてもらってるんだから。私みたいに勉強もしてないし、性格悪いから友達もそんなにいないでしょ。

 こんなことが言えたら良かったのだろうか。でも、私はまた笑っちゃって、「流石だね」なんて言って、お母さんの機嫌を取るために、遅くまで起きてピアノの練習をした。お母さんが陰から見ているのを知っていたから、ご飯も食べず、ずっと弾いていた。指が痛かったけど、そうやって頑張ってるところを見せると、お母さんの怒りは少しだけ収まるから、ずっと、弾きたくもない曲を弾いていた。

 そういえば今日、学校でも音楽室に言った時、ピアノを弾いた。

 でも私は、ピアノなんて弾いたことないって言って、全くでたらめに指を動かした。そしたらみんなが笑った。私は、何が楽しいのかわからなかった。

 みんな子供だ。意味もないことでけらけら笑って、意味もないことで怒って、頭の中が空っぽで、楽しそうだ。

 私は、こんなにも毎日窮屈に生きているのに。

 でも、それもこれも口先だけな私のせいだ。

 怒られたくないから、みんなに嫌われたくないから、どうしても愛想よくして、嘘をついてしまう。

 今日音楽室に行く前、図書室で借りた本なんかどうしよう。せっかくだから少し読んでみたけど、趣味じゃなかった。

 それにあの時、あの銀色の眼鏡の人に、きっと見られてただろうな。なんだかすごく頭が良さそうな人だった。それも一番目のお姉ちゃんみたいに、ただ物覚えが良くて、テストで良い点が取れるっていうだけじゃなくて、本当に色んなことを考えていて、賢そうな人だった。

 だってあの時、図書室の中に居た人はみんなリンリンたちの方を見ていたのに、あの人だけ、ずっと私を見てたから。

 なんだか少し外国人みたいだったな。

 ああいう人とだけ、友達になってみたい。もう浅くて、多いだけの友達はいらない。

 ちゃんと目を見て話して、笑い合える人とだけ、一緒に居たい。

 




 今日はリンリン達と、月末の旅行の計画を立てた。でも本当は行きたくはない。

 だって、そもそもリンリンは悪い奴なんだ。今日だって、色んな人を仲間外れにしようって言いだした。だから、私は部活生とか、そもそも声がかかってない人に声をかけて、その人たちから、みんなに話が行くように手を回した。そしたらすぐに教室の中はその話でもちきりになって、もう誰にも話を隠せなくなった。

 そして、リンリンが仲間はずれにしようと言った人たちも、旅行に参加できるようになった。もちろんリンリンは誰が話を漏らしたなんて怒ってたけど、知ったことじゃないってあの時は思った。

 だって仲間はずれは、悪いことだ。ずっと家族に仲間はずれをされていて、私はこんなにも苦しいんだから。

 でも、私はもう後悔している。なんであんなことをしたんだろう。きっと、バレたらひどく怒られる。誰が仲間はずれにされようと、私には関係がないはずなのに。

 でも、なんだか仲間はずれにされる人たちのことを考えると、胸が痛くなったんだ。

 きっと私は、旅行に行った後のことを考えていたんだ。帰ってきてから、リンリン達とその思い出話をしている時、仲間はずれにされている人たちに、どうしてと責められるのが怖かった。

 だから、こんなことをしてしまった。友達がいなければ、こんな風に気苦労を負うこともないだろうに。

 私はただ誰かに怒られたり、嫌われたりすることが嫌な、臆病な人間だ。

 それと今日は、またあの銀の眼鏡の人が居たから、見ていたら、目が合った。向こうも私のことを気にしているのかな。

 上履きの色が同じだから、同じ学年だろうけど、どこのクラスの人なんだろう。

 それと、あの人は今日、凄く怖いって噂の、ドレスって人と一緒に居た。二人は友達なんだろうか。なんだか仲良さげに話してたから、きっとそうなんだろう。ドレスって人も、あの眼鏡の人と話している限りじゃ、そんなに怖そうには見えなかったな。

 あの二人は、本当に友達って感じがした。周りの目とか、そういうの気にしてなくて、二人ぼっちだけど、楽しそうだった。

 羨ましい。誰に嫌われるとか、そういうことばっかり考えてる私がばかばかしく思えてくる。

 あともう一つ、今日は転校してすぐに受けた学期末のテストが帰ってきて、学年で七番目だった。前の学校と同じくらいだ。きっとそのまま言えば、お母さんにはため息を吐かれて、お父さんは見すらもしてくれないだろう。

 だからつい、まだ習ってない範囲が出てたって言ってしまった。前の学校と範囲が違うから、この順位なんだって、つい、言ってしまった。

 そんなことを言えば、「じゃあ次は一番が獲れるのね?」と言われることなんて、私だってわかっていた。だから自分でも、なんでそんなことを口走ったのかわからない。

 でも、私はそう言ってしまって、案の定、予想していたことをそのまま言われた。そして、うんって答えてしまった。

 どうしよう。夏の間、沢山勉強をしないといけない。遊んでいられない。

 旅行なんて、行ってる場合じゃないのに。きっと行ったら、私は人にばかり構ってしまって、勉強なんてできない。

 ああ、行きたくないな。





 今日は一番目のお姉ちゃんに勉強を見てもらった。

 一番目のお姉ちゃんは凄く優しい。でも優しすぎて、気が弱くて、家族の中ではいつも黙ってる。だから私がみんなに仲間はずれにされてる時も、黙って遠くから、申し訳なさそうに見てるだけだ。

