雨滴とゾーリンゲン
カッターをものさしにあて、寝かし、流すように刃を走らせる。
縦七〇センチ、横一〇〇センチの大きなグラシン紙を横から裂き、二〇センチの冊を作っていく。大体の単行本はその大きさで覆えるのだ。グラシン紙一枚から二〇センチの冊を五枚作ることが出来た。その作業を繰り返し、何枚も何枚も作っていく。
グラシン紙というのは、透明度が高く防水性、耐油性に優れた紙でよくクッキングシートなんかにも使われている。
僕が作っているのは、要はブックカバーだ。古書店なんかで扱われている本の劣化を、価値の低下を防ぐためのグラシン紙製ブックカバー。
だけど、僕がこんなにブックカバーを制作しているのは別に東京神田神保町の古書店の店員でなければ、本が大好きで大切にコレクションとして保存する古書マニアなんかでもなかった。
——遺品整理。そいつが、僕の仕事なだけだった。
言ってしまえば、遺品整理士。人が亡くなった後には少なくても必ず物が残される。それらを整理するのが整理士である僕の仕事だった。
ただ、整理するだけではもちろんない。遺品整理の仕事には亡くなった遺族からの依頼もあれば、亡くなる前の生前の故人からの依頼の場合もある。遺族からの依頼の場合だと言われた通りにそのまま残すもの、捨ててしまってもいいものなどに分類していく作業が主になってくる。
生前の故人からの依頼だと、亡くなる前にリストを作っておき、死後そのリスト通りに処分する物は処分してしまい、遺族に譲り渡したい物があればその人物を探し出し渡すまでが仕事となる。厄介なのは、そのリストに遺族が反対してきた時だ。遺族が怒鳴り散らそうが泣き叫ぼうが、故人との契約は既に結ばれてしまっている。整理士はその約束を突き通さなければいけない。
さて、今回きた整理して欲しいという依頼の内容は、これまで僕がしてきた仕事とは少し違っていた。何しろ遺品は一般人のものじゃなかった。一昨年、五十代という若さで亡くなった男性で。自称とある文豪の没後弟子を名乗った私小説しか書かない芥川賞作家の遺品だった。
その作家は生涯独身を貫き、タクシーの中で急死した、らしい。依頼が来たのは遺族からでも生前の故人からでも無かった。その作家には母親と姉がいたが、どうやら絶縁の状態にあったらしい。 その結果、残された遺族は作家が師として尊敬していたとある文豪の生地にある文学館に遺品を丸ごと譲ったらしい、のだ。
そして、その文学館は遺品整理士の僕を依託として雇った、ということなる。はっきりしない物言いだが、要は僕も詳しくは知らないのである。一応、仕事としてその作家の一番有名な芥川賞を取った作品だけを読んだが、ただそれだけであった。
文学館は文学の美術館であり、ただ整理するだけではない。きちんと遺品を分類ごとに整理し、どんな品なのか資料として残しておく必要がある。整理士の僕一人では骨の折れる作業ばかりだった。
何しろ美術館のルールについても詳しく知らないので、最初の内はその文学館の学芸員に色々教わりながらの作業になった。
この依頼に取り掛かって早二か月、やっと仕事の流れを理解出来るようになり、動作が様に成って来た。学芸員と共に行動していたのが、近頃は僕一人の作業という時間も多くなった。
作家の遺品ということもあって、最も多いのが本だ。どうやら百箱以上もの段ボールの数があるらしい。芥川賞作家の私物だった本は売れば結構な価値になるらしく、どれも取り扱い注意でブックカバーを掛けなくてはいけない。
ここ最近の僕の作業はもっぱらブックカバー作りとそれの装着だった……。
芥川賞作家の遺品整理と聞こえはいいが、扱うものは高くとも給料は安く、誰のためにこんなことしているのだろうと思う日々が続いていた。
