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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

ラプス

作者: 石食み

軽度の性暴力表現が含まれます。苦手な方はブラウザバックを推奨します。


2024/12/09 一部書き直し

 私にはあの手紙をどう読んでいいのか分からなかった。故に何とか理解しようと推察出来うる限りを書き起こしてみたが、この試みが成功したとは言いきれない。

 なんとも情けない話だが、はっきり言って、この読書体験は至極退屈なものだと言っていい。


 身に纏う衣服を一枚一枚脱いでいく内に、彼は自身の中にある真実が暴かれ白日の元に晒されていくような錯覚を覚えた。上着を脱ぎ、ズボンから足を抜く。靴下は帰宅した時に脱いだ。次はTシャツ、それから肌着。少しずつ、しかし確実にlという存在が確かな肉の質感を伴って存在しているという事が明らかにされていく。誰の目にも映ることのない真実のlだ。

 そうして残りはパンツのみといった段になって、彼は先に眼鏡を外した。途端不明瞭になる視界。世界がボヤけたことを確認して、ようやく下着に手をかけた。そのまま手早く下ろせば否定しようのない男性の象徴が露になる。

 彼は、本当のところは暫くそのままで、何もしたくなかったのだが、肌を撫でる冷気に負けた。それで仕方なく、それを努めて視界に入れないよう注意を払いながら湯船に浸かるのだった。

 The three Bs という表現がある。と、どこかで学んだ。「Bus stop」「Bedroom」、「Bathroom」。確か、人間の想像力が最も働く三つの場所を表す言葉だったはずだ。

 なら、少しばかり想像的になってしまうのも仕方ないことなのだろう……と彼は考えた。誰に向けてか分からない罪の意識を、穴抜けの知識で形作られた免罪符で誤魔化し思考を深める。心地よいぬるま湯が段々と意識から抜け、それと合わせるように体の輪郭が失われていく。彼は肉体という枷から解放され、今や完全な一つの思考体だった。液体と化し、完璧な無色透明だった。

 ポツリと一滴インクが落とされる。濃淡はあれど明度の低い青が、形を変えながら広がり染まって行く。彼はそこに一つの情景を見た。

 『私は/あなたの事が/好きです……』

 入力する手が止まった。(なんか、無理、ってなっちゃって)。投げられた言葉を無意識に反芻する。あの日から言葉の意味を理解するのに必死だった。その内に言葉が音を伴わない文字の羅列になり、木霊のように頭に響くようになる。

 無理、って、なんだ。

 彼は思考の海を泳ぎ、自分が覚えているかぎりのことを頭から丁寧に思い起こしてみた。何がそうさせてしまったのか。何が問題なのか。何が悪かったのか。しかし記憶のどれを取り上げても、彼にとっては明確な理由にはならなかった。

 嗚呼、色が足りない。彼は、彼の持ちうる全ての色で持ってこれを知ろうと躍起になった、が、どんな色でもピタリ符合するものはない。赤色も黄色も、緑も桃も橙も。

 しかしとにかく謝罪をしなければという心持ちでいるので筆を執るのである。彼は自身の気持ちを伝える手段として、手紙を選択したのだった。

 『私は/あなたの事を……』

 そこまで考えて、ふと彼の頭にある疑念が生じた。全ての色が綯い交ぜになって生まれた新たな色が、驚く程当てはまることに気付いてしまった。不可解な状況の説明が着く可能性。それが真実であるとすれば納得のいくものだった。その一方で、それが真実でなければと思ってしまう程、残酷な可能性でもあった。

 ポチャリ、と水音が響き現実に引き戻された。急速に体が再構築されていく。いつの間にか顔を覆っていた手が落ちて、水面を叩いた音だった。波紋が同心円状に広がって、波を作る。不意の波に乗り切れなかったサーファー達が呑まれて消えていった。風呂に張られた湯は変わらず無色透明のままだった。

