ゲッセマネ
俺はその日、一日時間を空けておくように言われた。
大使館から迎えが来て、また知らない部屋に通された後も、更に待たされた。
静江夫人が部屋に入ってきたのは、三時間後だった。
「大変お待たせして、申し訳ありません」
静江夫人は、俺に深々と頭を下げる。
「構いません。響子に関わることでしたら、私は何でもするつもりですから」
「そう言っていただけて、嬉しい限りです」
静江夫人は俺に座るよう促した。
すぐに紅茶が運ばれ、俺は乾ききっていた喉を潤した。
「今回は、石神先生に重要なことをお伝えするために参りました」
「はい」
「その前に、私自身のことを少しばかり説明させてください」
「……」
「私は旧姓を「百家」と申します」
「!」
百家は俺も知っている。
有名な家系であり、今も大社として知られる大きな神社の神主を務める家系でもある。
「百家は、異能の血筋なのです。もちろんすべての子孫ではありませんが、時折特殊な力が備わっている人間が出ます。私も、そうした異能の人間なのです」
静江夫人の話では、彼女の異能は《予言者》だった。夫人の言葉では「先読み」と言っていたが。
異能は百家にとって、神の降臨に等しいそうだ。だから静江夫人は日本人としての教育と共に、神としての扱いをされた。
ちなみに、静江夫人の能力は、常時発動するものではなかった。
しかし、ある時に突然降って来る。それも婦人の表現だ。
それは映像の場合もあれば、何らかのイメージや言葉、また「理解」であったという。
静江夫人が渡米したのも、その力の導きだった。
とにかくアメリカへ行くことが必要だというイメージのまま渡米し、そこでアルジャーノンと出会う。
出会いはまったくの偶然で、アルジャーノン氏がある店から出たときに静江夫人とすれちがっただけだ。
しかし、そこでアルジャーノン氏は一目惚れをする。
まるで安い恋愛映画だ。しかし、現実にそれが起こったのだ。
二人はまだアルジャーノン氏が十八歳で、静江夫人が十六歳だった。
ロックハートの一族の特性として、恐らく一族の存続に必要な人間に反応するようになっている。
これは俺が響子に感じていることでもある。
「その場で夫がプロポーズをし、その瞬間、私にまた降ってきたのです」
「響子のことですか」
「はい。私がロックハートの後継者としての響子を産む、という未来でした。そしてその時に私が得たのは、響子の名前です。その名前が非常に重要だ、と確信しました」
「日本名、ということですね」
「石神先生は、不思議な方です。私がご説明せずとも、筋を正確に辿っていらっしゃる」
静江夫人は俺を褒めた。
アルジャーノン氏には、結婚後にすぐに打ち明けたそうだ。
自分の家系のこと、異能のこと。そして自分が女児を産み、その子に絶対に「響子」という名前を付けなければならないこと。
夫のアルジャーノン氏は、その言葉のすべてを受け入れ、響子という名前は美しいと言ったそうだ。
静江夫人は、その後日本の一切から離れた。
「響子」という名前を授けるにあたって、自分の身を切ったのだ。
俺は子どもたちに、神仏に願うな、と言った。
しかし人間が神仏に願うこともある。
その時、人間は自分の身を切らなければならない。
よく知られているのが、「お百度参り」だ。
裸足で神社の入り口から本殿まで、百回祈りを捧げる。
要は自分の身を切る、大事なものを捧げることで、神仏の加護を願うのだ。
静江夫人は、自分が最も愛する日本を捧げた。
神仏の許しが出るまで、夫人はそうやって過ごした。
もちろん、夫であるアルジャーノン氏にもそのことは話していたのだろう。
「余談ですが、過日石神先生が下さった「龍村」の織物。あれをみて、私は再び日本に触れても良いのだという神託を得た思いでした。石神先生には、どれほどの感謝も足りません」
「いえ」
それこそ偶然だ。
いや、俺には何となく予感めいたものがあったのかもしれない。
俺は静江夫人に、あの伝統織物を差し上げたかった。
「響子が助からないことが分かったときの私たちの嘆きは、次の瞬間に降ってきたあなたの存在で、一気に逆転いたしました。夫と二人で抱き合って泣いて一晩を過ごしました」
「響子が助かることは分かっていました。私たちはすぐに日本へ向かう段取りに入りました。状況的には非常に困難ではありましたが、響子が救われたことに比べれば、何ほどのこともございませんでした」
昨年、急遽ロックハートの当主夫妻が来日するというのは、俺たちもずい分と驚いた。
それは、事前に段取りを組むことができたからなのだろう。
「私たちは、昨年、あなたにお会いできました。既に、石神先生が響子の運命の人であることを、私たちは知っていました。ですから、石神先生を喜んで一族へ迎え、大切にしなければと考えていました」
「はい。私を囲い込むということは、ロックハート一族のことを部下が調べてから、覚悟していました」
「ウフフ」
静江夫人は微笑んだ。
「でも、あなたは我々の予想を遙かに超えていた。今から思えば、私たちが得ていたあなたのプロフィールを知れば、想像も出来ていたでしょうに」
「私はお上品な生き方をしていませんからね」
しばし、和やかな空気が流れる。
「私たちがあなたにお会いできた後、私にまた降ってきました」
「一体なにが?」
「響子は《カンブリア》でありつつ、《ゲッセマネ》だったのです」