朝の九時から午後の六時まで、本日の作業を終えた僕は文学館を後にする。この後の僕の行き先は決まっていた。文学館に通勤するようになって数日目、仕事が終わり気分転換に僕は初めてこの地の飲み屋に入店した。
店名は、居酒屋みやちゃん。最初に店の外から中を覗いた際に見えた、酔っ払い相手に気丈に振舞っていた彼女の姿が印象的だったからだ。
「いらっしゃいませぇー」 暖簾をくぐれば看板娘、みやちゃんの綺麗な声が聞こえる。
「あ、整理士さん。今日も来てくれたんですね、いらっしゃいませぇ。まずは、何ですか? ビールですか?」 別のお客の注文を取っていたみやちゃんだが、僕の入店に気づくと笑顔を向けてそう尋ねてくれた。注文していたお客も常連でこういうみやちゃんの接客が好きな人たちだ。
「あ、どうも。うん、生中お願い、みやちゃん」
「はーい、生中一つね」 お客の注文を取り、店の奥へと消えていくみやちゃんの後ろ姿を僕は見えなくなるまで追いかけるように眺めていた。
本当にいい子で可愛い娘だなと僕は店に来て、みやちゃんの姿を見るたびに思う。初めてこの店に入ってからほぼ毎日、僕はこの居酒屋みやちゃんに足を運ぶようになっていた。もちろん、みやちゃんに会うために。
いつだったか、みやちゃんに「お客さん、何をしている人なんですかー?」と聞かれたことがあった。僕は遺品整理士の仕事について説明し、今現在請け負っている依頼についても話した。
もちろん、これでも個人のプライバシーに関わる仕事だ。故人の個人情報などの秘密にすべきことは省略して話した。扱っているのが著名な作家の私物ではあるので芥川賞の名称を出せば、説明しやすかった。
「へえー、そうなんですねぇ。じゃあ、これから整理士さんって呼びますね」 みやちゃんはそう言い、それから僕は「整理士さん」と呼ばれるようになった。常連のお客たちにも徐々に広まっていっている。
「こんばんは、整備士さん」 常連のお客が気軽に僕に話しかけてくる、彼は会社員さんだ。どうやら、彼の話を聞いていると彼もここの常連になってまだ僕とそう変わりはないらしい。
「こんばんは、会社員さん。それと、僕は整備士ではなく整理士です」
「あ、ああ、ごめんごめん、そうだった」
程なくして僕が注文していたビールとお通しがみやちゃんの手によって運ばれてくる。
「おまたせしました、整理士さん」 そう言って、机にビールとお通しを置く、みやちゃんの姿は無防備だ。おまけに彼女のいい匂いがする。僕は気を紛らわすようにビールを一口飲んだ。
みやちゃんの見た目はけっこう派手だ。青い髪に薄紫色の瞳をしている。彼女はいつも左目を髪で隠しており、少しミステリアスだ。だけど性格は清楚で純粋な努力家だ。僕はそんなみやちゃんが大好きだった。
「みやちゃん! 何か歌ってよー」 お客の一人がそう呼びかける。みやちゃんは笑顔で対応した。
「はあーい、いいですよお」 居酒屋みやちゃんにはカラオケ機器がある。それはお客が歌うというより、みんながみやちゃんの歌声を聴くためにあると言っていい。
「なにがいいかなあ」 みやちゃんは歌うための選曲をし始める。今日の僕は何となく、しっとりとした曲が聴きたかった。もちろんみやちゃんの歌声で。
「うん。じゃあ、たばこを歌いますぅ」 コレワサの「たばこ」だ、けっこう僕はこの曲が好きだった。
みやちゃんが歌い始めると、いつもは騒がしいお客たちが静かになる。みんな彼女の歌声に聴き惚れているのだ。僕もビールを飲むのを忘れて彼女の歌声に集中する。