 彼は一つ嘆息を吐いて立ち上がり、身体を洗い始める。慣れた手つきに迷いは見られないが、それが陰部に差し掛かったタイミングで一度手が止まった。動きはすぐに再開された。躊躇いなどなかったかのような動きは、しかしどこか荒々しい雑なものに見えた。


 ……私がこうしてあなたにお手紙を差し上げますのは、全て私の我儘、自己満足によるものでございます。ただ、私にはこうする他もうどうする事も出来ないのです。この気持ち、この想いをお伝えする術を、私は他に持ち合わせていないのです。

 故に、このようなお手紙を差し上げる無礼を、どうかお許し下さい……。

 まず何より、私の軽率な言動によって多大な迷惑をおかけしてしまい申し訳ありませんでした。また、その後の行動も良くなかったと深く反省しています。結果、今に続くまで苦しめてしまうことになってしまったことも申し訳ないと思っています。

 今冷静になって振り返れば、いかに私が自己中心的で勝手な行動を取っていたのかをこれ以上なく理解できます。一人で勝手に盛り上がって、相手のことを全く考えられていなかった。本当にすみませんでした。

 これらが自己満足の謝罪だと謗られても構いません。それでもこのまま終わらせたくなかった。この現状に耐えられなかった。どうか最後までご一読していただけたら、それ以上の喜びはありません。

 「まもなく快速急行が当駅を通過します。危ないですので、黄色い点字ブロックの内側にお下がりください」

 彼の目の前を高速で横切った車内では若い男女が身を支えあって眠っていた。瞳を閉じ僅かにも動かない様子はまるで彫刻のようで、彼にはそれがなんだか嘘くさい物のように感じられた。果たしてこんなに簡単なものなのだろうか……?そこで彼は疑問を解消するべく、触って確かめてみることにした。

 伸ばした手が頬に触れるまさにその瞬間、男の瞳が開けられた。バッチリ目が合って気付いた。男は自分だったのだ。慌てて手を引っ込れば、電車は駅を通過していった。

 「君、あれはダメだよ。許可無く他人様に触ろうなんてさ」

 「でもあれは間違いなく私でした」

 どうやら一部始終を見られていたらしい。横にいた老人がしたり顔で説教をしてくる。彼は気まずくなって目線を逸らした。老人の手にはプルタブを開けられた缶ビールが握られていた。老人は彼の視線の動きからビールを見た事を察して、「飲むかい?」とニヤリ笑った。

 「じゃ、お言葉に甘えて……」

 黄金色の麻痺毒を嚥下する。その姿を見てから老人が口を開いた。

 「黄色ってのは警告色なんだよ。青じゃないし、赤でもない。でも、てことはどっちの可能性もあるって事なんだぜ」

 「私は……」彼が口篭るのは必然だと言えた。答えをもちあわせていないのだから。彼の視界が靄がかったように不透明になる。その向こうで老人が優しく頷いたのがわかった。

 「ま、そういう日もあるわな」

 そんな日ばっかりだ。

 視界と対比して思考は明瞭になっていく。こんな言葉じゃダメだ。誠意が伝わらない。彼の指は躊躇いなくdeleteキーにかけられ、それが上がることはなかった。

 俺が書きたいのはこんなのじゃないのに。

 ……もう一度やり直せたら、と考えた事が無いとは言えません。しかしそれは無意味な想像だろうとも思います。きっと私は同じことを繰り返すでしょう。私はこの一件に関しての後悔は全くございません。そして傲慢な願いですが、あなたにも後悔しては欲しくないとも思っています。

 全ての非は此方にあるのであって、あなたが責められることは何一つとしてありません。自分の選択を悔やまないで欲しいと切に願います。

 『何故なら/その否定は/ひいては私の……』

 彼の書いた手紙を読んだ彼女は、はじめ、怒りの感情を露にした。その表情だけは鮮明に彼の瞳に写った。自然な、気持ちの良い怒りだと彼は感じたようだった。彼はそれを正当なものだとして正面から受け止めようとしたが、それが彼女の神経を逆撫でたようで、益々怒りが深まるばかりだった。しかしこれは大きな一歩だ。怒るということは事実を受け入れんとする、その第一歩であり、向き合うために必要な過程である、と彼は考えていた。