 そして二人きりになると、いつもごめんねって言ってくる。

 私はそれをしょうがないと思う。だって、一番目のお姉ちゃんはそういう人間なのだから。それこそ、私がお姉ちゃんたちみたいに、頭がよくなかったり、ピアノが上手くなかったり、魅力に乏しかったりするように、どうしたって人間にはそういう向き不向きがあるんだと思う。

 だから私は、一番目のお姉ちゃんのことをちっとも恨んでなんかいない。むしろ、数日前に私が両親に、次はテストで一番を獲ると言ってしまったのを聞いて、自分から「教えてあげようか?」って部屋まで来てくれた。

 正直、一番目のお姉ちゃんはお父さんのお気に入りで、色んな所に連れ回されて忙しく、全然一緒に居れないから、そうやって会いに来てくれたのは凄く嬉しかった。

 でも、一番目のお姉ちゃんが私に勉強を教えているところを、お父さんに見つかってしまった。

 そして、私はお父さんに「この子の邪魔をするな」ってぶたれた。どうにもお父さんの目には、私が一番目のお姉ちゃんを部屋に引っ張り込んで、無理やり勉強に付き合わせているように見えたらしい。

 もちろんそれはただの誤解だ。でもお父さんはお母さんと違って、私のことを完全に見限っているから、そんな考え方をしてしまうんだ。

 それが一目で見抜けたから、私は咄嗟に、その誤解に乗って、「ごめんなさい、無理に相談して、勉強を見てもらってました」って言った。だって、お父さんの後ろで、一番目のお姉ちゃんが今にも泣きそうな顔をしていたから。

 そしてお姉ちゃんは、お父さんにはいつものように、結局、何も言えなかった。

 お父さんは私に、「それくらい一人でしろ」と言って、一番目のお姉ちゃんを連れて行ってしまった。

 その時、ばんって強く扉が閉まった音が、ずっと耳に残ってる。

 お父さんは、私のことが本当に嫌いなんだ。でも私からすれば、それはもう仕方がないことだと思った。

 だってお父さんはそういう人なんだ。成果主義で、能力のない人間に興味がないのがお父さんだ。そうして生きてきて、評価されて、今は大きな街の、大きな病院の院長をしてる。

 お父さんは、何も間違っていない。

 間違っているのは、私の方だ。

 だから私は、お父さんはやっぱり、お母さんよりも接しやすかった。

 だって、そもそも私に期待していないし、私を嫌っているのだから、期待に応えるための嘘も、嫌われないための嘘も吐く必要がないのだ。

 反面、お母さんはまだ私に何かを期待して、諦めきれないように、あれをやれ、これをやれと毎日言って来るから、私は達成できもしない目標、つまり嘘を吐き続けなければいけなかった。

 お母さんは、きっとまだ、どこかでを愛しているんだ。

 だから、期待してしまうんだ。

 だから、本音を言えば、もう嫌ってほしかった。

 でもやっぱり私の口は、つい、嫌ってほしくなくて、期待に答えたくて、嘘をついてしまう。

 そして、心のどこかで、そんな風に私に期待してくれているお母さんに、感謝があるのも確かだった。こんな私にもまだ、熱心にものを言ってくれるんだ。もちろんそれはお姉ちゃんたちと比較してたり、お母さんの理想の押し付けばかりで、本当の私を見てくれているわけじゃないけど、それでも、やっぱり私に期待してくれているのは、嬉しいんだ。

 だから、申し訳なくなるし、つらくなる。

 どうせお母さんの期待には応えられないから、もう、いっそのこと嫌いになってよ。

 ごめんなさい。出来が悪くて、本当に、ごめんなさい。

 また、今日は友達にたくさん家の電話番号を訊かれた。

 でも私は、家で学校での友達関係についてあんまり離したくないから、万が一を考えて、誰にも番号は教えなかった。

 そもそも、皆には、私の家族のことはお父さんが偉い医者であるってことしか教えてないんだ。

 これ以上学校の人たちに色々知られたくはなかったし、何より、何か変にお母さんに情報が行って、余計に期待させたくもなかった。

 どうせ私には、嘘を吐くことしかできないんだから。





 今日は三番目のお姉ちゃんが、久しぶりに家に帰ってきた。

 お土産をたくさん買ってきてくれて、私にも色んな地方のお菓子や、ぬいぐるみをくれた。

 そしていつもみたいに、夜になってご飯になると、三番目のお姉ちゃんはお父さんや、二番目のお姉ちゃんと大喧嘩をした。

 三番目のお姉ちゃんは、本当に魅力的な人だ。根っからの善人で、すごく美人で、明るくて、情に厚い。いろんな人が、三番目のお姉ちゃんの虜になってしまうのは当たり前だった。私なんか必死に頭を使って、嘘をついて、自分を取り繕ってやっと人を集めることができるのに、三番目のお姉ちゃんはただ平然とそこに居るだけで、私よりもたくさんの人に囲まれるんだ。