彼女の歌声は僕に雨滴が地面に落ちるような情景を思い浮かばせる。なぜ、雨滴なのか。それは彼女の歌声の高低音の幅の広さや感情の乗せ方の上手さだと思っている。優しい雨滴もあれば、力強い雨滴もあるように、彼女の歌声はその曲の歌詞の内容や曲調の読み取り方が上手いのだと思っている。
みやちゃんが「たばこ」を歌い終わると、店の中は拍手が響き渡った。まさに、みんなのアイドルだと思った。
「ありがとうございますー」 みやちゃんが一礼した。
「やっぱ、みやちゃんが一番だよ」
「みやちゃんじゃないとやっぱ駄目だわ」 お客が口々にそう言い、皆はうんうんと納得する。
「そういえば、整備士さん。あの常連の頑張り屋さん、最近見かけないと思いません?」 二杯目のビールを飲んでいる頃、あの会社員さんが僕にそう尋ねて来る。
「あの~、ですから整理士ですって」
「そうだった、そうだった」 会社員さんの言った頑張り屋さんは昔からのこの店の常連さんだ。みやちゃんが大好きでよくみやちゃんに話しかけているのを見たことがある。
「そういえば、最近見かけないですね」
「そうでしょう。店に来れば見かけない日の方が珍しい人だったのに、どうしたのかなあ……」 二人でそんなことを話しているとみやちゃんが近づいてくる。
「頑張り屋さんは私以外の一番が出来たらしいんですよお。だから、もうこの店には来ないとおもいます」
「ええ?」 僕と会社員さんの反応はまったく同じだった。そして二人とも顔を見合わせた。会社員さんは納得のいかない不思議そうな顔をしている。恐らく僕も似たような顔をしていただろう。 頑張り屋さんは他の店に行くようになったってことなのか、それにしたってたまには顔を出してもいいようなきがするのだが。
「会社員さんや整理士さんは私が一番ですよね?」 みやちゃんは突如そう尋ねて来る。
「もちろんだよ~」 会社員さんは真っ先にそう答えていた。
「やったあ、嬉しい」 みやちゃんはそう満面の笑みを浮かべたかと思ったら、僕の方を見て再度聞いた。
「で、整理士さんは?」 その時のみやちゃんの表情はこれまでに見たことのないものだった。口元は笑っているが、目がまったく笑っていなかった。
「え、も、もちろん僕もそうだよ」 少し、何か圧迫感を感じながらも僕はそう答えた。
「二人ともありがとう。いつまでもそういられるように頑張るね」 そう言うみやちゃんの表情はいつものものだった。
それから、みやちゃんの店に行ってからしばらく僕は店に足を運べずにいた。段々仕事が忙しくなってきたのだ。実は再度、遺族から遺品の提供があったのだ。どうやら遺族も知らない場所で作家は部屋を借りていたらしく、そこからまた多量の本が見つかった。僕のこの依頼の契約も更新され、さらに長く雇われることとなった。
その日、学芸員とこれからの打ち合わせの後に、軽い雑談になった。
「そういえば整理士さん、知っています? 宗教勧誘者の話」
「宗教勧誘者? 全然知りませんね」
「この辺りで、私の友人が急に話しかけられたらしくてね。信じる者はありますかって聞かれたらしいの。それでその友人はね『俺は俺を信じます』って答えたんだって」 そう言って学芸員は笑った。僕にも会ったら気を付けるように言い、仕事に戻って行った。
僕は何となく、この話に引っかかりを感じた。その友人が答えたという「俺は俺を信じます」という回答。僕には到底出来ないだろうな、と心から思ったからだ。
仕事を終え、文学館を出る。久しぶりにみやちゃんの店に行ってみようかなと僕は思っていた。そこに普通の服装をした年配の女性二人が話しかけてくる。
「ちょっとよろしいですか? そこの人」 僕はまさか、と思った。
