四度目の別荘 XXⅣ
「俺たちの大事な塩野社長というのは、そういう人なんだ。俺たちは、そういう優しい人から肉を譲っていただいている。感謝しような!」
「「「「はい!」」」」
「風花はこの話を知っているんでしょうか」
六花が聞いてきた。
「俺は話していない。お前から話してやれよ」
「はい」
「いいお話でした」
柳が言う。
「人間は悲しみを知らなければダメだ。お前はもっと人生に深く突っ込もうとしなければならない」
「はい」
《君看よや双眼の色 語らざれば憂いなきに似たり》
「臨在禅の中興の祖、白隠の言葉だな。人間は他人の心は見えない。まして、その人の抱いている悲しみなどは全く分からない。しかしな、悲しみはあるんだよ。それを知って、他人とは接しなければならん」
「あの、すいません。白隠って?」
「お前はなぁ。知らないにもほどがあるぞ?」
「え、すみません」
「うちの子らは知ってるぞ」
「そうなんですか!」
「あの、前に栞さんの実家に掛け軸があって。タカさんが教えてくれたんです」
亜紀ちゃんがバラした。
「アハハハ!」
「……」
俺は白隠について教えてやった。
「幼い頃に地獄のことを知って、物凄く恐れたんだな。眠れないし喰えない。だから両親が仏門に放り込んだ。まあショック療法的な意味もあったのかもな。そこで修行して、天分があった。白隠はどんどん理解できるので、修行をバカにし出す」
「しかしその増長を正受老人に叩きのめされ、更に高まって行ったんだな。そして腐敗し衰退していた臨済宗を復興させた。現在残っている臨済宗のほとんどは、白隠を中興の祖としている。要は、他の臨済宗派は全部潰れたということだ」
柳は黙って聴いている。
「江戸時代の人なわけだけど、まあみんな貧しい。だからなかなか仏壇なんて供えられない。だから白隠がガンガン書を書いて渡していった。だから白隠の書というのは結構な数があるんだ。しかし、そういう謂れだから、全部線香焼け、線香の煙で茶色に汚れているんだな」
「へぇー」
「栞の家のものは、別にちゃんと書かれたものらしくものすごく綺麗だったけどな。俺は線香で汚れている方が好きだ」
「なるほど」
「『南無阿弥陀仏』とかなぁ。最初にでっかく「なーむー!」って書くんだよ。でもそうすると下の余白が残ってない。だからちっちゃく「だぶつー」って書いてるんだ」
「アハハハハ」
「な、だからいいんだよ! 綺麗にとか上手くとか考えてない。その人のために思い切り全力でぶつけるんだよな」
「なんかいいですね」
「御堂の家にもあったぞ。こないだ正巳さんの部屋で観た。今度聞いて見ろよ」
柳は必ず聞くと言った。
「じゃあ、今日はこれで解散だ。もう少しいたい奴は自由に残っていい。スープもまだあるしな」
みんな部屋に帰り、また亜紀ちゃんと柳が残った。
「じゃあ、俺も早く寝ようかな」
「「ダメです!」」
俺は笑って座った。
「響子とたまには寝る前のイチャイチャをしたかったのに」
「お願いしますよ。石神さんとお話できる機会は少ないんですから」
「分かったよ」
俺は二人にスープを注いだ。
「風花さん、良かったですね」
亜紀ちゃんが言った。
「そうだな。生まれてすぐに孤児院だもんな。苦労して、あんないい人に巡り合うなんてなぁ。本当に良かったよ」
「風花さん、恩を返したいって言ってましたよね」
「ああ。でもな、塩野社長自身もそうだけど、人間というのはしてもらったことは到底返せないんだよ。「これで返した」なんて奴は、所詮は恩義なんて思ってもなかったということだな」
「そうです! そうです!」
亜紀ちゃんが大きな声で言った。