 「これが現実だったらなあ」


 物音がして彼の意識は覚醒してしまった。彼の弟が帰ってきたらしい。漏れ聞こえる電子加工された女声は、弟の彼女の声だろう……と彼はぼんやり思った。確かもう一年は続いているはずで、それでも尚毎日欠かさず通話しているというのは素直に凄い。

 その流れで、彼はふと、弟はもう経験したのだろうかと考えた。弟もまた男なのだろうか。興味を持つことは自然な事だ、と彼は理解している。昔、彼はそういう事に興味があるのかアンケートを取ったことがあったが、男女混合で九割強が“ある”と回答したことを思い出した。であるなら、それが普通のことなのだろう。

 翻って自分はどうなんだろう。彼の思考は次のステージに進む。自分の行動もまた、そういう欲求に従っての求愛なのだろうか。自身の身体に問いかける。答えは返ってこない。断固として否だ、と彼は強く思った。彼には恋と肉欲とが地続きのものであるとは信じられなかった。“お付き合い”の延長線上にそれがあるとは思いたくなかった。そうして、それが無くとも好意を持つことが出来ている自分に安堵した。これこそが本当の恋なのだと、声高々に宣言したかった。

 晴れ渡る青空の下、澄んだ心を手に入れた彼は自由だった。法と秩序に保証された穢れなき自由だった。彼らは二人、倒れ込む様に仰向けになって、視界いっぱいに広がる青色を喜んだ。飛行機雲が一筋下から上へ流れたが、何を分かつことなく消えていった。

 「こんなに天気がいいのに室内に籠って勉強しなきゃいけないって、なんかのバグだろ」

 「確かにね。飛んで正解だった」

 笑いあう二人の零した息はどこまでも白い。彼の胸中には、正しい心さえあればどこまでも行けるのだという確信があった。

 冬の冷気に対抗するかのように強められた空調によって淀んだ空気が、睡魔と連携をとって真綿で首を絞めるように意識を削いでいく。首が下がりきった時、股間部分が膨らんで見えることに気が付いた。これは違う。服の構造上そう見えてしまうだけであって、現実に盛り上げている訳では無い、と彼は弁解した。男性諸君ならばわかるだろう?それから、これ以上誤解を招かないようジャンパーで覆い隠した。

 夢を見た。

 夢の中では僕と彼女とその他とが一堂に会していて、なにか大きな脅威に立ち向かおうとしていた。船内に響くエマージェンシーアラートが危機感を煽る。しかし彼女は、……今更ながらここで言う“彼女”は指示代名詞の“彼女”だ……は僕を避けるので、必然、二つの派閥が出来上がる。でもその場所にいる。

 僕は彼女さえ助かればという奉仕の心持ちでいたが、彼女がそれを受け入れる事は無かった。夢の中でくらい、と彼は思った。同時に、それだけイメージが強固なんだなとも思った。概念として在る彼女を形作るにあたって、それが占める割合は彼自身が思っているよりも大きいらしい。

 良く言えばこれは尊重なのだ、と彼は考えた。他者理解の為の歩み寄りである。そも、彼の夢に明確に認識できる個が現れることは稀であった。彼はそれを自覚していた。彼は自分が思っているよりも対話の機会を望んでいることを知った。

 しかしそれは叶わない望みだ。徹底して避けられている現状では、此方から取れるアプローチは無いに等しい。

 『本当のところ/私はこれを読んでいただけるとは/思っていません』


 あの頃の我が家には、いやもっと言えば私の部屋には、死の匂いが充満していました。この死は多義的な意味の死です。本来の意味通り生の終わりとしての死の他にも、将来像の喪失やそれまでの怠惰を克服するという正方向の死、生の意義に対する疑問といった精神的な死がありました。