 でも、それを羨ましいとすら思わない。純粋に凄いとだけ思う。それだけ三番目のお姉ちゃんは凄い人だった。

 そしてそんな、三番目のお姉ちゃんだから、情なんて持ち合わせていないようなお父さんや、何かと意地悪な二番目のお姉ちゃんとは、顔を合わせるたびに喧嘩をするんだ。

 だから三番目のお姉ちゃんは一人暮らしをしているし、家に帰ってくるのも、偶にお母さんと、一番目のお姉ちゃんと、私に会うためだけだ。

 まさに正義の善人が、三番目のお姉ちゃんだった。

 そして、私はそんな人は、この世に一人だけしかいないだろうって思ってた。

 でも、私の学校にもそういう人が居たんだ。

 その人は、ドレス・ホーガンベアって名前の人だ。確か、前にも日記で書いた気がする。

 今日、というより最近、なんだかリンリン達と一緒に居るのが嫌になってきて、一人になれるとこを探そうとして校舎裏に行った時、沢山の生徒に囲まれているドレスさんを見つけた。

 彼女はやっぱり、怖くて、でも凄く美人だった。ちゃんと化粧をして、服装と髪型を整えれば、もしかしたら三番目のお姉ちゃんより美人かもしれない。勿論目つきが怖すぎるから、それで人が集まってきたりはしないだろうけど、でも、それだけ綺麗な人だった。

 そしてなにより、ドレスさんは自信に満ち溢れていた。

 沢山の生徒に囲まれても一歩も引かず、誰よりも高い所にある赤い目で全員を見下ろして、彼女に向かって「貧乏」だの、「ちょっと見てくれが良いからってスマして調子に乗ってるんじゃない」だの言っている生徒たちを黙らせてしまった。

 そしてその時、なにくそと誰かが「いつもあの頭のおかしいガイジンと絡んでんだもんな! そろそろガキでもできるか?」って言ったら、それまで手は出さなかったドレスさんが嘘のようにぶち切れて、罵倒を放った生徒の顔面を握りつぶさんばかりに掴んでしまった。

 勿論すぐに先生たちが駆け付けはしたけど、私はあまりの暴力的な光景に唖然として、隠れていた物置小屋の陰からしばらく動くことができなかった。

 それくらいドレスさんは恐ろしく怒っていた。あんな怖いものを、私は見たことがなかった。

 でも不思議とそれを見て、私はドレスさんについてやっぱり怖い人だと思うよりも、やっぱり三番目のお姉ちゃんみたいだと思ってしまって、なんだかすごく親しみが湧いた。

 だってドレスさんが怒ったのは、友達を馬鹿にされた時だったから。自分のことでは決して、不機嫌になることはあっても、怒ることはないというのが、本当に三番目のお姉ちゃんそっくりだと思った。

 何より、そんなことがありながら、ドレスさんだけが先生たちに捕まえられ、怒られ、職員室に連れていかれている所が、私の目に焼き付いた。

 ドレスさんは、私とも似てるんだ。確かに愛想の面や、友達の数や、多分裕福さについては正反対かもしれなくても、周りの人に理解されにくい、いや、周りの人に誤解されているという点では、私と似ているんだ。

 そう思ったから、塾が終わっても、もしかしたらまだ職員室で怒られてるんじゃないかと思って、塾の前で待っていた。家にはちゃんと塾で課題が長引きそうって伝えたし、少しの間だけは待てそうだった。

 でも、すぐに色んな生徒が私の所に集まってきた。中には顔や名前すら知らない他校の生徒だっていて、流石に少し収拾がつかなくなってしまった。道路に何人かはみ出してて、どうにかしようと思ったけど、人の壁や声に囲まれて何もできなかった。

 そしてそんな時、ドレスさんが校門から出てきた。

 私の予想は当たっていた。でも、私の目論見は甘かった。

 なんとその時、隣にはあの銀の眼鏡の、プロメッサさんも居たのに、私は周りに生徒が居たせいで、話しかける機会を逃してしまった。

 でも目を合わせることはできた。ドレスさんと目が合ったのは初めてだ。やっぱり力強くて、少しだけ怖かった。

 そんな風に、今日は少しだけわくわくした。

 どうして私はあの二人が居る隣のクラスになれなかったんだろう。こっちの、リンリンみたいな意地悪な人が居るクラスよりも、向こうの方が断然楽しそうだったのに。

 二人と話してみたい。いつか、良い機会はないだろうか。




 

 今日はとてもいいことと、悪いことがあった。

 昼休み、校庭で蹴鞠をしていたら、リンリンが力任せに蹴った球を拾いそびれて、それを取りに言った時、偶然、屋上からプロメッサさんに見られていることに気が付けた。

 そしてなんと、プロメッサさんが手を振ってくれた。少しびっくりしてしまったけど、咄嗟に手を振り返せてよかった。きっと悪いようには思われてないはずだ。

 でもまさか、プロメッサさんが、手を振ってくれるほど私を認知してくれているとは思わなかった。だって彼女は天才だと学校中で囁かれている人なんだ。

 何せ、これまでだって私が見ているせいで(思い違いじゃなければ、向こうも私のことを見てくれている気がする)何度か目が合った内の数回、彼女はどこの国のものかもわからないような本を読んでいて、しかもそれが辞書みたいに分厚いんだ。あれがこの国の言語で書かれていても、私には読み切れない。

