静江夫人 Ⅱ
「カンブリア(Cambrian)」というのは、恐らくは「カンブリア大爆発(Cambrian explosion)」にちなんだものなのだろ
う。
カンブリア紀、およそ5億数千年前の時代に、生物が一斉に種を増やしたことが分かっている。
それ以前の化石に比較し、爆発的に種が増えている。今の動物の門が出揃ったとも言われる。
それは、地球上を海洋が覆ったためだとも考えられているが、まだ詳しいことは分かっていない。
ロックハート一族は、一子しか産めない家系の中で、突如複数の子孫を産む特異な人間を、それになぞらえたのだ。
しかし、《ゲッセマネ(Gethsemane)》とは何か。
ゲッセマネは、キリストが最後の晩餐を開いた土地である。そしてそこでキリストは、弟子のユダによって裏切られ、処刑
されることになる。
「《ゲッセマネ》は、ロックハート一族にとって、最大の秘密であり、至高の存在なのです」
「どういうことでしょうか」
「それは、一族の運命の解放を意味しています」
とんでもない秘密だ。
ロックハートの呪いとも言える子孫の問題ももちろん重要機密なのだろうが、それ以上にこの話は危険なほどだ。
「私にそれを話すということは、静江夫人にまた「降ってきた」ということでしょうか」
夫人はうなずく。
「はい、その通りです。私は響子が幾人もの子を産み、そしてその子らの一人が、ロックハートの呪いを祓う未来を見まし
た」
「その未来に、もちろん石神先生は深く関わっておられます」
「私も、それを知っておく必要があったんですか」
「そうです。あなたに話しておかなければならない、ということも私は理解しました」
冷めてきた紅茶が、静江夫人の指示で新しく煎れ直された。
その間、我々の会話は中断した。
「響子はいかがでしょうか」
母親らしいことを、初めて口にした。
本当は、真っ先に聞きたかったことだと、俺は感じた。
「徐々に体力を取り戻しています。最近は和食にも興味を持ち始めたようです」
俺は昨年のうちの子どもたちとの、すきやき鍋の話をした。
静江夫人は笑い声を必死に抑えて、身をよじった。
「ああ、響子は本当に幸せですね。お蔭様で安心いたしました」
「納豆はまだダメでしたね」
夫人はまたおかしそうに笑う。
「そうですか。でも、石神先生がお好きなものなら、きっと響子も好きになりますよ」
「どうでしょうか」
紅茶が整い、再び俺たちは二人になる。
「響子の身体は回復します。しかし、普通の生活ではない、と申し上げておきます」
「はい」
俺にも分かっていた。
「響子は一族の後継者です。ですからアメリカで暮らす必要があります」
「……」
「しかし、そうはならないことが分かりました」
「!」
「響子は生涯、日本で暮らすことになります」
俺は驚いていた。
「どうして……」
思わず尋ねた俺に、静江夫人はきっぱりと言った。
「申し訳ありません。これ以上のことは、お話しできないのです。しかし、ここまでのお話は、石神先生も知っていただく
必要がございました。半端な内容で申し訳ありませんが」
「旱に当りて雨を乞ふ時は、かならず零らしめ給ふ」
静江夫人が歌うように詠み上げた。
「『出雲国風土記』ですね」
「よくご存知でいらっしゃいますこと」
「「石神」ですからね」
「はい、あなたはロックハート家にとって、まさしく石神であられました。今後とも、ロックハートは響子と石神先生のた
めには全力で動くことだけは、お伝えしておきたく思います」
「ありがとうございます」
「今日は一日お時間を潰させてしまい、大変申し訳ありません」
静江夫人は席を立って、丁寧に腰を曲げた。
時間は既に0時を回っていた。
「それでは、お宅までお送り差し上げますので」
「あの」
「はい、なんでしょうか」
「もうお時間はありませんか。可能であれば、もう少し響子の話をしたいのですが」
「!」
「ほんの少しでも構いません」
静江夫人は少しの間考えていたが、微笑んで俺に言った。
「響子は本当に素晴らしい男性とめぐり合いました。石神先生さえ宜しければ、あと30分ほどお話しさせていただきたく
思います」
分刻みでスケジュールの厳しい静江夫人との会話は、53分後に終わった。
夫人は何度もSPを追い返し、本当に限界まで付き合ってくれた。