 ほら、年始に大きな地震があったでしょう。その後の関東でもしばしば大きい揺れが続きましたよね。そうした当時の情勢と私の意識の変化をどうしても重ねてしまって、その不安定さにすっかりやられてしまったんです。

 あの頃は明確な死のイメージが確かな存在感を伴ってすぐ眼前にありました。それで私は、あなたをデートにお誘いしたのです。

 その日は丁度、……勿論タダの偶然なのだが……大震災があった日で、彼はそれに不謹慎ながらも何か運命的なものを感じていた。激動の日、と一口で言ってしまうのは簡単だが、実際彼の心の内は荒ぶる波のように押しては返しを繰り返した。

 彼が家に着いたのは彼が想定していたよりずっと早い、日の短い冬ですらまだ太陽が気合を入れている時間くらいの事だった。全てが終わって冷静に時計を見た時、彼は自身の失敗を悟った。

 「……実は今日デートに行ってきたんだよね」

 「あっそう」もうちょい興味持ってくれてもいいじゃん、とは言わなかった。

 「何、カイトに影響された?」

 「それは関係ない」

 全く無いとは否定しきれないな――と彼は思った。色々のことが重なっての今だ。その一要因になっていても疑いは無い。ただ、自分がそういった稚拙ともいえる対抗心から起こした行動だと思って欲しくはなかった。

 自分の想像以上に強くなってしまった否定に彼は自分で驚いて、慌てるように話を広げようとする。が、深い話は出てこない。心情を赤裸々に話すのもはばかられた。結果当たり障りのないコメントを呟くに留まる。

 「でもなんか微妙だったんだよね」

 じゃ合ってなかったんじゃない?次に行った方がいいよ、と彼の母は言った。「そうなのかな」

 どこまでもドライな返答に憤りすら感じる。そう簡単に割りきれたら苦労はしない、彼はそう思ったが口をついたのは強がりだけだった。そうした困難を乗り越えていくのが本当の恋愛じゃないのか。

 確かに合っていないのかもしれない。だとしても、それで直ぐ切り替えれてしまったら、それは好意では無いだろう……と彼は考えていた。良いとこワンチャン狙い、もしくは数撃ち戦法で、それらが好ましいとは到底思えない。彼は稀によくある、別れた一月後にはもう新しい恋人ができている、という状況を想像して、都市伝説だと結論付けた。

 「まあなんでもいいけど。避妊だけはちゃんとしてよ」

 ……私は信仰の上に生きる敬虔な愛の奴隷なのです。信心を服にして着込むことで、私は理性を獲得しました。獣性の克服、脱却を果たしました。私の持つこの感情は、真実、私だからこそ抱くものなのです。低俗な欲求を原動力にしたものではございません。仮にそのようなことがあれば、主が私を罰するでしょう『……否、/主が罰を下す前に/私自らが』

 彼の自室から見えた空はいつの間にか橙色に染まっていた。粛清の炎だ、と彼は思った。炎の勢いは留まるところを知らず、青が飲み込まれるようにかき消され上書きされていく。嗚呼、今や彼と彼女とは同じ空を共有していない。もはや彼の心は凪いではいられない。彼は空を見上げ一心に祈った。祈ることしか出来ない己の惨めさを呪いながら。

 神様。私は自身の罪を懺悔致します。私は罪を犯しました……到底許されざる罪を。責任は全て私にございます。如何なる罰を与えられても構いません。更にはこの罪の意識さえも、私の陥った状況を打破せんとする為に利用しようとしている心の動きがあることを、恥を忍んで告白します……。

 私は許されようとは思っていません。しかし、私の内にある浅ましい心がどうにか救われようとしているのもまた事実です。どころか、非を認めないように動こうとする逃避願望も自覚しております。神よ、私はどうしようもなく弱い人間です。どうか、どうかお導き下さい……。


