愛とは認めなかったもの
誰の目も気にせず自由に振る舞ってみたい。
多くの人が味わえることを味わえない者がいる。これは、常に護衛に守られて暮らす王族が罹る熱病だ。
第二王子、メイソン殿下も罹った。
思いを強めたのはエイダという娘が影響している。
エイダは平民だったが強い魔力を持っているため教会の後ろ盾を得て伯爵家の養女になった。
だが、エイダはそれを少しもありがたいとは思わなかった。自ら望んだわけではないのに強制的に養女にさせられ、貴族としてのマナーを叩きこまれ、出来ないと叱責を食らう。エイダの元来の負けん気の強さも相まって反発心を抱いた。貴族なんてつまらないといわんばかりに、学院でも好きに振る舞った。当然周囲の者たちは冷ややかな眼差しを向けたが……ただ一人、メイソンは彼女に好感を持った。環境に抗う姿に羨望を抱いた。そして、あっという間に親しくなり、お忍びで市井に遊びにいくようにもなった。
それは学院を卒業するまでの戯れ、まだかろうじて許されるだろう現在、束の間の自由を味わい、その後は粛々と王族としての責務を全うする。メイソンはそのように考えていた。
だが、事件は起きた。
何度目かのお忍びの際に、メイソンは呪いにかけられた。
「呪いとは人の思いが成すもの、妬み恨みという感情です。殿下にかけられたのは王家を疎む強い呪い。故に、解呪にはそれを上回る思い、即ち愛が必要なのです」
宮廷魔術師は言った。
「ならば、わたくしの愛をお使いください」
申し出たのはメイソンの婚約者・カトリーナ侯爵令嬢だった。
彼女には自信があった。自分の愛はどんな呪いにも負けはしない。必ず打ち勝つ。何せ、五歳で婚約を結び今日までメイソンを愛してきたのだから。
宮廷魔術師は、少し考え込む。
「……解呪のために思いを使えばその思いは喪失します。ご存じですか?」
「ええ、もちろん知っております。だから、ちょうどよいのですわ。メイソン様にとって私の愛は不要のもの。命が助かった上にそれが消える。喜ばしいことでしょう。それに、わたくしも。もうこれ以上苦しまずに済むのですから、よいこと尽くしですわ」
カトリーナは堂々と告げた。
傍に控えていた国王陛下夫妻と侯爵は気まずげに視線を下げたり眉を寄せたりした。
皆、知っていた。カトリーナがメイソンを愛していること、メイソンがそれを鬱陶しく感じていること。知っていて、見て見ぬふりをしていた。二人の婚約は政治的に有意義なものだったから、カトリーナが不満をこぼさないのに甘え、何の手立ても講じずに黙認してきた。
「けれど、一つだけ、お願いがございます」
カトリーナは宮廷魔術師から国王陛下へと視線を向けた。
カーテシーをして、
「メイソン様の命をお助けしました褒賞に、婚約を白紙にしていただきたく存じます」
慇懃無礼な申し出だった。
だが、失った愛の相手とこれから先の人生を共にすることを辞退させてほしいとは至極当然の願いでもあった。
王子の命には替えられない。誰が否やを言えようか。
国王陛下が頷くとカトリーナはにっこりと微笑んだ。
「馬鹿な真似をしたものだ」
第一王子、フレディ殿下が心底呆れたという声音で告げた。
回復したばかりのメイソンはベッドの中で上半身を起こしてその言葉を聞いていた。
お忍びで市井に行く。最初はきちんと二人の護衛を付けていた。二度、三度と繰り返すうちに「大丈夫だろう」と判断し、今回エイダと二人きりで出掛けた先で襲われた。
倒れるメイソンを見てパニックに陥ったエイダは大声で助けを求めた。
「この人は、王子様なの。助けて! 助けて!!」
メイソンが「尊い御身」であると流石のエイダも理解していた。なんとしても死なせるわけにはいかない。だから、身分をバラして、できるだけ優秀な医者に診てもらえるよう考えだったのだろう。
だが、誰が信じてくれようか。
エイダの思惑は機能せず町医者に担ぎこまれた。その後、エイダを養女に迎えている伯爵家経由で王家に連絡が入ったのだ。
