一粒の砂に世界を感ず:ウィリアム・ブレイク
家まで送る、という静江夫人の好意を辞し、俺はアメリカ大使館の外へ出た。
深夜1時を過ぎても、人通りがある。
共同通信のビルも近く、活動している人もいるのだ。
滅多に来られない日本へ来ても、静江夫人は娘の響子に会えずにいた。
スケジュールも確かに厳しいが、主にセキュリティの関係だ。
響子は日本へ来ていない。
表向きはそうなっている。
高度な外交的折衝で、響子は通常の入国管理を経ていないのだ。
実は、「響子」という名前も存在していない。
英語表記の「Kyoko」はある。しかし漢字表記での「響子」は、ロックハート一族の中でも、一握りの人間しか知らな
い。
さらに言えば、本国でも、「Kyoko」が一族の後継者であることは、公開されていない。
家族関係は極秘事項として、一部の人間しか知らない。
恐らく日本で「ロックハート響子」という名前を使うことは、静江夫人の異能によることだったのだろう。
本当に本物の、その名前を使うことに、何かの必要性があったのだ。
ロックハートという名前自体は珍しいものではない。だから響子は、虚構の家族構成をマスキングされている。
誰も、響子がロックハート一族の後継者であることは調べられない。
ちなみに一江がある程度ロックハート一族について調べられたのは、最初から響子が後継者であることを知っていたからだ
。それでも一江が有能であることは否めないが。
しかし、静江夫人のようなロックハート一族の人間が接すれば話は別だ。
その事実は、響子が何らかの繋がりがある人間と認識される可能性が高くなる。
だから静江夫人は会えなかった。
以前に大使館内のセキュリティ・ルームで面会したのは、異例のことだったのだ。
あそこまで警備に神経を使っても、危険であったのだ。
もちろん、奇跡的に回復した響子に会いたかったためだ。
もう一つは俺の囲い込みだったが。
去り際に、俺はUSBメモリーを一つ差し上げた。
静江夫人の手に渡るのは検査の後だろうが。
その中には、俺や病院のスタッフたちが撮った、響子の写真がある。
ありったけを集めた。
素人が日常で撮ったものだから、くだらないものが多い。
響子が笑い、怒り、泣いて。寝顔もあるし、遠目から群集の中の小さなものもある。手だけとかのものもある。
それでも、すべてを夫人に渡した。
俺は病院へ向かって歩き出した。
響子の部屋を覗いて帰るつもりだ。
俺が寝顔を見たかったのもある。
しかし、残っているはずもないが、静江夫人の香りを僅かでも届けてやりたかった。
分子の一つでも良い。
それを見つける奴はいない。
でも、響子の何かは、その一粒の分子を感じるかもしれない。
夢想だ。
別に何が起きなくたって構わない。
病室で、響子は眠っていた。
枕元には、六花があげた、小さなぬいぐるみがあった。
ライオンだ。
俺はちょっと危険を感じて、枕から離した。
俺が帰ろうとすると、響子が目を覚ました。
「タカトラ?」
「ああ、悪いな、起こしてしまったか」
「どうしたの? お仕事?」
「そんなところだ」
「タカトラの匂いがした」
「そうか」
「いい匂い」
「そうか」
響子は寝たままで両手を伸ばす。
俺は近づき、抱きしめられてやる。
「いい匂い」
「もう寝ろよ。俺も眠いから帰るな」
「うん。また明日」
「明日な」
響子は俺から手を放し、すぐに眠った。
気のせいか、先ほどよりも、寝顔がほんの少し優しい。
今、俺ができることはそのくらいだ。