 チャイムが講義の終わりを知らせる。準備のいい学生達は既に荷物を纏めており、音と同時に教室を出ていく。まるで檻から解放されたかのようだ、と彼はその光景を見て思った。何をそんなに急ぐことがあるのだろうか。何が彼らを急き立てるのだろうか。「だからそんな先をいってるのか」

 しかし彼はゆっくり立ち上がり御手洗へと向かった。

 個室はあいにく満室だった。それで彼は仕方なく小便器の前に立ち社会の窓を開けた。用を足す間、彼の思考もまた弁が開けられたかのようにとめどなく溢れ出した。

 彼は平生から小便器に対し良い印象を持っていなかった。これ程強烈に男性性を意識させるものは無い。いっそ個室のみにするか、あるいは女性側にも同じような小便器が用意されていれば良いのにとさえ思う。何が悲しくて御手洗に行くたびに憂鬱な気分にならなければいけないのか。そこで彼は必死に無心になろうとするのだが、思考を空にすればする程その空白を埋めようと流れ落ち満たしてくる。

 しかし今日は普段とは少し違う想像が頭の中に生まれた。それは性行為のイメージだった。小便器に向かって腰をつきだすという排泄行為と彼の知識にあるそれとが、非常に似通っているなという意識が突然降って湧いた。意識の刷り込みだ、と彼は思った。これは洗脳となんら変わらない。

 思考の雑念は老廃物と認識されないようだった。彼が想起させられた強烈なイメージは尿と共に流れることは無かった。

 「一言で言うなら、矢印を向け慣れてなかったし、矢印を向けられ慣れてなかったってことかな」

 「どういう事?」

 簡単な話のはずだったのだ。彼の認識では。想いを打ち明ける→受け取れない事を伝える→悲しむ。それで終わるはずだった。こんなに複雑化させることは無かったのだ。

 「俺は……」彼は言葉を区切って躊躇する。自身の思いを恥ずかしいと感じる心が、彼を躊躇わせた。「くだらないプライドで、告白するなら対面で、と考えてた。そこで振られて、それで終わりにしようって」

 「でも出来なかった」相槌を待つことなく言葉を重ねる。「その前に向こうが俺を避け始めた」

 「なんで?」

 わかんない、と彼は呟いた。(なんか、無理、ってなっちゃって)。俺が何かしただろうか?彼は改めて自分に問いかけた。“好意を伝えること”が許されないのであれば、もう何も出来ない。

 意味の無い問いだ。答え合わせを拒否されている以上、考えるだけ無駄である……と彼は理解していて尚問うことを止めれなかった。

 「多分、……多分だけど、向こうも混乱してたんだと思う」

 「あー。まあそれはあると思うよ」

 「うん。でもそれがこんなに続くのかな」

 現実逃避は自己防衛本能の一種で、その行動自体を責めることはできない。ましてやそれが無意識の行動であるなら尚更だ。しかしそれがこんなにも――半年以上続くのは異常に思えた。理由があるならそれを取り除いてやりたいと彼は思っているが、根本の原因を作ったのは自分であるという事実がそれを阻んでいる。彼はさらに続けた。

 「こういう状況が続くのは互いに良い事がないと思って、だから謝罪の場を設けたんだけど……」結果はこの通りである。

 それも本当は意味のわからないことだ。一体何を謝罪するというのか。「恋愛って結局勢いみたいなとこあるしね」の言葉に彼は深く頷いた。

 「だからもう俺にはどうすることも出来なくて」

 「でも向こうからなにかアクションを起こすことは無いと思う。どうにかしたいんなら自分からじゃない」

 確かに、と彼は思った。今更向こうが何かアクションを起こすのは想像がつかなかった。でも、かといってこちらから出来ることも無いように思われた。向こうとの繋がりは殆ど絶たれている。彼の視点では打つ手なしの八方塞がりだった。