メイソンが死亡していれば、エイダも護衛も厳罰を免れなかったが、一命をとりとめたこと、またメイソン自身の迂闊さと浅はかさが招いた結果であったことから、この件は緘口令がしかれ「なかったもの」として扱われた。
それでも多くの人に迷惑をかけて人生を狂わせたことに違いはない。
辛辣なフレディの言葉にメイソンは言い返せなかった。
「だが、気持ちはわかるさ。私も学生時代に似たことをした。たまたま何事もなく終わったが、お前のようになっていたかもしれない。そう考えればお前は高い勉強代を支払わされたと同情するよ」
フレディは、じっとメイソンの目を見つめながら言った。
その目は恐ろしいほど静かで、メイソンは気まずくなり、
「……そう、ですね。彼女という理解者を失ってしまった」
自嘲のようにつぶやいた。
フレディはそれ以上は何も言わず出ていった。
一人残されて、メイソンはベッドに倒れた。柔らかな枕の弾力に支えられて、天蓋が見えた。
(高い勉強代……本当にそうだな)
自ら望んだわけではない不自由な環境に身を置く同士だったが、もう彼女と会うことはないだろう。こんなことがなければ、卒業してからも手紙のやりとりぐらいは許されたかもしれない。
メイソンは静かに目を閉じて、自分の青春が終わるのを弔った。
メイソンとカトリーナが顔を合わせたのは解呪してから一週間後だった。
命の恩人への礼として国王陛下夫妻も同席するが、事件は公にはないものとなっているために王宮のもっとも奥まった場所にある、王族のプライベートな宮殿に通された。
メイソンの婚約者としてカトリーナはここへ来ることを許されてきたが、これが最後だろうと思えば感慨深い気持ちでいた。
父である侯爵に続いてカトリーナも挨拶をする。
「メイソン殿下。ご回復おめでとうございます」
「……其方の助力により解呪されたと聞いている。感謝する」
「もったいないお言葉です。ですが、礼には及びません。臣下として当然のことをしただけですわ」
挨拶が済むと、国王夫妻と侯爵は出て行き、部屋には二人だけが残された。
最後に積もる話もあるだろう……というのは建前で、カトリーナの気持ちが変わらないかと期待しているのは明白だった。
カトリーナは苦笑いを浮かべながらメイソンと対峙した。
室内は沈黙が支配していた。
何も語る言葉を持たない。
これまでならカトリーナから話題を提供して場を持たせようと努力した。婚約者との交流を深めるための茶会は、そうでもしなければあっという間に終わってしまうから、少しでもメイソンと長くいられるようカトリーナはいろいろ考えてきたものだ。
(メイソン様は、私の何が気に入らないのかしら?)
そんな風に考えを巡らせたりもした。
好かれていないというのは悲しかったけれど、それならば好かれるように努力すればいいのだと、当時は頑張ればなんとかなると思っていた。
それはカトリーナの母の影響だった。
「貴族として生まれたのだから政略結婚をしなければならないわ。けれど、家の為の結婚だって愛が育たないわけではないの。カトリーナも愛のない結婚より愛のある結婚の方がいいでしょう? だからね、まずは貴方から愛するのよ。愛して、愛して、そうしたら相手も貴方を愛してくれるわ。愛されて嫌だなんて思う人はいないのだから」
カトリーナの母は本気でそう思っていた。彼女は公爵家の末娘で政略結婚として侯爵の元へ嫁いだ。愛し愛される夫婦になりたいと懸命に彼を愛し、そして侯爵はそれに応えてくれた。その生き方をそのまま娘に教えた。自身が幸せだったから、娘も幸せになれると信じて。
だが、彼女は知らなかった。愛しても愛されるとは限らない。知らないまま、カトリーナが六歳の誕生日を迎える前に儚くなった。
カトリーナは亡き母の教えを胸に、将来の結婚相手であるメイソンを愛した。
だが、頑張れば頑張るほど空回りした。
それでも母の言葉が間違いであるとカトリーナは思わなかった。――否、思えなかった。母はそれで父と幸せな家庭を築いたのだ。自分にできないのは努力が足りないせいだと思った。幼かったカトリーナは母の教えをたった一つの正解として信じた。