 きっと、流石外国人とのダブルというか、そういう海外への関心がとても強い人なんだろう。

 だって副担任の外国語の先生とプロメッサさんが、学校内で親し気に、外国語交じりに話しているところを何度も見たことがあるんだ。もしかしたら、外国語の先生の母国と、プロメッサさんの片親の母国が一緒なのかもしれない。

 なんだか、私にはプロメッサさんはとてもきらきらしている風に見えた。好きなことにとことん真っすぐで、意欲的で、どんどん知識をつけ、知恵を発展させていくような雰囲気を、プロメッサさんはずっと持っているのだ。彼女についていけば、いつか、ずっと遠くまで連れて行ってくれそうな、そんな不思議な頼もしさがある。 

 でも、それと同時に危うさがあるのも確かだ。なんだかプロメッサさんは、視点がとても高くて、視野が広そうなのに、意識して足元のことを見ないようにしているような気がする。

 例えばプロメッサさんは、友達はドレスさんしかいないのに、顔見知りの数が異様に多い。なんだか、友達になれそうな人とも、顔見知りで居続けているように見える。廊下で色んな人と挨拶したり、軽く雑談したりといったことを、飄々とやりながら、でも、誰とも深くは絡まない。

 プロメッサさんは、実はドレスさん以上に閉鎖的で、気分屋で、少しだけ子供っぽい感じがする。

 だからこそ、あの緻密な頭の良さと、少しだけ子供っぽい人柄が入り混じっている感じが、すごく独特で、周りから浮いているように見えた。

 そして悪いことと言うのは、私がそんなプロメッサさんに手を振り返したところを、リンリンが見ていたということだ。

 彼女はプロメッサさんのことを、汚い雑種で、頭の捻子がいくつか外れてる可笑しな奴だと言った。そして、そんなプロメッサさんと手を振りあう私に、やけに突っかかってきたんだ。

 だから私は得意の口八丁でリンリンに対応しながら、昼休みを終えた。

 なんだか最近、やけにリンリンのあたりが強い。きっと私が一人になるために居なくなったり、他の人とつるんでいることが増えたためだろう。前の学校にも、こんな風に人を従者か何か、もしくは装飾品か何かだと勘違いして、自分の周りに侍らせていたいような人間が居た。きっとそれだ。

 そんなリンリンの振る舞いに、私はますます嫌気がさした。最近は特に、家でも、三番目のお姉ちゃんが帰ってきていたせいで、お父さんと二番目のお姉ちゃんの機嫌が悪く、私は更に窮屈な生活をしているんだ。それが、学校でも誰かに縛られるようになるとやっていられない。

 勉強のこともあるし、月末の合宿はやっぱり行かないようにしよう。ちゃんと話せば、きっとみんな分かってくれるはずだ。

 ちゃんと話せば……この口で、本当にちゃんと話せるだろうか。





 今日は新しい友達ができた。

 なんとようやく、ドレスとプロメッサさんと話せたんだ。昨日手を振ってもらえたから、もしかしたら話しかけられるかもと思って、今日も一人でリンリン達の所を抜け出した時、図書室に行ってみたら、プロメッサさんじゃなく、ドレスがいた。

 そしてプロメッサさんへの陰口を聞いて、ドレスは怒っていた。やっぱり怖かったけど、勇気を出して仲裁に入ったら、丸く収まって安心した。

 かつ、ドレスはいざ話してみると、思った以上に誠実で、真っすぐな人だった。確かに不愛想で、暴力的な面もあるけど、それ以上になんといっても素直なんだ。

 特に、ありがとうと言われた時は、驚きすぎて固まってしまった。まさかドレスがそんなことを言うほど素直だと思わなかったのだ。

 その時、私のドレスと話してみたいという目的は、もう一段先の、ドレスと友達になりたいというものに変わった。

 だからつい踏み込んでしまったけど、ドレスは受け入れてくれた。それが本当に嬉しかったし、楽しかった。ドレスみたいに、本当にしっかりしてる人と友達になるのは初めてだ。

 なんだかドレスからは、同い年とは思えないほどの成熟さを感じる。うっすら、家が貧乏とは聞いてたけど、だから逆にドレスはしっかりしなきゃいけなくなったのかもしれない。あれだけ真っすぐな性格なら、きっと、沢山苦労もしてきただろう。

 もっとドレスのことが知りたい。あの悪意とか、からかいのない目が本当に頼もしい。三番目のお姉ちゃんと話しているみたいに、一緒に居ると安心する。

 だから、きっと油断しだんだ。

 プロメッサさんと自由研究の題材を探してるって聞いた時、ギガノス山の発掘体験に丁度もう一人いればって話だったから、私は思わず良い機会だって思って、「宝石が好きで気になってた」って嘘をついてしまった。

 本当は、こんな初歩的な嘘をつくほど馬鹿じゃないはずなのに、リンリン達と一緒に居たくないって思いと、ドレスともっと仲良くなりたいって思いから、ああ言ってしまった。

 それと、後から来たプロメッサさんとも初めて話したけど、やっぱり凄く頭が良さそうだった。なんだかプロメッサさんだけには私の嘘が通じないような、初めから疑われているような気がする。最初図書室で目を合わせた時に、この私の軽薄な口先と行動を、やっぱり見抜かれていたんだ。

