昭和の文豪たち(8)
1945年8月15日、日本の敗戦により太平洋戦争は終わる。
それを機に、世の中の空気は一変した。
それまで従軍ペン部隊として軍を賛美するような作品を書いていた作家は、逆に「戦争協力作家」として批判されることになる。
従軍作家として兵士らに好感を示す作品を書いていた林芙美子もその一人だった。
「戦争協力者」として後ろ指をさされながらも、その亡霊を振り払うかのように戦後、無理をしながら作品を書いていく。
結局、その無理がたたり、1951年に心臓麻痺で急逝する。47歳だった。死の数時間前まで取材をしており、心臓麻痺は過労が影響していたとみられている。
そして、日中戦争中に従軍作家として「麦と兵隊」を書いた、火野葦平も同じだった。
火野は1948年から1950年まで文筆家追放指定を受ける。
「文筆家追放指定」とは、GHQによる「公職追放」の一環として、戦時中に戦争協力や軍国主義の宣伝を行ったとみなされた作家や言論人に対して行われた執筆禁止処分である。
追放解除後も「戦犯作家」と呼ばれ、批判は続いた。
火野は1960年に自宅の書斎で亡くなる。
睡眠薬自殺だった。
書斎に残されたノートには次のような言葉が書かれていたという。
「死にます、芥川龍之介とは違うかもしれないが、或る漠然とした不安のために。すみません。おゆるしください、さようなら」
番組の最後に、日本を代表する文豪、夏目漱石についてのある一つのエピソードが紹介されていた。
東京生まれの漱石は明治25年、本籍地を北海道岩内郡に移したという。しかし漱石は、北海道にも岩内郡にも一度も足を運んだことはなかった。
なぜ、本籍地を北海道に移したのか。
その当時、本州では満20歳の男子に徴兵が義務付けられていたが、開拓が優先された北海道では徴兵が免役されていた。
夏目漱石は「戦争」から逃れるため、わざわざ自分の戸籍を北海道に移したのだ。
戦争に協力した作家。
戦争から逃げた作家。
どちらが正しかったのか、私には分からない。




