大河
「どうだ、信じられないか?」
院長は長い話を終えた。
俺はこの蓼科文学という人間のことをよく知っている。
真面目という言葉では足りないくらい、常に真剣に人に対し、物事に対し、世界に対して向き合っている。
他の人間が話したのなら、俺は信じなかったかもしれない。
自称心霊医師や呪い師の話なら聞いたこともある。
だが、蓼科文学が言うのなら、それは真実だ。
「もちろん信じますよ」
「そうか」
院長は内線で二人分の紅茶を指示し、カツ丼を二人前注文した。
「お前も食っていけ」
「はい、ご馳走になります」
カツ丼を豪快に掻き込みながら、院長は俺に尋ねた。
「お前はどうして俺の話を信じるんだ?」
「院長ですから」
箸を置いて、院長は頭を掻いた。照れているときの癖だ。
「でも、突拍子もない話だったろう」
「ええ、でも、院長の実績を考えれば、すべて納得できるお話でした」
「そうか」
「私からも伺っていいですか?」
「なんだよ」
「どうして私に?」
2分でカツ丼を平らげた院長は、まだ足りないという顔をしていた。
俺はその10秒後に食い終わった。
俺たちの食事は非常に早い。その気になれば20秒で食い終われる。
常に緊急時に備える、外科医の性癖だ。
3分後、食器を下げに院長の秘書たちが入ってきた。慣れたものである。
お茶を置いて、秘書たちは部屋を出た。
「最初はお前にも同じ力があるんじゃねぇかと踏んでたんだ」
「あるわけないでしょう」
「そうだな」
院長は茶をすすりながら、少し間を置いた。
「俺がそう思ったのは、あのロックハート響子の手術だ」
「……」
「あれは絶対に成功しないはずのものだった、そうだろう」
「……」
「お前が普通の医者であったのなら、あの手術をやったのは、自分の手でロックハート響子を終わらせる、という意味しかねぇ。お前、そうだったんだな」
院長の言う通りだ。俺はそのつもりでいた。
しかし、オペの準備を進めるうちに、俺の中で何かが変わっていった。
何が、ということは俺自身にも分からない。
ただ、「終わる」という考えが徐々に薄れていった、としか言いようがない。
俺は、自分が大きな流れの中に組み込まれたような感覚でいた。
オペの最中、数え切れないほどの危機があった。
想定はしていたが、響子のバイタルは数十回に亘って消え、そのたびに俺たちは死力を尽くした。
その時、俺の脳裏には裸で抱き合った、あの日の響子の温もりが甦った。
俺は自分が考えていたこと、そしてその考えを上書きするような不思議な体験があったことを、そのまま院長に話した。
恐らくは誰にも話さなかったことを、俺に話してくれたことへの礼、いや恩義のためだった。
「そうかよ、なるほどなぁ」
院長は腕を組んで目を閉じて聞いていた。
「お前は、俺とは違う何かがあるんだろうよ。これまでのお前の実績は、俺に劣るとはいえ、大したもんだ。だからロックハート響子のことを除いても、もしやという思いはあったんだよ」
「なぜ院長は誰にも話さなかったのですか?」
「なぜって、誰も信じねぇだろうよ、こんな与太は」
院長は笑って言った。
「それにな、絶対に他人に話しちゃいけねぇ、そんな確信があったんだよ」
「親友にも、世話になった上司にも、惚れ込んだ女にも、兄貴には一度だけ話したか」
「その兄貴は30を俟たずに死んだ。まあ、俺の話を聞いたから、とは思いたくもねぇわな」
院長は、どこか寂しげに笑った。
院長が自分の兄を神のように敬愛しているのを、俺は知っていた。
「じゃあ、どうして自分に」
「絶対にお前には話さなきゃいけない、と確信したからだよ」
院長は鋭い眼光で俺を睨んでいる。
「お前も体験したようだが、俺たちは自分の存在を超えた大きな何かの中にいるんだよ。宇宙は人間が動かしてるんじゃねぇ。当たり前だろう。だったら、人間を超えた流れがあるなんて、当たり前のことだ」
「……」
「俺はその流れに従って話さなかったし、話した。それだけのことだ」
俺たちは茶を飲み終わり、仕事へ戻れと言う院長の言葉に従った。
俺は院長室のドアを閉じ、深々と礼をして廊下を歩き出した。
俺たちは大河の中で流されている。
その院長の言葉が心に残った。
でも、俺の生き方は変わらない。
俺は自分の好き勝手に、やるべきことをやるだけだ。
響子の顔を見に行こう。
俺は響子の部屋へ向かった。
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