 そして、調子に乗ってドレスと距離を詰め過ぎたのもいけなかったかもしれない。二人はとても仲が良くて、特にプロメッサさんは、よく気付かれないようにドレスのことを見つめてたから。

 でも、プロメッサさんが良い人なのは確かだ。一番目のお姉ちゃんと違って、与えられた物の覚えが良いだけじゃなくて、とても行動的で、意志もはっきりしているんだ。

 何より、プロメッサさんはそうやって私のことを疑いながらも、リンリンが来たとき、迷わず友達だって言ってくれた。

 あの時、本当に感動した。プロメッサさんは、きっと私がリンリンについて嫌な気持ちを持ってることにも気付いていて、すかさず助けてくれたんだ。

 二人とも、すごい中学生だ。私なんかと比べ物にならないくらいしっかりしてて、ちゃんと自分ってものを持ってる。何事もうわべだけしか見てなくて、流されてばかりの人と全然違う。きっと、だから二人は、二人ぼっちなんだ。そしてそれを、二人は理解しているから、いつも楽しそうだった。

 二人は、私がこの中学校に来た時、いや、転校する前からずっと憧れてた、本当の友達っていう関係だ。

 だってそうじゃないか。だって、誰かと友達になるのは簡単だけど、友達で居続けるのはすごく難しいんだから。リンリン達を見てほしい。毎日のように誰が好きだ、誰が気に喰わないだって言い合っているのに、そこに出てくる名前はころころ変わる。反面、ドレスとプロメッサさんは幼馴染で、ずっとああやってつるんでいるらしい。

 考えれば考えるほど、つくづく私はついてないって思う。なんだってこんな家に生まれて、こんな風に育てられて、二人の教室じゃなく、リンリンが居る教室に入れられたのか。私が毎日嘘をついているから、神様は私に嘘を吐いた分、意地悪をしているんだろうか。じゃあ、本当のことを言えばいいんだろうか。

 その時、お母さんとか、周りの友達からの怒りや失望から、神様は私を守ってくれるんだろうか?

 いいや、きっと守ってくれない。だって今日、そんな風にドレスとプロメッサさんと話している所に、リンリンを連れてくるくらい、神様は意地悪なんだ。

 リンリンは最近、私について色々と束縛するみたいに行動してる。特に私が他の友達と話してても、必ず間に入ってきたり、陰でその相手に嫌がらせをしたりする。

 もしそれがドレスやプロメッサさんのところまでいったら、とんだ迷惑だ。あの二人の仲に、そんな余計なものを持ち込ませたくない。だってあの二人は本当の友達、親友ってやつなんだから。

 だからやっぱり、私は二人とは居られない。私が二人と一緒に居れば、きっとリンリンが色々する。実際にリンリンは、図書室から出た後、しつこく私に二人との関係を聞いてきたし、二人のことを、例えばドレスならとんでもなく貧乏で、ひねくれてて、喧嘩っ早い馬鹿って言ってたし、プロメッサさんのことは頭のおかしいガイジンで、よその国の汚い血が混じってる半人前だって言っていた。

 それにその時……その時私は。

 その時私は。

 その時、私は、私の口は、いや違う。口のせいじゃない。日記でまで嘘を書いたら駄目だ。

 その時私は、「そんなことないよ」って言えなかったんだ。それに、せっかくプロメッサさんが友達だって言ってくれたのに、友達なんかじゃなくて、ただ偶然話してただけだって言ってしまった。

 私は本当にクソ野郎だ。不誠実で、口先だけの馬鹿だ。せっかく二人は私を受け入れてくれたのに、私は、それを裏切ってしまった。

 でも、きっと仕方がない。だって私は、”そういう奴”だから。私は所詮、嘘ばっかり吐くペテン師だ。嘘を吐くことしか能がない張りぼての、継ぎ接ぎだらけの、出来損ないの怪物だ。人間じゃないんだ。三人のお姉ちゃんたちみたいに突出した才能なんて一つもないし、性格だってこんな、人の顔を伺ってばかりの卑怯者だ。

 私に、二人の間に入る資格は、そもそもなかったんだ。

 私に、誰かと親友になる資格はないんだ。

 きっと、それがわかってたから、私はドレスに塾があるなんて嘘を吐いた。これ以上、私が二人の間に踏み込んでしまったら、きっと悪いことが沢山おきる。

 だって私だ。私みたいなやつが居ても、きっとあの二人にとっては邪魔なだけだ。

 話してみて、身に沁みて分かった。私には、あんな親友は作れない。私はあそこまで、自分に正直になれない。人の顔ばっかり見てしまう。

 今日、ようやく理解した。悪いのは周りじゃなくて、私だった。今までは心のどこかで、私はお姉ちゃんたちじゃないとか、私なりに努力はしてるとか、色々考えてたけど、悪いのは私だった。

 これまで、いつかはきっと、私にも何かが出来たり、かけがえのない人が出来たり、きっと誰かは私のことを理解してくれるって思ってたけど、あれは全部叶わない。全部自業自得だ。

 でも、そうなると……あれ?

 私は何のために生きてるんだろう?





