第68話 五日、⑦
(行程)難波津
(原文)
また、いふに従ひて、「いかがはせむ」とて、「眼もこそ二つあれ。ただ一つある鏡を奉る」とて海にうちはめつればいと口惜し。
さればうちつけに、海は鏡のごとなりぬれば、あるの詠める歌、
「ちはやぶる 神のこころの 荒るる海に 鏡を入れて かつ見つるかな」
いたく住の江の忘草、岸の姫松などいふ神にはあらずかし。
目もうつらうつら、鏡に神の心をこそは見つれ。
楫取の心は神の御心なりけり。
(舞夢訳)
(そこで)再び、楫取が言って来たことに従って(従うほかはなくて)、「さて、どうするか」と考えて、「大切な目でさえも、二つある」「ここは、もっと大切な、一つしかない鏡を奉ることにしよう」と、海に投げ入れたものの、実に口惜しいのです。
(ところが)一瞬にして、海は鏡のように、静かにおさまったのです。
ある人(紀貫之)が歌を詠みました。
「住吉の神の御心を怖れ、(その御心のあらわれである)荒ぶる海に、鏡を入れ奉りました」
「住吉の神も、我々の懸命な気持ちを察していただいたのか、海は鏡のように静まりました」
「我々は、住吉の神の(欲深い)御心を、この鏡の奉納のことから、理解いたしました」
この住吉の神は、和歌の世界で歌われる、住の江や忘れ草、岸の姫松のような優美な神ではないようです。
はっきりと理解しました。
大切な鏡を「奉納しろ」と言って来るような、そこに住吉の神の(強欲)心を見ました。
要するに、梶取の(強欲な)心と同じなのが、住吉の神の御心なのです。
住吉の神と、梶取は、散々な言われようである。
紀貫之としては、海に沈みたくないので、楫取の言葉通りにするしかないのが、口惜しい。
「こんな高い鏡を」と思いながら、海に投げ入れた。
楫取と住吉の神に、「カツアゲ」されたような悔しさ。
難波津(大阪)は、古代から交易(商売)で栄えた場所。
現代の大阪人にもつながる「実利至上主義」、「ケチで強欲」を連想させる記述である。




