変わる準備
家に帰り、玄関のドアを閉めた瞬間、どっと疲れが押し寄せた。
「......はぁ」
リビングのソファに崩れ落ちる。目を閉じると、春海の笑顔が鮮明に浮かんだ。
『気にしてないよ』
あの言葉が頭の中で反響する。気にしてないなんて、そんなはずがない。あれからずっと俺は後悔してたのに、彼女が何もなかったかのように笑ってるのが、余計に胸に刺さる。
「......くそっ」
そう吐き捨て、部屋の隅に転がっていた小さな紙袋を手に取った。中に入っているのは、使わずじまいだったコンタクトと整髪料。
「......今さら、なにしてんだか」
紙袋を開けると、未開封のコンタクトケースがカサリと音を立てた。手のひらに収まる薄いレンズ。これ一枚で、自分が何か変われる気がして買ったのに、結局そのままだった。
鏡の前に立ち、意を決してレンズを取り出す。思いのほか柔らかく、指先で少し形を整えながらそっと目に近づけた。
「......うわっ」
思わず目を閉じる。何度か挑戦して、ようやく片目に装着できた。視界がくっきりと鮮明になり、鏡の中の自分が妙に生々しく映る。もう片方も慎重に装着し、改めて鏡を見た。
「......ま、こんなもんか」
次に整髪料の蓋を開ける。少し指に取ると、粘り気のある感触が指先に広がった。髪を無造作にかき上げるように馴染ませる。額を出し、寝癖だった髪に少しの流れをつけるだけで、さっきまでの自分とは違って見えた。
「......はは、意外といけるじゃん」
ぎこちない笑みが漏れる。鏡の前の自分に向かって、軽く拳を握る。
「次は......もうちょっと、ちゃんと話せるといいな」
そう呟いた自分の声が、どこか頼りなかった。