 今日は初めて学校をサボった。

 どうせ昼間は家に家族は誰もいないし、朝、家を出てから、公衆電話で先生に体調が悪いと電話した。相変わらず、こういう時、演技が上手い自分に虚しくなる。そして、騙された先生が心配してくれて、すごく胸が痛くなった。

 でも、仕方がなかった。なんだか、もう学校に行きたくなかった。昨日ようやく、私が求めてた人達、誰よりも素直で誠実なドレスや、私のことを疑い、理解してくれそうなプロメッサさんと話せたのに、私じゃ二人とは親友にはなれないと分かってしまった。

 私には、ああいう人たちと一緒に居る資格なんてないと、わかってしまった。

 そしたら、なんだか、もう何が何だかわからなくなった。学校に向かおうとしても、足が止まってしまった。先生に仮病の連絡をしたのも、別に計画を立ててたわけじゃなくて、どうしたって通学路を進めなかったから、時間ギリギリになって、すぐそこにある公衆電話を使ったためだ。最初は遅刻しますって伝えようとしたのに、気付いたら、体調が悪いですって言ってしまった。

 そしてやることがないから、今、こうして日記を書いてる。

 制服じゃ目立つと思ったから、家に帰ろうかとも思ったけど、いくら誰もいないとはいえ、あんな家に帰りたくもなかった。

 だから街のどこにも居場所がなくて、森の中に逃げてきて、適当に歩いたり、座ったりを繰り返してる。

 私に、居場所なんてない。どこにいても息苦しいし、逃げ出したくなる。

 もう十分頑張った。これ以上頑張れないよ。もうテストとか、ピアノとか、どれだけ人に好かれてるかとか、疲れたんだ。

 ああ、でも、やっぱり私はくだらないやつだ。もしこうやってサボってることがばれたら、なんて嘘をついて言い訳をしようって、ずっと考えてしまう。

 ここまでしてしまったら、もう口先だけじゃどうにもならないってわかってるのに。もう、誰かを騙し切るなんてできないのに。

 そうやってこのサボりがばれた時、お母さんは、私に期待するのをやめてくれるだろうか。

 お父さんみたいに、私のことを諦めてくれるかな。

 でも、なんでだろう。こうやって改めて、素直に文字にしてみたら、なんだか胸のあたりが、ぎゅってなる。

 お母さんはこんなにも、まだ期待してくれているのに、私は応えることができない。いつもは無茶言わないでよって言いたいくらいなのに、多分、何も言われなくなったら、すごく悲しくなる気がする。

 なんだか申し訳なくて、不甲斐ない。

 お母さんは、まだ、こんな私にも期待してくれているのに。私はもう、疲れてしまった。

 私はどうすればいいんだろう。こうして足を止めてしまうことは、やっぱり悪いことなのかな。いけないことなのかな。

 じゃあ、できないのに頑張ったり、人の為だけに頑張ったりすれば、それは善いことなのかな。

 私はずっと、あの嘘ばっかりの私でいればいいのかな。

 でも一つだけ、ちゃんと私として言いたいのは、私は本当に、嘘を吐きたいわけじゃないってことだ。

 もちろん、そうやってすぐに嘘を吐ける自分の口を利用することはある。でもそれは、全部誰かの為だ。例えば、プロメッサさんに見つかった図書室での嘘や、リンリンが誰かを仲間外れにしようとした時に使った嘘や、プロメッサさんの悪口を言った二人とドレスの仲裁をした時の嘘なんかがそうだ。私は決して、誰かをこらしめてやろうとか、騙してものをとってやろうみたいなことのために嘘を利用したことはない。

 でも、やっぱり私は弱いから、偶に自分の為に嘘をついてしまう。リンリン達と旅行に行きたくないからって、軽率にドレスたちの自由研究に参加しようとしたり、お母さんに怒られたくないから期末テストの範囲をごまかしたり、そういうこともしてしまう。

 でも、悪意とかそういうのは本当にないんだ。

 本当にないんだ。

 こう言っても、きっと、誰も聞いてくれないよね。

 どうして私は、こんなに駄目なんだろう。





 確か今日は塾があった。でも学校を休んでるのに行けるわけがない。

 だけど、その分早く家に帰ることもできない。

 暗くなってきたし、夜の間どうしよう。結局昼間の間は、ずっとぼうっとして、何もしてなかった。なんだか、何もやる気が起きなかった。

 でも、流石に街灯一つない森の中にずっといたら怖いし、帰れなくなる。かといって街の中だと、どこで誰に会うかわからない。

 考えて、でも、あれって思った。

 逆に学校に行けば、部活生以外はとっくに帰ってるし、隠れる場所もたくさんあるから、誰にも見つからないのではないだろうか。

 それに学校なら、暇潰しをするものもたくさんある。好きな本が読めるかもしれないし、お母さんに見られないでピアノを弾いてみたりできるかもしれないし、うるさい友達もいない。

 やりたいことができるかもしれないし、やりたいことが、見つかるかもしれない。

 それに、一回学校に行ってしまえば、また来週からは、普通に学校に行けるかもしれない。

 もし見つかったら、その時はその時だ。

 誰に怒られても、失望されても、しょうがない。

 だって私だから。


 もう、どうにでもなれ。

 




 九 ロス・バラマン


 気付いたら、知らないベッドに寝ていた。

 家のものと違って、少し硬くて、清潔臭い匂いがする。なんだか必要以上にシーツがさらさらしてて、体の下の少しの皺が気になってしまう。かといって体をよじろうにも、ひどく気怠くて、動く気力が一向に湧かない。特に頭の奥の方が、靄でもかかったようにぼうっとしていた。

