挿話 たてしなぶんがくちゃん さん
春分の日。
休日であったため、いつもより少し遅く起きた。
蓼科文学は、縁側に出て庭を眺めていた。
「もうすぐ、だよなぁ」
昨年の二月十四日。
石神が院長室に来た。
緊急の用件ということで、文学は秘書に通すように伝えた。
「院長、冗談じゃないですよ!」
珍しく、石神が怒りを露わにしている。
この男は喧嘩が大好きだが、その最中は大抵無表情か、笑っている。
「笑顔のまま人を殴れる、というのが喧嘩慣れしてるかどうかですね」
以前にそんな言葉を聞いた。
部屋に入ってきた石神は、両手に大きな紙袋を提げている。
「これを見てください、院長!」
いや、最初から見ているが?
「主にナースたちからですけど、他にも患者さんやら他の病院の人からも、この何倍も貰ったんです!」
「落ち着けよ、石神。何のことか分からん!」
文学は石神をなだめ、ソファに座るように言った。
そして秘書に紅茶を用意するよう伝えた。
「チョコレートですよ。今日はバレンタインじゃないですか」
「ああ」
そうだった。
俺のところにも幾つか届いている。
そういえばみんな
「義理ですからね」
「絶対誤解しないでください」
とか書いてあった。当たり前だろう、そんなことは。
「こんなもの、本当に冗談じゃないですよ。俺は院内の女性と付き合う気はないですし、大体食べ切れませんよ」
「そんなこと気にするなよ。みんな義理チョコって奴じゃないか。お前のことを嫌いじゃない、ってことなんだから、有難
く受け取っておけばいいんだよ」
文学は、先達として石神を導いてやった。
「え?」
「ん?」
石神は文学を見て怪訝な顔をした。
「いえ、院長。義理チョコだったらいいですよ。でもほら、みんな付き合って欲しいとかって書いてあるんですから」
石神は文学に幾つかのチョコレートを出して示した。
赴任初日からお慕いしています。
石神先生のことを考えると、夜も眠れません。
心の片隅でもいいですから、私のことを思ってください。
お付き合いしてください。父は○○県で病院を経営してます。
告白します。ずっと好きでした。
「………………」
袋を見ると、チョコレートばかりでもなかった。
高級店の包み、ネクタイだろうか。
あ、三越の商品券もある。何を考えているのだろう?
「さっき経理に預けてきましたけど、帯封百万円、なんてものもありましたよ。あれは返却しますけどね」
「なんだ、それ」
「抱いて、って書いてありました」
「それで院長」
「なんだ」
「来年からは、バレンタインデーでのチョコレート他、いかなる物品、金品のプレゼントを禁止してください!」
「え、お前それは」
「そうでなければ、俺は病院を辞めます!」
「ちょっと落ち着け!」
文学はその後もしばらく石神と話し合った。
最終的に、石神の要求を呑み、早速、院則に追加し、公示した。
その日、家に帰ると妻から綺麗な包みを渡された。
今更、それが何かと問うこともない。
「デパートに行って買ってきました」
妻がそう言う。
嬉しかった。
「そうか、ありがとう。病院でもこんなにもらったよ」
妻に見せると、嬉しそうに笑ってくれた。
「あらあら、おモテになるんですねぇ」
ちょっと恥ずかしかった。
石神、俺はチョコレートが大好物なんだけど。




