昭和の文豪たち(7)
日本は1941年12月8日に真珠湾攻撃を行い、アメリカとの戦争に突き進む。いわゆる太平洋戦争である。
しかし戦局は悪化の一途をたどり、次第に兵力不足が顕著になっていく。
従来、兵役法などの規定により大学、高等学校、専門学校などの学生は26歳まで徴兵を猶予されていた。しかし兵力不足を補うため、次第に徴兵猶予の対象は狭くされていった。
1943年、当時の東條内閣は「在学徴収延期臨時特例」を交付する。
これは、理工系と教員養成系を除く文科系の高等教育諸学校の在学生の徴兵延期措置を撤廃するものであった。
それにより、多くの在学生が徴兵検査を受け、入隊することになる。
第1回学徒兵入隊を前にした1943年10月21日に、明治神宮外苑競技場で出陣学徒壮行会が開かれた。
その場に、当時大阪外国語学校の学生だった司馬遼太郎がいた。
彼も学徒出陣の中の一人として招集され、軍に入隊していた。
司馬はその後満州の陸軍戦車学校に入校し、卒業後は満州に展開していた久留米戦車第一連隊に小隊長として配属される。そして翌年の1945年に本土決戦のため栃木県に移り、ここで陸軍少尉として終戦を迎えた。
学徒出陣の招集を受けた作家がもう一人いる。
平岡公威。後の、「三島由紀夫」である。
その当時、三島は東京帝国大学法学部の学生だった。1945年2月4日に入営通知の電報が三島の自宅に届いた。そこで三島は「天皇陛下万歳」と終わりに記した遺書を書く。
しかし、入隊検査で肺浸潤と診断されて即日帰郷となり、三島が戦争に行くことは結局無かった。一方で、三島が入隊する予定だった部隊の兵士たちはフィリピンに派遣され、多数が死傷してほぼ全滅した。
司馬遼太郎と三島由紀夫。
戦争は二人の作家に全く違ったものを残した。
司馬遼太郎は晩年のインタビューで次のように語っている。
「なんとくだらない戦争をする。
そしてくだらないことをいろいろしてきた国に生まれたんだろうと。
もう少し昔の人はましだったんじゃないかということが、私の日本史への関心になったわけであります」
一方で三島由紀夫は、戦争で国(天皇)のために戦うことができなかったという思いが、「三島由紀夫」として人気作家になったあとも心の奥底に澱のように残る。
それが、1968年の「楯の会」の結成、1970年の陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地での自衛隊を前にした演説につながっていく。
三島は演説で自衛隊に決起を促したが、その演説は自衛官たちのやじや罵声にかき消された。三島はその直後に割腹自決をはかり、45年の人生を閉じることになる。