「自分が困った時に、大変な時に助けてくれた。それは一生かけても報えない。終わるはずのことだったわけだからな。困ったときに借りた100万円って、100万円じゃないんだよ。利子をつけたって足りない。だから風花も一生をかけて報いるって言ってるんだ」
「それが本当の生き方ってことですね」
「その通りだ、亜紀ちゃん。人間が自分よりも上のものを持つ、最大の恩恵なんだよな。恩義を持った人間は、必ず美しく生きることが出来る」
「今は借りは作らない、なんて人も多いですよね」
柳が言った。
「そうだな。そいつらは人生を分かってない、ということだ」
「私は石神さんに救われた人間です。あの川で死んでたんですから」
「そんなのは違うよ。俺は全然命をかけてやったわけじゃないからな。たまたまドジでちょっと血を流した程度だ。柳のせいじゃない」
「そういう石神さんだから、私は好きなんです」
「お前が御堂の娘じゃなかったら、全然放置だったからなぁ」
「またお父さんですか!」
俺は笑った。
「ウソですよ。タカさんは柳さんが大好きですから」
亜紀ちゃんが言った。
「まあ、御堂の娘だからな。嫌いなわけじゃない」
「どうかお父さんを絡めるのはやめて!」
「だってしょうがないだろう。御堂がいたから、柳と出会えたんだからな。その恩義がある」
「それって」
「俺はお前にメロメロだよ」
「!」
柳が潤んだ目になる。
「お前は本当にチョロイなぁ」
「酷いですよ!」
俺は笑って冗談だと言った。
「悪かった。本当にお前のことが好きだ。いつの間にか綺麗な女性になって、御堂の子どもじゃなくなっちまったな」
「嬉しい」
「からかいたくなるのは、お前のことが大好きだからだよ。分かってくれ」
「はい!」
「タカさんは好きな子をからかいたくなるんですか?」
「まあ、相手によるよな。柳とか緑子なんかもそうだな。若干栞なんかもな。でも栞は長い付き合いだし、一緒にいることも多いから、信頼関係も強い」
「「なるほど」」
「六花とか鷹なんかは正反対だよな。六花は動物じゃない。だから困らせたり泣かせるとこっちが悲しくなる」
「「分かります!」」
「あいつが笑ってると、本当に嬉しそうでこっちも嬉しくなる。あいつを笑わせ、幸せにすることが無上の喜びになるんだな」
「はい。鷹さんは?」
「鷹は慈しみの女だからな。ありがたい気持ちが先にたって、からかうとかって気が起こらないんだよ」
「なんか完璧な女性って感じですね」
「まあ、完璧かどうかは知らんけど、あいつは相手をまず上に置こうとする。言い換えれば、俺はそうじゃない女性も好きだってことだな」
「DVDが数千枚ですもんね」
柳が攻撃してきた。
「そういうことだ。お尻から出たものを食べたい女もいるってことだな」
「ゲェー!」
俺は笑った。
「私はどうなんですか?」
亜紀ちゃんが聞いてきた。
「あ? ああ、子ども?」
「なんですか、それ!」
「しょうがないだろう。亜紀ちゃんは俺の子なんだし。でもな、時々ドキッとすることもあるよな」
「そうでしょう!」
「まあ、たまにな」
亜紀ちゃんが笑った。
「子どもだと思ってないと危ないってことですよね」
「柳、お前鋭いな!」
亜紀ちゃんがニコニコした。
「石神さんがさっきおっしゃっていた、私はもっと人生に深く突っ込めって、どういうことなんでしょうか」
柳が聞いてきた。
「それは、要は苦労が足りないってことだよ。
「はぁ。やはりそこですか」
「まあ、安心しろよ。お前のことを育ちがいいって言ってるけど、それは悲しみにぶつかった時に必ず良い方向へ行ける、ということだからな」
「そうなんですか」
「だからお前は人生の苦労、悲しみを厭うな。それが「突っ込め」という意味だ」
俺は野口英世の話をした。




