ロックハート響子
院長に呼ばれた。
「石神、入ります!」
ノックして、俺が院長室に入ると、不機嫌そうなゴリラが机に座っていた。
このゴリラと付き合って二十年になるが、ほとんど機嫌の良い顔を見たことがない。
バナナが欲しいのか。
「おおーぅ、やっと来たか」
院長は俺が陰で「ゴリラ」とか「鼻毛マジンガー」とか呼んでいるのを知っている。
後者は永井豪のマンガからだ。
「鼻毛マジンガー」は清楚な花岡さんが、大爆笑してくれた。
「今日はどういうご用件でしょうか?」
「ああ、お前、また小児科の連中に講義してやれ」
ああ、またか。
それにしても、このゴリラはただの一度も、これまで「お願い」だの「頼みごと」だので俺に言ってきたことはねぇ。
「今年は新人が二人も入った。小児科はなり手がほとんどいねぇ。貴重な戦力だ」
小児科医は、訴訟が絶えない。
小さな子どもの体力は、命を奪われることもままある。
そういう時、親は悲しみの大きさから「医療ミス」が、と考えてしまうことも多いのだ。
そういう理由から、小児科医は人気がない。
「ただでさえ少ない人数で回してるんだ。教育の時間も限られてくる。お前はドヒマだろ? ちょっと手伝ってやれよ。同じ病院の仲間なんだからな」
別に暇じゃねぇ。
昨日だって14時間の手術で、寝不足のまま来た。
まあ、仕事仲間なのはその通りだ。
「分かりました。いつもの回診形式でいいですかね?」
「方法はお前に任せる!」
少しばかり雑談のような近況報告をした。
「院長、コーヒーでも煎れましょうか?」
俺は返事も聞かず、隣接した給湯室へ向かった。
そこに設置されたパヴォーニでエスプレッソを作り始める。
院長が以前購入したものだ。
エスプレッソを飲みたいということで、俺が手配させられた。
パヴォーニはエスプレッソ・マシンの最高峰の一つだ。
その小型のものを購入した。
「いいか、これで俺の茶道を始めるのだ! どうだ、まいったか!」
当時の院長は大威張りだった。
でも、なんのことはねぇ。
結局使い方を説明した俺が、その後もちょくちょく呼ばれて作ることになった。
その代わり、俺は自由にこのマシンを使用できるように許可を得た。
消耗品はすべて院長室の予算でまかなう。
二人で小さなカップでエスプレッソを飲みながら、俺は院長のデスクに見慣れないものを見つけた。
「あれ、それってジャコメッティじゃないですか?」
俺は全高20センチほどの、太い針金を曲げたような塑像を示して言った。
「あ、うん、なかなか良いだろう?」
院長は目を逸らせて上ずった声で言う。仕舞い忘れた、と顔に書いてある。
俺のデスクにも、ジャコメッティの作品が置いてある。
もちろん、これとは違うが。
また、真似して買ったのか。
「お前、何を笑ってる!」
大きな声を上げても、俺は全然怖くない。
他の人間なら縮み上がっているのだが。
「いえ、私もジャコメッティが好きなので、拝見できて嬉しいな、と」
院長は俺を睨みつけている。
それ以上言うな、ということだ。
「じゃあ、私はこれから小児科の連中と打ち合わせてきますよ」
「おおーぅ、宜しくな」
院長がホッとため息をつくのを、俺は見逃さなかった。
「石神先生、お忙しいのに、いつも本当にすみません」
小児科長が俺に謝ってくる。
「いえいえ、みなさん少数精鋭でいつもお急がしいですから。私なんかで宜しければいつでもお手伝いしますので、気軽に声をかけてください」
忙しいので本当に声をかけられると迷惑だが、多少は本心でもある。
部長ではなく「科長」が出てきたのは、小児科が一応は内科の分科だからだ。
しかしほぼ独立した科であり、内科部長が関わることはまったく無い。
俺たちは日時を打ち合わせ、握手をして別れた。
当日、俺は回診の前に講習会のようなものを開いた。
小児科長と新人二人、それに手の空いている小児科医が集まっている。
「それで、子どもと大人の患者の大きな違いは分かりますか?」
俺は新人の一人を指して聞く。
「ええと、ええ、そうですね、身体の大きさですかねぇ?」
俺の部の朝礼だったら、中堅処にフルボッコにされる態度だった。
「ああ、身体の大きさは違うな。だから薬剤の量や治療法の細かな違いは確かにある」
俺は全員を見据えて言った。
「でも、最も大きな違いは「心」なんです」
みんなメモをとりはじめた。俺はゆっくりと話し出す。
「大人の患者は入院しても、自分がどうしてここにいて、これからどういう治療が始まるのかが分かっている。もちろん症状への不安はあるけど、環境の違いで怖がることはありません」