 だから、瞼が錆まるで錆びついたみたいにぎちぎちとゆっくり持ち上がり、目の端や睫毛に引っかかった目やにが、視界を滲ませるように遮る。目玉がひどく曇っているみたいだ。すると埃臭いような、うじうじと靄がかかった頭の中に強烈な光が差し込んできて、脳みその真ん中あたりがずきずきとした。

 ここは一体どこだろう。何度か瞬きをして目玉に張り付いた曇りを拭い、光に目を慣れさせると、すぐに、その明かりが傍らの窓から差し込む日光だとわかった。

 そうして次に見えたのは、開け放たれた窓を見上げた際、その手前に静かに立つ点滴器具であった。

 私は、どうやら病院のベッドに寝ているようだ。 

 そこで、ようやく記憶が、深い思考の海の底より、無数の泡のようにして浮き上がってくる。勿論断片的に、それこそ泡が弾けるようにぽつりぽつりと思い出せないことがあるが、それでも大まかなことは思い出せた。

 私は、学校をサボった。

 私は、ドレスを殴った。

 私は、海に飛び込んだ。

 ロス・バラマンという人間は、昨日、なんだかもう全てがどうでもよくなって、自死を選んだはずだった。

 しかし、今、私は生きている。

 考え至ると、何とも浅はかで、愚かなことに、私の胸には安堵が湧き出た。

 そしてそんな自分に、ひたすらに強烈な嫌悪感を覚えた。

 生きる意味もないのに、死のうとしたのに、死に損なって、何を安心している。

「私なんて……」

 呟いたその時、窓とは逆の方のベッドの脇から声がした。

「ロスちゃん? 起きたの?」

 声に吊られてそちらを見ると、そこには、三人目のお姉ちゃんがいた。

 でも、私は最初、彼女が姉だとはわからなかった。何せ、あの絢爛豪華な生花のように見目麗しく、艶やかで、人の視線で髪が洗えそうなほど注目される美貌が、まるで死人のように青ざめてたからだ。ふっくらとしていた頬は心なしかこけてしまい、いつもきらきらとした紅を引いていたはずの唇は、生々しい桃色である。なんだか、今の彼女は顔は整っているが、一切華がなく、あまりにもひどい見た目であった。

 でも、そんな彼女の目にはその時、ぽつりと明かりが灯ったのだ。まるで月や星が太陽に照らされているように、私を見た途端、その綺麗な二つの目に輝きが生まれた。それは普段の彼女の豊かな煌めきとはかけ離れているが、切実で、人間味に溢れていた。

 そして彼女は、居ても立っても居られないと言うように身を乗り出し、私を抱きしめ、おいおいと泣き始めた。私は何が何だかわからなかった。

 けれども、そんな姉を見ていて、ひどく申し訳ない気持ちになったのだ。あれほど煌びやかだった姉が、私のせいでこんなに悲しんでいる。家族の中で、唯一表立って私の味方になってくれていた彼女を、でも私は、泣かせてしまった。

「ごめんなさい、こんな馬鹿なことして、ごめんなさい」

 姉の姿を見て、私は後悔した。これほど姉を悲しませてしまったのは、私の感情的な行動のせいだ。ドレスに「らしくない」と言われた時、自分の全てが否定されたような、私より、あのうそつきの私の方が肯定されたような気がして、心がぐちゃぐちゃになった。

 いつもなら、きっとあんなことを言われても笑ってどうにかできたはずだ。でもあの時、ドレスに言われたことが、どうしたって我慢できなかった。私のピアノを褒めてくれた彼女が、結局私を求めているのではないかと思い、勝手に期待したぶん、勝手に絶望して、燃え上がる怒りに我を忘れてしまった。

 そして後になり、学校を抜け出して、我に返ったのだ。私は、私のことを見ようとして、誠実に向き合ってくれた相手になんて馬鹿なことをしたんだと。

 それが決め手だった。自分の中に蓄積された負の感情が爆発していた。何もできず、愚かで価値のない自分のことが大嫌いになって、もう死んでしまえと海に飛び込んだ。もしかしたら、少しだけ、十分だけでも足を止めて考えられたなら、私はそんなことはしなかっただろう。でも、それだけの余裕がなかった。私自身が、私を命の際まで責め立てていた。

 だから今、ふと立ち止まって考えた時、自分がなんて馬鹿なことをしたんだろうと思ったのだ。

 しかし、姉はすぐに首を振った。そしてもう二度と私のことを離さないとでも言うように、強く私を抱きしめた。

「ううん、もう、もう大丈夫だから。自分を責めないで。貴女は、何も悪くないから」

 言って、姉は努めて呼吸を整え、身を起こした。それでも片手で、私の手を痛いくらいに握っており、逆の手で、床に置いた鞄から一冊のノートを抜き取った。

 それを一目見た時、私は自分の目を疑った。

「え、それ、なんで、お姉ちゃんが持ってるの?」

 三番目のお姉ちゃんが持っていたのは、私の日記帳だった。だが、私は昨日、鞄もろとも海に身を投げたはずなのに、日記帳には濡れた痕跡など一つもない。

 加えて、あの私だけの秘密の日記帳が他人に見られたとあっては、もう本格的に私はおしまいだ。あそこにはありのままの私を書き連ねているのだ。それが私にとって唯一、私を忘れないための息継ぎであり、私を保つための救命措置だった。