 「じゃ手紙を書けばいいんじゃない?」


 帰路についた時、彼の胸の内はとても晴れやかだった。人工灯が照らしだす影も心做しか弾んでいるように見える。人に聞いてもらうという最も古典的な悩みの解決方法は、たとい根本が解決していなくても一定の効果があるらしい。今や彼は溢れる万能感に包まれていた。全てが丸く収まったような心持ちがした。

 そうか、手紙を書けばいいんだな。

 何を書こうか、彼の頭では早速文章が考えられ始めていた。伝えたいこと、謝りたいこと。偽りのない本心を書き起こそう、と思った。これが受け取られなくてもいい、自分の今持てる精一杯の誠意をもって謝罪しよう。

 軽くなった足取りを止めたのは踏切が降りてきたからだ。警告音と共に黄色が降ってくる。それで彼は否応無しに足を止めさせられた。快速急行が彼の視界を遮る。列車は付近の駅には止まらないようで、その勢いが緩むことは無い。一瞬にも思えるその時間は、しかし彼にとっては永遠にも等しいものだった。

 列車の中では若い男女が仲睦まじく微笑みあっていた。体と体とを重ね合わせ、彼らは幸せの只中、世界の中心を生きている。周りは甘ったるい空気感にあてられて思わずといったように彼らを優しく肯定しているが、彼にはそれが肉欲に塗れた笑顔にしか見えなかった。上がる口角の裏側で、彼らは一体どんな想像をしているのだろう。深く考えるでもなく明白なイメージを彼が思い起こすのと同時、男と目が合った。男もまた彼を認識したようで、いっそう笑みを強めた。男は自分だった。その受け入れ難い自覚は彼に一つの答えをもたらした。

 無意識に一歩、足を踏み出す。視界いっぱいに赤が広がった。明滅する赤が心臓の鼓動と同期する。緊張と興奮とでぼうっとした頭は全てを非現実と認識する。足裏の感覚はとっくに無かった。立っているのか、座っているのか、泳いでいるのか、落ちているのか。彼の中の僅かに残る冷静な部分がそれを血の赤だと思った。暴力的な赤。残酷な赤。致命傷の赤。それが何よりの証明なのだが、彼にとってそれは瑣末事にすぎない。身を焼き尽くす快楽に全身を焼かれていたからだ。とめどなく流れる赤はまるで涙だった。彼女は泣いていた。彼も泣いていた。

 「  」

 何を言ったのか。何を言わなかったのか。抵抗は今やスパイスにしかなり得ない。彼は既に踏み出してしまった。濃密な肉の匂いが充満する。あまりに鮮明なイメージが彼の頭を貫き、列車が通過した後にも残り続けるどす黒い空白が彼の頭を支配した。彼は立ち尽くした。想像を振り払い否定しようとした彼は、自身の肉棒が痛いほど屹立している事に気付いた。俺は男だった。どうしようもなく男だった。

 それが私の答えで、それが為に私は冷静でいられないのです。荒唐無稽な妄想だと笑ってくれるでしょうか。それとも本当に墓場まで持っていくべき禁忌なのでしょうか。私には分かりません。私には何も分かりません……。

 『実の所/私は/安堵しているのかも/知れません』

 答え合わせをしたいと思わない日はありませんでした。あの日から私の世界はバラバラに崩れ、歪に再構成された。何度吐きかけた事でしょう。いや、いっそ吐くことが出来れば楽なのに、そういう時は決まって僅かな胃酸と胸の苦しみだけが残るんだ。でも好きだ。どうか信じてください、この気持ちだけは本物です。私と貴女とは、まるでイザナギとイザナミのような対の関係なのです。あなたが私を嫌えば嫌うほど私の愛は深くなり、あの日を後悔すればするほど私は感謝するでしょう。それ程までに愛しています。そうして月日が経つうちに、私は段々とこれは罰なのだと思うようになりました。あなたに避けられる度に疑念が確信へ変わっていきました。『もしかしたら/本当に……』