そんなカトリーナも、一度だけ父に泣きついたことがある。婚約して五年目を迎えた頃だ。カトリーナの誕生日に招待したら、その日は狩りに行くから無理だと断られた。
毎年のことだから、カトリーナの誕生日を知っているはずなのに。
「残念な気持ちはわかるが、殿下もお忙しい身、誕生日を祝えないこともあるだろう。それでも最後はお前と婚姻を結ぶのだから、寛容に構えていれば良い」
父はカトリーナに我慢を強いた。
カトリーナはこれまで弱音を吐いたことがなかったので、初めての弱音なら大丈夫と判断した。もっと愚痴をこぼすようになれば真剣に考えようと、限界で辛うじて上げた助けだとは思わなかった。
また、誕生日の件は王妃殿下に叱られたらしいメイソンが当日祝いにやってきたことも安心材料になった。カトリーナも嬉しそうにしていた。祝ってもらったのだから不満は解消されたのだと深く考えなかった。
以降、カトリーナが父に泣き言を言うことは二度となかった。
言っても無駄と期待しなくなったからではなく、やはり自分が頑張るべきなのだとその思いを強めたからだ。
それから、カトリーナはただメイソンを愛した。
愛を返してもらえなくても愛し続け――気づけば十年以上の月日が流れていた。
流石に、カトリーナも愛したからといって愛されるわけではないと理解していた。だが、メイソンを愛することをやめなかった。物心ついたばかりの頃から当たり前に愛してきたのだ。どうやめればよいかもわからなかったし、メイソンと婚姻することは変わらないなら、自分だけでも愛する人と結婚したと思える方が良い気がした。
しかし、大きな転機が訪れた。
メイソンが呪いをかけられたのである。
カトリーナは彼への愛で呪いを解いた。代償にその愛は失われた。
すべてが終わってから、カトリーナは人知れず安堵した。
自分の愛ならばどのような呪いにも打ち勝つと言い切ってはみたが、メイソンへの思いは本当に愛なのか。当人から拒絶され続けているそれは、愛ではなく執着にすぎないのではないか。ただ、愛だと言い張っているだけの、偽物ではないのか――そのような不安がないわけではなかったから、きちんと呪いが解けたことは、即ちカトリーナの思いが愛であったことの証明でもあった。
(わたくしは、きちんと愛せていたのね)
それがわかっただけでも嬉しかった。
十数年に及ぶ長い長い愛の幕引きに、彼の命を救えるなど考えうる最高のものだった。
だから、何の後悔もない。
今、メイソンに対して思うのは純粋な好奇心だ。カトリーナは目の前にいるメイソンを不躾だと思いながらもまじまじと見つめた。愛を失えばどうなるのか、興味があった。
(何も変わらないように思えるわね)
もっと喪失感のようなものを感じるのかと思っていたので拍子抜けだった。それどころか、冷静に向き合うことができている。
「其方の言う通りだったな。呆れているのだろう」
メイソンは不貞腐れて言った。
カトリーナはメイソンがエイダと親しくすることに忠言を繰り返していた。市井に赴いていると知ったときは特に、メイソンだけではなくエイダにも、何かあってからでは遅いのだからと苛烈といえるほど厳しく告げた。だが、彼らはカトリーナの言葉を無視した。
「いいえ……身をもって経験しなければ理解できないこともございますもの。もっと最悪の事態になっていたかもしれませんので、今回の件で考えを改めてくださったのなら、わたくしは何も思いませんわ」
メイソンは目を丸くしてカトリーナを見た。
カトリーナも自分の発言に驚いた。これまでなら辛辣な言葉で反省を促し、どれだけ心配したかと切々と訴えていた。愛する者が危険な状況に自ら飛び込み死の淵を彷徨ったのだ。冷静でなどいられなかった。
だが、今のカトリーナはとても落ち着いていた。
