挿話 たてしなぶんがくちゃん
文学はいつも通り、愛車ダイムラー・ジャガーの後部シートに座り、病院へ出勤していた。
12月中旬の東京は寒さが強くなっている。
しかし、文学は家から病院までは車で移動し、そのまま駐車場からすぐに建物の中へ入る。
だからコートの必要を感じたことはないのだが、後部座席には、ブリオーニのダスターコートがきれいに折り畳まれ置かれている。
石神が、急な気温差は身体に悪いから、と俺に勧めてきたのだ。
実際に言われた通りにやってみると、確かにいい。
特にくるぶしまであるダスターコートを羽織って、颯爽と駐車場に向かう自分が好きだ。
「ほんの何十秒かのために、コートを着ているんですって!」
以前に、ある看護師がそう言っているのを偶然に聞いた。
文学はダスターコートを着るのが大好きだ。
(このバッグも石神に勧められて買ったものだな)
コートの脇には、エルメスのケリー・デペッシュが置いてある。
別に持ち歩くものなどほとんどないのだから、これまで文学は鞄というものを使わなかった。
しかし、文学が家にあった紙の手提げに書類を入れて歩いているのを石神が見て言った。
「ああ、なんですかそりゃ。スラム育ちのゴリラですか。あのね、院長、あなたはこの病院の顔なんですから。お顔はちょっとアニマル系ですけど。もっと持ち物や服に気を遣ってもらわなきゃ、困りますよ!」
そう説教された。
「スマン」
文学にそんなことが言ってくるのは、病院の中でも石神だけだった。
その日の午後、石神に連れられて、銀座のエルメス本店へ行った。
エルメスなど、名前は聞いていたが、もちろん一つも持っていない。
若い頃に女房が
「ああ、いつかエルメスが買えるようになってくださいね」
と言っていたことをふと思い出した。
当時は何のことかよく分からなかったが、もう買ってやれる人間になっているのではないか。
女房には、前にプラドだかなんだかのバッグを買ってやったことがある。
「あたしにはもったいないですよぉ」
しきりに遠慮する女房に、文学は無理矢理買って与えた。
あれな何の記念だったか。
化繊のバッグのくせに、ずい分と高かった記憶がある。
石神に連れられて来たエルメスは、入り口に警備員が立っている。
まったく、アメリカの真似か。
店内に入ると、すぐに男性店員が近づいてくる。
「これは石神様。今日はどのようなものが必要ですか?」
石神を知っているらしい。
「サック・ア・デペッシュかケリー・デペッシュのポロサスのものはありますか?」
「かしこまりました、それではご案内いたします」
丁寧な誘導でエレベーターに乗り、二人は別なフロアに移動する。
するとガラスケースの前に案内され、ワニ革の鞄を見せられた。
「こちらでございます。あいにく、サック・ア・デペッシュのポロサスはご用意できませんでした」
石神は鞄を手に取って、あちこちを確認している。
「腑も揃っているし、縫製も問題ありません」
何をどう見ていたのかはわからないが、ちゃんとした品らしい。
「そのようなことをおっしゃるのは、石神様だけですね」
店員が笑っている。
すると、文学に向き直って、店員が説明してくれた。
「以前に石神様は高名なバイヤーの方とよくいらっしゃって、当方の商品を詳細にご覧になられていたのです。エルメスは万が一にも間違いはないと自負しておりましたが、よくご指摘をいただき、よく勉強させていただきました」
笑って話す店員だったが、文学には興味のない話だった。
「ああ、デュプイに勤める友人がいて、よく一緒に来たんです」
「そうか」
デュプイってなんだよ。
「院長は、このくらい持っていてもいいんですよ」
石神は俺にワニ革のバッグを手渡した。探したが、値札は付いていない。
目の前に大きな鏡がある。
バッグを提げた自分を見てみたが、何がどういいのか悪いのか、文学にはわからない。
「ね、いいでしょう?」
石神が言うので、
「そうだな」
と答えた。
「じゃあ、これを包んでください」
「かしこまりました。ご自身のご使用でよろしいですね」
「はい」
石神という男は、どこの店でも丁寧な態度でいる。
客だからと威張っている場面は、文学は一度も見たことがない。
居酒屋でも店員に丁寧に注文する。それにどこでもよくジョークを飛ばして店員を笑わせる男だった。
店を出る時には必ず「ごちそうさまでした」と言い、美味ければそれを伝え、まずければ感想は言わないか、何か指摘して出る。
文学は、石神のそういう態度が好きだ。
やけに時間がかかる。
文学はせっかちだった。
「お待たせしました。お会計はこちらになります」
ようやく終わったようだ。
文学は財布を取り出した。何かあっても対応できるように、常に50万円は入れている。
「…………」
文学は石神を見たが、ショーケースを周っていたあいつは、こちらを見て笑顔で手を振ってきた。
カードを取り出し、会計を済ませた。
店を出て、店員が見えなくなった帰りの車の中で、文学は石神の胸倉を掴んだ。
運転手が一瞬身体を硬直させるのが分かった。
「おい、石神! お前、なんだよあの金額は!」
「アハハハ、ちょっときつかったですか?」
石神は笑っていた。
「いらないなら、俺が買い取りますよ」
「ふざけんな」
文学は、女房に何と言おうかを考えていた。
とんでもない金額だった。鞄一つに一千万円以上を出す人間が世の中にいるのだ。
文学はその夜、石神に騙されてとんでもなく高い買い物をしたことを妻に話した。
「何も確認しないままだった俺が悪いのだ」
しかし、意外なことに何も言われなかった。
まあ、これまで文学がやることに意見してきたことも無いのだが、流石に、とは思っていた。
「お好きなようになさってください」
そう言われた。
「ステキな鞄ですね」
「ねぇ、院長の鞄、エルメスだよねぇ!」
「スゴイわぁ。あんなの使ってる人、見たことないよぉ!」
ある時、ナースたちの会話を偶然耳にした。
文学は、石神を誘って「ざくろ」で好きなだけ飲み食いさせてやった。
文学が石神に連れられてエルメスに行った翌週。
文学は妻と一緒に訪れ、バーキンを買ってやった。
「私にこんな高いもの、いいんですか?」
「お前にはこれまでろくなものを買ってやったこともないからなぁ」
「ふふ、石神さんのお蔭ですね」
「あいつは関係ねぇ!」
「ありがとうございます」
深々と頭を下げる妻に、文学は言う。
「久しぶりに、寿司でも食って帰るか!」
「まあ、それは楽しみです」
「ああ、感謝なぞしてないが、石神の言うとおりにすると、ナースたちにも評判がいいんだよ」
「そうなんですか、よろしゅうございましたね」
「うん」
文学は楽しそうに自分が何と言われたのかを話してやった。
「おい、もうすぐ院長が通りかかるから、二人でこう言ってくれ」
「石神先生! 分かりましたぁ!」




