大森加奈子
大森加奈子。
子どもの頃から太っていた。
それをからかう人間も多かったが、気にすることもなかった。
余りにも度が過ぎると、幼い頃からやっている柔道の技で懲らしめた。
自分が美人ではないことは、小学校に上がる前から自覚していた。
だから、せめて他のことでは優秀になろうと思った。
幸い親は教育熱心で、求めれば幾らでも勉強させてもらえた。
父は中学校の教諭、母親は小学校の教諭だった。
最高の参考書と問題集が、常に目の前にあった。
勉強と柔道だけが、加奈子の夢中になるものだった。
それがもう一つ増えた。
16歳になった時、突然弟が生まれた。
どうしたら子どもが生まれるのかは、もちろん知っている。
両親は照れながら、娘に報告した。
生まれた弟は天使のように可愛かった。
加奈子は母親以上に弟を溺愛した。
弟は、そんな姉に大変懐いてくれた。
阪大の医学部に現役合格した。
家族で祝っているその席で、弟が意識を喪った。
最初はただ眠ったのかと思っていた。
幼い子どもにはよくあることだ。
しかし、一週間後には発熱し、呼吸が明らかに乱れていた。
意識もないことの方が増えてきた。
急性の、しかも重度の膿胸だった。
大きな病院で診察したときには、すでにフィブリンが多量に蓄積され、手の施しようがないと言われた。
両親は何とか治療できる病院を探し、加奈子も阪大に連絡して手を尽くした。
その中で、東京の港区の大病院を紹介された。
阪大のある教授が、面白い論文を読んだことがある、と言っていた。
加奈子の一家は、その論文を書いた医師に連絡する。
まだ三十代の若い医師は、とにかく注意深く移送するように言ってくれた。
長距離の患者の輸送に慣れた人間たちを派遣してくれ、ドレナージで何とか小康状態を維持している弟は、その医師のもとへ運ばれた。
石神高虎。
その医師の名前だった。
大柄で、整った顔。
その顔は強い意志が張り付いている。
若いのに、重厚な雰囲気があった。
どの病院でも不可能と言われていたが、石神は加奈子たち三人と話し合い、自分に任せて欲しいと言った。
膿胸は、フィブリンの形成前に治療するのが鉄則である。
一度フィブリンが形成されれば、治療は覚束ない。
「息子さんを診断した結果、フィブリンという硬質の物質が形成され、肺にまで癒着しています」
石神は、そう説明した。
「今はドレナージという管を通して洗浄をしていますが、もう効果はありません。外科手術をする必要があります」
加奈子たちは固唾を呑んで石神を見ている。
一つの言葉も聞き逃さない。
「ただ、息子さんはまだ二歳です。手術には体力的に非常な困難が考えられます」
「では、どうしたら」
「私に任せてください。できる限りの手を尽くします」
「分かりました。どうか息子を宜しくお願いします」
父親はそう言い、母親は石神の手を握り、泣いて頭を下げていた。
「先生」
「なんですか」
「弟は私の命です」
「そうか」
「必ず、お願いします」
「分かった。任せろ」
綿密な準備の上、手術が始まった。
十四時間もの長時間の手術が終わり、石神はフィブリンをすべて除去したと言った。
駆け寄る加奈子に、石神は言った。
「君の弟さんはすごいな! あんな大手術に全部耐えたぞ!」
「先生、ありがとうございました!」
「何しろさ、痛いって一言も言わないんだぜ」
「あの、先生、それは麻酔をしてたからじゃ」
「あーそうか! アハハハ!」
泣いていた加奈子の一家はみんなで笑った。
そういうことをしてくれる人間だった。
術後も、石神は絶対に油断しなかった。
抗生物質を吟味し、様々な薬品を的確に与え、変えていった。
三週間後にはドレナージも外され、弟は驚くほど元気になっていた。
「もうこれで大丈夫だろう。君ならば俺が言うまでもなく、弟さんを大事にするだろうしな」
「先生、本当にありがとうございました」
《我は包帯を巻くのみ、神が癒し賜う (Je le pansai, Dieu le guérit.)》
「俺が尊敬する近代外科の父アンブロワーズ・パレの言葉だよ。君は医者になるんだよな。覚えておくといい」
「はい!」
「俺たちが何か大きなことができるわけじゃないんだ。患者を生かそうとする力が、ほとんどなんだよ」
「でも、先生は私の最大の恩人です!」
「バカなことを言うなよ。俺なんてダメダメだよ」
石神はそう言って笑い、加奈子の頭をポンと叩いた。
「でもな、ちょっとでもそう思うなら、卒業したらうちの病院へ来いよ。君は根性がありそうだからな。鍛えてやるぞ」
「はい! 必ず伺います!」
優秀な成績で卒業し、加奈子は石神の病院へ入った。
真っ先に石神に挨拶に行く。
「ああ、あの時の!」
「はい、先生にお誘いしていただいた通り、この病院に入りました!」
「えと、誰だっけ?」
「今、「あの時の」っておっしゃいましたよね!」
「冗談だよ。ちゃんと覚えてる。そうか、じゃあ今日から仲間だ。よろしくな」
「はい!」
「弟さんは元気か?」
「はい、もちろんです!」
加奈子は石神が自分たちを覚えていてくれ、嬉しかった。
やがて石神は第一外科部長となり、加奈子は一江と共に引き入れられた。
体育会系の思考の加奈子は、当初一江とそりが合わなかった。
度々石神から鉄拳制裁を受ける。
お互いに口を利かず、重要な伝達がなされないことも多かった。
「お前らな、仲良くしろとは言わねぇ。だけど俺の部下だったら「その振り」だけはしろ!」
「「はい」」
「じゃあ、抱き合ってキスをしろ!」
「「は?」」
「やれ。俺に三度言わせる気か?」
やった。
「嫌だったら、今後は「振り」をしろ。次はパンツの中身を舐めさせるからな」
「「はい!」」
一江と加奈子は口を利くようになり、今度は衝突するようになった。
石神はその点では何も注意しなかった。
そのうちに、二人は仲良くなった。
二人ともが、石神を尊敬していることがよく分かったからだ。
二人はよく飲みに行き、泥酔して翌日の業務に障ることもあった。
石神から鉄拳を喰らい、二人で笑い合った。
一江から自分のマンションの空き室の話を聞き、加奈子はすぐに入居した。
一層、二人の仲は深まった。
一江が副部長に抜擢された。
大森は一江のために手料理を大量に作り、ずっと泣きながら「よかった」「おめでとう」「うれしい」と繰り返した。
「一江が石神部長の右腕になってくれたから、あたしはあんたの右腕になるよ!」
「バカ言わないでよ。あんたは部長の左腕よ」
「そうか!」
「ちょっと太いけどね」
「お前は細すぎだろう!」
二人は親友を見つけた。