メイソンの回復を祝う気持ちと、これから無謀なことをしないだろうという事実に、よかったと思うがそれ以上は何も。愛されない寂しさや、不満を蓄積し、苦しみに似た感情が混ざってしまっていたこれまでとは明らかに違う。ただ柔らかな気持ちだけ……それはカトリーナが理想としていた「愛」という形に近かった。失ってしまったのにそのようになるなど奇妙にも感じられたが、カトリーナは本来、優しい娘なのだ。世界の平和と平穏を願っている。それが身近な人間になるほど自身の欲も混ざるために過激になってしまう。だが、もうメイソンはカトリーナの内側にはいない。距離ができた分、優しくできた。特別ではない、誰にでも向けられるそういう優しさである。
「それではわたくしはこれで。……長い間、殿下の婚約者として過ごしてこられて光栄でしたわ。これからは一臣下として王家に忠誠を捧げてまいります」
ソファから立ち上がり挨拶をする。
いつもよりも深く頭を下げたのは、臣下として弁えていることを示すためだ。
メイソンから声掛けはなかった。それはいつものことなので、カトリーナは気にせずに部屋を出た。
メイソンはぼんやりとしていた。
事件からすでに半年が経過したが、まだ本調子ではない。命を落としかけたのだから当然といえば当然だが……。
「まぁ、素敵。その髪飾り、カトリーナ様にとてもお似合いですわ」
「ふふ、ありがとう。あなたのリボンもとても素敵よ」
聞きなれた声がして視線を向ける。教室の中央にはカトリーナがいる。彼女は友人に笑顔で接している。
二人の婚約が白紙になったことは早々に周知された。
様々な憶測が飛んだが、メイソンとエイダが親しくしているのは噂になっていた。浮気と見る者も多くいてそれが原因だろうという見方をされた。原因のエイダが伯爵から養子縁組を撤回されて学院を退学になったことも信憑性を持たせる結果になった。
婚約者に不誠実な態度をとれば王家といえど婚約がなくなる。政治的に結ばれた縁だからといって無視されない。それは婚約者との不仲に悩む者たちに多少なりとも希望を与えた。
婚約者のいなくなったメイソンは、次の相手を探す必要があった。
候補は選出が済んでいる。その中からメイソンがうまくやっていけるだろう令嬢を自ら選べと言われている。王命で結んだカトリーナとの縁をメイソンの愚かさで失ったことは国王を失望させたが、それでも可愛い息子を見捨てることはできず、今度こそ失敗が許されないなら、自分で選ばせることにしたのだ。
候補者たちの中には、メイソンのカトリーナへの態度を見ていたので尻込みする者もいれば、自分ならあのような無様な扱いはされないだろうと積極的に近寄ってくる者もいる。
メイソンは令嬢たちと一人ずつ会って、国王の言うとおりにうまくやっていけそうな相手を探しているが、今のところ見つけられずにいた。
新しい婚約者を探しているのはカトリーナも同じである。
彼女の方はほぼ相手が確定している。侯爵家の嫡男・エヴァンだ。
四歳年上の彼は、長らく婚約者を持たなかった。当人が結婚の意思はないと常々宣言している。貴族として子をもうけ次代に繋げるというのは大事な役割だが、それを放棄する態度は否定的な眼差しを受けてきた。しかし、他は文句のつけようがないために、後継ぎから外されることはなかった。最悪、彼が独身を貫くなら一族からできのいい養子を迎えさせるか……そのようなところまで話が及んでいた。だが、何がどうなったのか、彼は突如として愛に目覚めた。その相手がカトリーナである。
エヴァンはカトリーナを熱烈に口説いている真っただ中。連日のプレゼント攻撃に始まり、忙しい身でありながら時間を作っては彼女の送り迎えまでしている。
本日彼女がつけている髪飾りもエヴァンからの贈り物だ。当たり前のように、彼の瞳の色であるエメラルドの宝石が施されている。それを使っているのだから、カトリーナの方もまんざらではないというのがわかるだろう。
とはいえ、カトリーナは最初この状況に大変な混乱があったようだ。
愛するばかりで、愛されたことがなかったのに、突然これほど強烈に好意を示されて躊躇わないわけがない。だが、カトリーナは好意を足蹴にされる辛さをよく知るだけにエヴァンのことを無下にはできなかった。