 【※欠落】


 大学の送迎バスを待つ列のなかに彼女の姿を見た気がして、彼の足が止まった。ふとした拍子に見えた横顔で彼は人違いに気付いたが、そのままなんとなしに女性を目で追った。女性は緑のスカートを履いていた。新緑の緑だ。彼女に似合うだろうな、と彼は思った。彼はそこに森を見た。森の中では木々が囁きあっていて、余所者である彼はあまり歓迎されていなかった。恐る恐る歩を進める。しばらく歩くと、しめ縄を巻かれた立派な大木と相対した。彼はここは神域なのだとようやく理解した。

 「来たか」低く重い声が響く。来ました、と彼は答えた。

 「私を救っては下さいませんか」

 「それは出来ない。が、上まで来たらヒントくらいはやろう」

 それで彼は必死になって山を登った。登山なんて一体いつぶりだろうか。久しく登っていなかった彼だったが、鳥たちの囀りに導かれ一歩ずつ歩を進める。不思議と疲労はなかった。少しずつお日様との距離が縮まっていく。確かに前に進んでいる。

 また声が聞こえた。

 「緑とは、天から降ってくる赤と青とを完全に吸収しきったものだけに許された色だ。それは中庸の象徴であり、ともすれば完璧に思えるかもしれないが――」視界が一気に開けた。

 目の前に広がるのは黒く無機質な岩肌で、そこに緑は存在しなかった。緑と黒と、そのちょうど真ん中に彼は立っていた。

 「あ……森林限界……」

 そこから頂上まではすぐだった。登り切った後、彼は最高高度で手を伸ばしたが、それはただ空を切るばかりで何を掴むことも出来なかった。そこで彼は山頂に転がる大小様々の岩や石やを積み上げて塔を作ろうとするのだが、不揃いのそれらを安定させることは難しく、何度挑戦を繰り返しても崩れてしまう。

 結局光は掴めなかった。もう何をしても届かないのだなとようやく理解した。(なんか、無理、ってなっちゃって)。今なら少しわかる気がする、と彼は呟いた。「いや、やっぱ全然わかんねーわ」

 『多分/もう少しだけ/好きだと/思います』でもきっといつかは過去の記憶になると思います。それが正しい形だし、それが綺麗な終わり方だと思います。『私は/あなたの事を/愛していました』


 夜の自室で彼は桃色の世界に身を浸していた。自分を慰める、という表現がそのまま今の現状を反映しているようで情けない。なんて惨めな行為なのだろう。雑念に手が止まった。そうしてふと、自身が彼女を対象にしていないことに気が付いた。

 実際のところは慰めなんかじゃなくて、自傷行為に近かった。扱くたびに生まれる快楽が、そのまま痛みとなって、また直ぐに快楽に押し流されていく。しばらくして彼は精を吐き出した。濁った白は黒を上書きしようとして失敗し、ただリアリティを増長させただけに終わった。

解説(あるいはノイズ)

 耐えられないと頭が判断して自分の都合のいいように事実を改変・忘却するという自己防衛本能がある。それ自体は必要な機能だと思うし、それがないと生きてこれなかった人もいるんだとは思うけど、それが必ずしも最良解じゃない時もあるはずで、その一パターンがこの話だ。どうしたって自分の都合のいいように思い込みたくなるし、嘘みたいな現実は嘘の方が良い。でも、どんなに辛くたって苦しくたって向き合わなきゃいけない時もある。逃げてばかりじゃダメになる。だから受け入れて前に進む。傷だらけになって血反吐を吐いてでもそうしなきゃいけない時がある。全部必要な過程でした。周りを見ればもっと簡単なはずじゃん、って思うけど、でもそれが自分だからしゃーないよね。

 この話は私(作者)のリアルを知っている人からしたらノンフィクションに読めるかもしれない。実際私の最近の流れがあったからこそ書けた作品であることは否定しないが、作中の彼と私は等号では結ばれないことをご留意頂きたい。

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