「な、なんですか?」 僕は黙ってパンフレットを渡される。そこにはでかでかと知らない、聞いたことも無い宗教名があった。
「あなた、信じるものはありますか?」 やっぱりだ、と思った。僕は仕事の合間、もし、僕がその質問を受けたらどう答えるだろうと少し考えていた。僕にはあの学芸員の友人のような答えは決して出来ない。
「僕には信じるものなんてありません。僕は自信なんてない。仕事なんてしていても不安なことばかりです」 何か、意味を履き違えたのか年配の二人は満足そうに頷いている。
「つまり、自分自身も信じてないんですよ。そんな人間が今さら何かを信じれるようになれると思いますか? すいません、どいてください。急いでいるんで……」 僕はそう言うと、二人の間を抜けるようにして先を急いだ。二人はポカン、とした表情をしていた。
これでいい、これが僕の答えだ。
みやちゃんの店先まで速足でやって来ると、僕は少し安堵した。あの二人は追って来てはいない。さ、店に入ろうと思った所で妙な違和感に気づく。店の中が静かすぎるのだ。あの騒がしいお客たちの声がまったく聞こえない。
よく見ると、まだ準備中の看板が下がっている。あれ、それなら仕方ないが、こんな時間まで? もしかしたら今日は店が休みの日なのかもしれない。まあいい、日を改めようとした時、店の引き戸がガラッと開いた。
「あ、整理士さん。どこ行くんです?」
「あ、みやちゃん。今日休みなのかと思って……」 僕はみやちゃんの表情に前の様な圧迫感を感じる。少し、怖い。
「確かに、そうですけどいいですよ。最近整理士さんの姿を見ないと思っていましたし。どうぞ~」
僕は恐る恐る店に入店する。店には僕以外のお客はもちろん、みやちゃん以外の店員もいない。
「お通しは出せないですけど、ビールでいいですよねえ」
「う、うん。ありがとう……」 何か、異様な雰囲気が漂う中、運ばれてきたビールを一口飲む。彼女は横で、アイスほうじ茶ラテを飲んでいた。
「最近、なんで来なかったんです? 私、待っていたんですよ」
「実は、しご……、」 僕の言葉は途中でみやちゃんに遮られる。
「仕事って言うのはなしですよ。私と仕事、どっちが大切なんです? 言いましたよねえ、私、みんなの一番じゃなきゃ嫌だって」 みやちゃんは僕の顔を凝視し、彼女の鼻先が触れるのではないかと思う位距離を近づけてくる。
「ご、ごめん」 僕はそれしか言えなかった。みやちゃんは立ち上がると、溜息をついて店の奥に入っていく。逃げようかとも思いつつ、なぜか僕はそこに座ってビールを一口、二口と飲んだ。ビールの味がいつもより苦く感じた。
みやちゃんはすぐに戻って来る。左手に光る何かを持って。
「み、みやちゃん! そ、その……」 さすがに僕は恐怖からか椅子から転げ落ちた。言葉も続かない。
「知りません? ドイツの包丁ってよく切れるんですよ」
「……」 僕は言葉が出ない。
「ゾーリンゲンっていうメイカーで頑張り屋さんをバラバラに出来るくらいには……、ねえ?」
何がねぇ、なのかわからないが、みやちゃんは言葉を続ける。
「指先を切るのはゾーリンゲン製の鋏が良かったですけどね」 そう言って右手には鋏を握る。
「整理士さんは頑張り屋さん、みたいになりたくないですよね? だったら誰があなたの一番か答えてください」 僕は恐怖で出ない声を無理やり絞り出した。
「僕は……、」
仕事を終えた夕方、街の中で僕は見かけたことのある二人を見つけた。大学生ぽい男性に二人で話しかけている。男性は心底困った顔をしていた。
僕は後ろから二人に話しかける。男性はその隙に二人から速足で離れて行く。
「信じるものみつかりましたよ。みやちゃんです」 僕は平然とそう口にしていた……。