自分がされて嫌だったことはできない……そのような始まりであったが、しかし、時間がたつうちに少しずつエヴァンの真っすぐな熱に感じたことのない胸の高鳴りを覚えていった。
カトリーナがエヴァンを決定的に意識したきっかけは、食事だった。
エヴァンは優秀な男だが、自分のことはおざなりだ。会食などであれば別だが、そうでない日は栄養が取れればよいと適当に済ませる。そのことを知ったカトリーナは怒った。そう、彼女はとても怒った。そんな不摂生では長生きできないと。
言ってから、カトリーナははっとなった。
自身の苛烈さを彼女はよく知っていたし、それがメイソンから一番疎ましがられていたことも知っていた。それでも、好きな相手にどうしても感情過多になってしまう。あの激情を、エヴァンに向けてしまった。それは彼が彼女の内側にいるということの証明であり、同時に、また繰り返していることに愕然としたが。
「私のことを心配してくれるなんて、少しは自惚れてもいいのかな」
エヴァンは嬉しそうに――否、嬉しくてたまらないというのを前面に押し出して言った。
カトリーナは何を言われているのか瞬時には理解できなかった。
心配……たしかに彼を心配しての発言だが、それは純粋に彼のためのものではなくて、彼が早死にしてしまうのは嫌だという自分の欲である。自分の欲のための怒りを見透かされ、そんな怒りをぶつけられても鬱陶しいとメイソンから拒否され続けてきたことを、何の成長もなく今度はエヴァンに向けてしまった。否定されるべき自分勝手な怒りのはず。なのに、エヴァンはそれをまるごと受け入れて喜ぶ、とそう言ったのだ。
意味がまるでわからない。
動揺するカトリーナに、
「あなたが私に向けるあらゆる感情は、たとえそれが悪いものであっても私にとっての喜びです。まして、今のは私を思いやってのことでしょう。あなたの怒りは私への愛であるのだから喜ばないはずがない」
エヴァンは続けてそう言った。
心配だから、あなたのためを思って――そんなこと頼んでいない。いらないもの、不要なもの、迷惑であるとカトリーナはずっと拒絶されてきた。
メイソンにとって実際その通りだったのだろう。
だが、エヴァンは違うらしい。
彼はカトリーナの言葉を真摯に受け入れ、彼女の言葉通りに適宜に改善し、不安を取り払うよう努めてくれる。彼のその努力は、やがてカトリーナの神経質なまでの心配も減らし、怒りや苛烈さではなく穏やかな言動で示せるようになった。
同じ行動をしても同じ結果にならない。相手が変わるそれだけで、報われることもある。
カトリーナはエヴァンに巡り合えたことを感謝した。
メイソンは、カトリーナから視線を戻して教室を出た。
向かった先は中庭を抜けた先にあるガゼボである。
この場所はメイソンの気に入りで、その意を汲んでか他の生徒は近づかなくなった。エイダがいた頃は、二人でここに座って話をした。無論、二人きりではなく傍に護衛騎士がついていたが、カトリーナはそれでも怒った。いくら護衛騎士が傍にいるとはいえ、実際に話しているのは二人なのだから、妙な誤解を周囲に与えるようなことはおやめください、と。
理屈の上で二人きりではなくとも、これは二人きりです――そういわれてメイソンは苛立った。まるで自分たちが狡い言い訳をしているような言い方に腹が立った。エイダとはそのような関係ではなかったから余計に、妙な勘繰りをして悪者にされることに我慢ならなかった。
「どうしたんだ、メイソン」
顔を上げると兄のフレディが立っていた。
フレディは卒業後も魔力の研究をしていて、当時の教師を今も師と仰ぎ、時間があるときに相談をしに来る。今日はその日だったらしい。それは彼なりの息抜き、王族としての自分を忘れられる貴重な時間なのだろう。
「……考えるのです」
「何を?」
「彼女のことを」
「ああ……よくここで話していたそうだからな。だが、お前が心配することはないさ。彼女はもともと貴族であることを嫌がっていたのだろう? 市井に戻れてよかったと喜んでいるんじゃないか」
