この哀しみの国から捧げる、遠く離れたものへの祈り:シェリー
栞とのドライブから戻り、俺は風呂に入った。
リヴィングへ戻ると、亜紀ちゃんがいた。
梅酒の準備をして、俺にグラスを掲げている。
俺は笑いながら、席についた。
「なんか、久しぶりだなぁ」
「そうですよね」
グラスを当てて乾杯する。
「栞さんとのデートはいかがでした?」
「ああ、沼津まで行ったんだ。楽しかったよ」
俺は栞と鷹の確執を面白おかしく話してやる。
「アハハハ! 面白いですね」
「そうなんだよ。花岡さんなんて、今日は二度も「勝ったぁー」って言うんだからなぁ」
「カワイイですよね」
「そうだよなぁ」
「また鷹さんも呼んで下さいね」
「亜紀ちゃん、悪いこと考えてるだろう?」
「そんなことは。でも、栞さんって怒るとカワイイですよね」
「まったくなぁ」
俺たちはグラスを当てて笑った。
「悪いことって言えば、あのゴキってどうなったんです?」
「あれな。こないだ冷凍庫から出したら、また動きだした」
「えぇー!」
二匹の大型ゴキブリは、皇紀の作業小屋に冷凍庫を入れ、厳重に保管している。
チタンの容器を手に入れ、マイナス20度で凍らせている。
皇紀は作業小屋に置くことに散々抵抗したが、俺の絶対命令で押し通した。
「普通は冷凍保存したら死ぬんだよ。細胞がもたない」
「膨張して破裂しますよね」
亜紀ちゃんは、よく勉強している。
「タカさん、拳銃撃ってましたよね」
俺は驚いたが、見られたからには仕方がない。
「ああ」
「前から持ってたんですか?」
「いや、最近手に入れた」
「やっぱり、あの事件のせいで」
亜紀ちゃんが考えていることとは少し違うが、まあそうしておくか。
「まあな。でも俺は「殺人許可証」を持ってるからな」
「『007』じゃないんですから!」
亜紀ちゃんは映画をよく観ている。
俺は笑った。
「まあ、他の連中には黙っててくれ」
「もちろんです」
「皇紀たちも気づいているのかな」
「いいえ、分かってないと思います。みんなタカさんの指示で逃げようとしてましたから」
「亜紀ちゃんは?」
「何かあったら私が助けようと」
俺は亜紀ちゃんの頭を撫でてやる。
「そうか。でも次からは俺の指示に従ってくれ。亜紀ちゃんに何かあれば、俺は耐えられない」
「私もですよ」
亜紀ちゃんが潤んだ目で俺を見ていた。
「アレはなぁ、拳銃のマグナム弾を跳ね返した。「花岡」の技も効かなかった」
「それって」
「とんでもねぇよなぁ」
「最初の一匹はタカさんが仕留めたんですよね」
「ああ。特別に硬いナイフでやっと通ったからな」
亜紀ちゃんには話しておく。
「でも、ナイフじゃ心許ない。今、もっと強力な武器を手配している。それを試すつもりだ」
「そうですか。気を付けてください」
栞の家の地下室には、デザートイーグルがあった。
それにヘッケラー&コッホのHK416もあった。
取り敢えず、その辺りで実験してみるつもりだ。
「私もお手伝いします」
亜紀ちゃんはそう言った。
俺は考えてみる、と答えた。
俺たちは話題を変えた。
「顕さん、順調なんですよね」
「ああ、そうだな」
「退院したら、うちでお祝いしませんか?」
「おう! それはいいアイデアだな!」
「是非やりましょうよ」
亜紀ちゃんに、顕さんが響子と仲良しになったことを話す。
「じゃあ、響子ちゃんと六花さんも。あ、栞さんもですね」
「そうだな」
「鷹さんも誘いますか!」
「亜紀ちゃんは悪い女だなぁ」
二人で笑った。
「顕さんも、奈津江さんを喪ってから悲しい人生だったんですよね」
「そうだな」
「タカさんも」
「俺は別に。今はお前たちもいるしな」
「でも、ずっと独りだったんですよね」
「まあな」
亜紀ちゃんは薄暗い部屋の隅を見つめていた。
「こんな、広い、誰もいない空間で」
「顕さんがさ、言ってたんだ」
「何をですか?」
「顕さんの家にも誰もいない。それが顕さんの孤独を深めたのは確かだ」
「はい」
「でもな。双子が奈津江を見たって。だから、顕さんはあの家が寂しくはなくなったってさ」
「ああ…」
「しょっちゅう家の中で話しかけているそうだ。自分でも頭がおかしいのかって笑ってた」
「ウフフ」
「奈津江が笑って聴いている気がするってさ」
「良かったですね」
「そういえば、あの小さなお位牌は奈津江さんのものだったんですね」
「亜紀ちゃんには前に聞かれたことがあったな」
「はい」
「あの時は、まだ話せなかった」
「はい」
「二十年かかったよ。こうして奈津江の話ができるまで」
「…はい」
「俺も顕さんと同じで、ずっと奈津江のことを考えていた」
≪床前月光を看る 疑うらくは是れ地上の霜かと 首を挙げて山月を望み 首を低れて故郷を思う≫
「李白の有名な『静夜思』だ。俺たちは何かあれば奈津江を思った。奈津江を思わせてくれるものに感謝しながら、な」
「……」
≪この哀しみの国から捧げる、遠く離れたものへの祈り( The devotion to something afar From the sphere of our sorrow.)≫
「パーシー・シェリーの『遺稿詩集』の一節だ。俺たちにとって、人生は辛いだけのものだった。でも、同時にその辛さを味わうことをさせてくれる、奈津江の存在が一層、愛おしかった」
「愛するって、苦しいんですね」
「そうだよ」
「亜紀ちゃんは苦しいか?」
「いえ、全然。タカさんは楽しいですもん」
「そうか」
「あれ、また子ども扱いされるのかと思ってましたけど」
「苦しくないわけないだろう」
亜紀ちゃんは俺を見つめている。
「はい」
小さな声で呟いた。




