昭和の文豪たち(5)
小林多喜二は1928年、日本共産党員484名が起訴された「三・十五事件」を題材に、「一九二八年三月十五日」という作品を発表した。
作品中には特別高等警察(特高警察)による拷問の描写があり、それが特高警察の憤激を買い、後に拷問死させられる引き金になったとも言われている。
特高警察とは日本の秘密警察であり、国体護持のために共産主義者など国家の存在を否定する者の取締りを行っていた。
そして1929年に、小林多喜二は代表作である「蟹工船」を「戦旗」に発表する。
1930年、その「蟹工船」の件で小林多喜二は不敬罪として治安維持法のもと起訴されたが、その際は1931年1月に保釈され出獄した。
その後、1931年10月に非合法の日本共産党に入党し、1932年春の危険思想取締りを機に地下活動に入った。
再び小林多喜二が逮捕されたのは1933年2月20日だった。
そしてその日、多喜二は亡くなることになる。
2月20日正午頃、赤坂の芸妓屋街で街頭連絡中だった多喜二は、スパイによって密告を受けていた特高警察によって追跡され、溜池の電車通りで取り押さえられてそのまま築地署に連行された。
最初は小林多喜二であることを頑強に否定していたが、特高警察の「取り調べ」により自白する。
その後、警察署から病院に搬送されるが、19時45分に多喜二の死亡が確認、記録された。
警察当局は翌21日に「心臓麻痺による死」と発表したが、翌日遺族に返された多喜二の遺体は全身が拷問によって異常に腫れ上がり、特に下半身は内出血によりどす黒く腫れ上がっていた。
番組では、小林多喜二の遺体の画像と、葬儀委員長を勤めた江口渙の言葉が紹介されていた。
江口は次のように述べている。
「赤黒くふくれあがったももの上には、左右両方とも釘か錐かを打ちこんだらしい穴の跡が十五、六カ所もあって、下から肉がじかにむきだしになっている。
拷問がどんなにものすごいものであったか」
画像では、小林多喜二の両腿はそこだけ真っ黒に変色している。
モノクロ写真なので色までは分からない。ただ、白い体の中でそこだけが「真っ黒」であるということが、その状況の過酷さを表していた。
治安維持法を元にした言論統制は、小林多喜二という一人の作家を殺した。
同じくプロレタリア文学を書いていた高見順や、中野重治という作家は、自分の身を守るためにプロレタリア文学を捨てるという「転向」を余儀なくされることになる。