名前は出さなかったせいか、フレディは「彼女」をエイダのことだと勘違いしたらしい。
たしかに、この場所で「彼女」といえばエイダを思い浮かべるのは仕方ない。同時にそれほど自分たちがここで一緒にいることを周囲は認識していた証でもある。
「私は、彼女とあんな風に親しくなるべきではなかった」
自分たちは誓って疚しい関係ではないというメイソンの思いと、それを周囲が認めてくれるかは全く別の問題だ。そして、大事なのは自分たちがどう思うかなどではなく、どう見られるか。王家に生まれて、付け込まれないように隙を作るなと教え込まれてきたのに、何故それをまったく忘れて振る舞っていたのだろう。
窮屈だった。嫌だった。自分の思いで生きられないことが。――気づけばその考えだけに囚われて好き勝手振る舞うことで、何かを成したような気がしていた。
「しかし、お前はあのように行動しなければ納得できなかったのだろう?」
フレディはメイソンの言動を肯定するつもりはない。やはり王族として迂闊な振る舞いだった。だが、人にはそれぞれ気性というものがある。誰かに言われて納得できる聞き分けのよい人間ばかりではない。一度、過ちを犯して失敗しなければ成長できない者もいる。メイソンがそうである。彼は忠言を足枷としか考えずに真剣に聞かなかった。痛い目を見てようやく、己を省みるようになった。だから、一連の出来事は彼にとっては必要なものだったのだろう。多くの者を巻き込み、彼自身の名誉も大きく損なったが。
「……だから、後悔はするな。カトリーナ嬢のためにも」
続けてフレディはそれまでと違う強い語調で言った。
メイソンは漂わせていた視線をフレディに合わせた。言葉とは裏腹に彼の目は静かだった。その目は見覚えがあった。回復の見舞いにきてくれた日のものと同じ。
(ああ)
ようやくメイソンは理解した。フレディは先程の「彼女」という発言をエイダのことだと勘違いしたのではなく、故意にそう見せただけであること。あのときのフレディの言葉を、メイソンがそうしたようにやってみせた。
彼は兄として慈悲をメイソンに与えてくれていた。
あのとき――「高い勉強代」が何を指すのか、依然として理解することもなく、メイソンはまったく別の解釈をしてしまった。もし、正しい解釈をして、フレディの言わんとすることに気づけていたら、或いはまだ――だが、もうすべては終わったことだ。故にフレディは再びこうして忠告しにきたのだろう。メイソンの意識が現在誰に向かっているか、敏いフレディが気づかないはずがない。
メイソンは羞恥した。
(私は……)
今ならばよくわかる。
思うとおりにならない中で、思うとおりにしようとしていたもの。
それはカトリーナの愛である。
彼女から向けられる感情は純粋な愛情ばかりではなかった。彼女自身の願望や欲も混ざっていた。時にそれは苛烈でもあった。だが、間違いなく、すべては愛に起因して生じたものだ。メイソンはそれを好き勝手に取捨選択した。これはいらないと拒絶し、こっちはまぁ受け入れてやってもいいと選んだ。それがどれほど傲慢なことかを考えることはなかった。
だが、彼女の愛は喪失し、親切だけを与えられるようになり、はじめて、あのすべてが愛であったのだとわかった。
ただ、彼女はメイソンを愛していた。
その愛が、メイソンの望む愛ではなくても、愛であった。
命を蝕む呪いを解くほどの。
わからなければよかった。
だが、わからなければならなかった。
わかってしまって――
メイソンは震えるほど拳を握りしめた。
厚顔であれ、傲慢であれ、無神経であれ。
拒絶して、いい加減に扱い、顧みなかったこれまでのように。
そのようであっても愛したというのならば、自分もまた最後まで、彼女が愛したメイソンのまま。
「ええ、そうですね。後悔はしません。あれは、私には愛などではなかったのですから」
読んでくださりありがとうございました。
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