 だから、そんな私の命に深くかかわるものを他人が握っていることが、とてつもない程恐ろしくなった。

 しかし姉は、日記帳をそっと私の手に握らせ、俯いた。

「これ、昨日ね、ロスちゃんの友達が渡してくれたの。ドレスちゃんと、プロメッサちゃん」

 名前を聞いて、心臓の音が激しくなる。どうしてその二人が日記帳を持っていたのか。

 ただ、考えれば思い当たる節があった。昨晩、ドレスを殴った後、音楽室を出ようとした際に、怒鳴り込んできた教師とぶつかって鞄の中身をぶちまけた時だ。あの時、私が拾いそびれたものを、ドレスが拾ったのかもしれない。

 しかしそうなると、更に恐怖が大きくなる。この日記をドレスやプロメッサも読んでいるのではないだろうか。そして、それが姉の手に渡ったということは、他の家族や、もしかしたら他の人にも読まれているかもしれない。

 そうして言葉を失っていると、姉は繰り返すように続けた。

「二人がね、あなたが三番目のお姉さんですかって言って、これ、絶対に他の人には見せないでくださいって、渡してくれた」

「……え?」

「きっとロスは、これを、誰にも読んで欲しくないだろうから。でも、私達は、貴女には読んでほしいと思うから、貴女に渡しますって。昨日の夜、貴女が塾から帰ってこないって心配してたら、プロメッサちゃんから、ロスは居ますかって電話があってね。帰ってきてないって答えたら、昨日貴女が学校に行ってなかったこととか、ドレスちゃんに手を上げてしまったこととか、色々聞いて、すごい騒ぎになったの。それから警察に電話して、みんなで探して、そしたら偶然貴女が海に飛び込んだのを見た漁師さんが、その時には貴女を病院まで運んでくれてたんだけど、特にお父さんがかんかんに怒ってさ。なんて馬鹿な娘を持ったんだって。でもね、その時一緒に居たドレスちゃんが、お前みたいな馬鹿な親がいるからこんなことになってんだろうが、って怒ってくれて」

 そこまでぽつぽつと語り、姉は、顔を上げた。

「その後に渡されたの。ここに書いてある通り、ロスが家族の中で頼れるのは私しかいないから、絶対に読んでくださいって。だから、ごめん。ロスちゃんはきっと、読んで欲しくなかったかもしれないけど、でも、読んだよ」

 そうして姉は、私の手を強く握ってくれた。そして、強く私の目を見てくれた。力強い瞳だ。面の皮が厚い私の裏側までを見ようとするような、ドレスやプロメッサのような目だ。

「今まで、気付いてあげられなくてごめんなさい。でも、もう気付けたから。だから、お願いだから、もうこんなことはしないで。家に居たくないなら、私と一緒に暮らそう。お母さんの言うことなんて無視していいんだよ。私だって、勉強もピアノも嫌で、家を飛び出したんだから」

 そして、姉のまなじりから、ひと際大粒な涙が落ちた。

「諦めないで。こんなことを言ったら、苦しいかもしれないけど、でも、諦めちゃダメ。どれだけもうどうしようもないって思っても、必ずどこかに逃げるところはあるから。必ずどこかに、貴女を認めてくれる人はいるから。だから、生きることと、助けを求めることと、逃げることを、諦めないで」

 真摯な姉の言葉に、私は何も言い返せなかった。それは姉の言葉が、私の核心を捉えていたからだ。大きな姉の感情を飲み込むのにいっぱいいっぱいで、私の口は軽率な言葉を吐けなかった。そして私も、その場しのぎの、いつも通りの嘘八百は言いたくなかったから、思わず自分の口をふさいだ。

 それはまさに反射的な行動だ。だからそうして口を塞げば、代わりに、私の感情は涙となり、目から次々と溢れ出した。熱くて、とめどなくて、目の周りがびりびりと痙攣する。そして口を塞ぐ指の間からは、ぼたぼたと嗚咽が滴る。

 凍り付いた心が溶けて、その雪解けの水が次々に流れてくるみたいだ。心が温かくて、体が熱かった。

 何より、私は必死に口を動かそうとした。人の期待に応えるためではなく、自分の思うことを伝えるために、初めて、自分で意識して口を動かそうとした。

 すると口の周りの筋肉が固く強張ってしまい、うまく喋れなかった。そして喋ろうともがけばもがくほどしどろもどろになり、体が、これまでの人生で染みついた本音を伝える恐怖で震えてしまう。涙が溢れてしまう。

 私みたいな人間が。私程度の人間が。ずっとそう思って、自分を押し殺して、人に好かれようとしてきた。だから人の顔を伺って、望まれていそうなことをこなしてきた。私は本当はこんな人間だと人に気付かれた時、きっと失望され、不出来であると嫌われるだろうとばかり思っていた。

 だが、こうして今、たったの数言のために手間取っている私を、姉は待ってくれていた。

 姉は私を、理解しようとしてくれた。

 こんなにも身近に、あれほど息苦しかった家族の中にも、ちゃんと、私を見てくれる人間は居たのだ。

「あり、がとう。頑張る、頑張る、ごめんなさい」

 そうして、私は姉の手を、握り返した。





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