メモを取り切る間合いを量って続けた。
「しかし、子どもは違う。そうしたことを理解できないから、ただただ不安の中にいる。親と離れて暮らすこと自体が、もう多大なストレスであり不安材料なんですよ」
「そして、最も重要なことは、子どもの場合、心の不安定さが身体に多大な影響を及ぼす、ということなんです」
おお、という微かな声が聞こえる。
「今日はそれを実際の回診の中で証明しましょう」
病棟のいくつかの部屋を回り、俺は特別な個室に入っている一人の女の子と話した。
ロックハート響子というハーフの女の子だ。薄茶の毛髪に、目が薄い青。
非常にかわいらしい。
「身体の具合はどうかな?」
俺はベッドの端に腰掛けて尋ねた。
「息が苦しいです」
八歳だというその少女は、俺に顔を向けずにそう教えてくれた。
「そうかぁ。でもな、もうちょっとしたらずっと良くなるぞ」
「ほんとにぃ?」
響子は俺を見て言った。
俺は頭を撫でてやる。
非常に柔らかな髪の毛だ。
少しウェーブがかかっている。
「本当だよ。君の名前なら、絶対大丈夫だ」
「名前?」
「ああ、ロックハートなんて、超カッチョイイじゃないか!」
「エェッー!」
響子は驚いていた。
「そんなカッチョイイ名前の美少女が、絶対に病気なんかに負けるわけねぇ! だから絶対に大丈夫だからな!!」
響子が明るくわらった。
「先生もカッチョイイ!」
「そうか、分かるかぁ!」
俺は近くにいた医師に指示し、すぐに検査して数値を確認するように伝えた。
俺は部下の斎藤を呼び出した。
「部長、なんでしょうか?」
「おう、お前、ギターが弾けるよな?」
斎藤はキョトンとしている。
こいつは医師としてまだ経験が浅いが、今回は使える。
学生時代に仲間とバンドを組んで、サイドギターをやっていたらしい。
俺は小児科でのことを話してきかせ、「ゆうこ」という少女のためにコンサートを開くことを伝えた。
「元気付けるためにな。村下孝蔵の『ゆうこ』を歌うんだよ」
「どうことっすか?」
こいつにも子どもの心の影響力の大きさを教えてやった。
小児科から来た、ロックハート響子ちゃんの数値を見せてやる。
「え、全然違うじゃないですか!」
「そうだろう。だからゆうこちゃんも力づけるぞ!」
俺は便利屋に連絡して、俺の家からギターを二本持ってこさせた。
俺用のレスポールとアンプ。斎藤にはマーチンだ。
少ない時間で二人で音を合わせ、大丈夫だろうことを確信した。
有名な曲なので、斎藤も序盤から安定していた。
会場として借りた食堂には、予想以上の人間が集まっていた。
ゆうこちゃんはもちろん、ロックハート響子、また許可の出た希望者の子どもたち。
それに小児科の連中と俺の部下たちの他に、多くのナース。
花岡さんの顔もあった。
「部長、こんなん、大丈夫なんですか?」
「大丈夫だよ、ちゃんと院長の許可はとってる」
「そうっすか、あせったぁ」
お前に任せる、という言質がある。
多少、大事になった気もしないでもないが。
「ええ、今日はゆうこちゃんのために特別コンサートを開きます! まあ一曲だけどな! 曲名は、村下孝蔵『ゆうこ』!!」
拍手があった。
大仏先輩の手前、歌いたくても歌えなかった村下孝蔵だ。
斎藤が慣れた動きででコードを刻み始める。
俺はソロとアドリブで斎藤に合わせた演奏、それに歌だ。
斎藤が予想以上に良かったので、俺はソロで思い切りアドリブをかました。
三連符を連続し、会場が沸く。ナースたちのキャーキャー言う声が聞こえる。
……若干うるさい。
最後に斎藤が美しくまとめ、曲は終わった。
ゆうこちゃんは喜んでくれたようだ。
「ありがとうございました、スゴイ歌でした!」
俺のギターソロがな。
俺は調子に乗って、レッド・ツェッペリンの『天国への階段』の弾き語りをした。
会場はさっきにも増して盛り上がった。
「あぁー! 石神せんせぇー! 結婚してぇー!」
誰だ?
俺は片付けて解散しようと会場を見ると、後ろの方で腕を組んで仁王立ちしているゴリラを見つけた。
手招きするので近づくと、思い切り頭にゲンコツを喰らった。
そのまま無言で帰っていく。
それを見て、後ろで多くの人間が笑っていた。
ゆうこちゃんも響子も、小さなお腹を抱えて笑っていた。
まあ、いいか。
読んでくださって、ありがとうございます。
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それを力にして、頑張っていきます。




